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赤い線の向こう側―疫病隔離施設。地面に赤い線が引かれ、越えた者は射殺される。  作者: 二条理|アコンプリス


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第四章 停電三分

 金曜の朝、蓮はいつもより早く目を覚ました。

 眠ったという実感はほとんどなかった。目を閉じていた時間があるだけで、その間も意識のどこかは起きていた。空調の音、遠くの足音、隣の空いたベッドの気配。どれもが浅い眠りの底に沈まず、耳のすぐ近くで漂っていた。

 午前五時二十分。

 負荷試験まで、二十一時間四十分。

 蓮は身体を起こした。背中の筋肉がこわばっている。床に足を下ろすと、支給靴に巻いた布が目に入った。莉子のタオルを裂いて作ったものだ。番号七〇二の文字は、結び目の内側に隠れている。

 蓮はその靴を履いた。

 部屋の中を一歩歩く。

 音は、ほとんどしない。

 もう一歩。

 布が床を擦る微かな感触が足裏に伝わる。靴底の硬い音は消えている。走れば音は出るだろう。それでも、何もしないよりはましだった。

 棚の上には、昨日の夜から何度も書き直した小さな紙片があった。

 数字だけが並んでいる。

 十二歩。

 四秒。

 二十秒。

 三十メートル。

 一分半。

 三分。

 誰かに見られれば意味を疑われる。だが、文章ではない。通路の長さや歩数を記しただけだとごまかせるかもしれない。もっとも、ごまかす機会が訪れた時点でほとんど終わっている。

 蓮は紙片を水に浸した。

 ふやけた紙を細かく千切り、排水口へ流す。

 頭の中には残っている。

 何度も繰り返した。

 配給ホールの入口から赤い線まで、十歩半。

 非常灯が点いたら動く。

 空調音が落ちる。照明が瞬く。白色灯が消え、赤い非常灯に切り替わる。

 そこから三分。

 タレットは自動では撃てない。

 ただし、手動監視に気づかれれば撃たれる。

 顔を上げすぎない。

 壁際を走る。

 処置ゲートを抜ける。

 管理通路を進む。

 機材保管室、職員小部屋、天井カメラ。

 一時観察室。

 リネン庫。

 情報を探す。

 莉子を思い出しすぎるな。

 名前を叫ぶな。

 死ぬな。

 自分に言い聞かせるほど、その言葉は頼りなくなった。

 朝の放送が鳴る前、蓮は莉子のベッドを見た。

 毛布はまだ乱れたままだ。

 彼は結局、直さなかった。そこだけが、莉子の不在を認めずにいられる場所だった。整えられた空のベッドより、乱れた空のベッドのほうがいい。誰かがついさっきまでそこにいたように見えるからだ。

 スピーカーが鳴った。

『東棟第七区画の皆様にお知らせします。本日の配給は、午前七時十分より開始します』

 いつもの声。

 いつもの文言。

 世界が変わってしまった後も、施設の放送だけは変わらない。

 蓮は支給袋を手に取った。

 ひとつだけ。

 七〇一番の袋だけだった。

 指先が一瞬止まる。

 それから、彼は部屋を出た。

 廊下には、すでに何人かが配給ホールへ向かって歩いていた。みな、蓮を見ると少しだけ視線を逸らした。昨日、莉子が陽性再判定で連れていかれたことは、区画中に広まっている。誰も直接は聞いてこない。聞かれたところで、答えようがない。

 心配している者もいるだろう。

 だが、それ以上に恐れている。

 佐伯莉子が連れていかれたという事実は、次は自分かもしれないという予告でもあった。

 配給ホールに入ると、赤い線が見えた。

 朝の白い照明の下で、その線はいつもと同じように床を横切っている。壁から壁まで、まっすぐに。少しも歪まず、少しも迷わず。

 昨日、莉子はこの線を越えた。

 許可された越境だった。

 撃たれなかった。

 けれど、戻ってこない。

 蓮は列に並んだ。

 七〇一番の位置。

 隣に七〇二番はいない。

「佐伯さん」

 三枝菜月が隣に来た。

 表情はいつもと変わらない。疲れているようで、冷静で、何かを押し殺している顔だ。彼女は蓮の靴に目を落とした。布はズボンの裾に隠れて、ほとんど見えない。

「眠れた?」

「少し」

「嘘ね」

「三枝さんは」

「眠れなかった」

 蓮は赤い線を見たまま言った。

「今夜です」

「知ってる」

「止めますか」

「止めても行くんでしょう」

「はい」

 三枝は小さく息を吐いた。

「なら、確認だけする」

 彼女の声は、周囲に聞こえないほど低かった。

「目的は莉子ちゃんの救出じゃない。所在確認。記録の確認。可能なら処置室周辺の情報を取る。無理なら隠れる。追われたら逃げる。職員に触らない」

「わかってます」

「わかっている人間の顔じゃない」

 蓮は答えなかった。

 三枝は続けた。

「向こう側に行った瞬間、妹の兄でいることをやめなさい。そうしないと死ぬ」

「やめられると思いますか」

「思わない」

「なら」

「だから、言ってる。できないことでも、頭に入れておくの。頭に入れておくだけで、一秒だけ止まれる。一秒止まれれば、死なずにすむことがある」

 蓮は、三枝の横顔を見た。

 彼女は赤い線の向こう側を見ていた。

 かつて、あちら側にいた人間の目だった。

「莉子は、生きていると思いますか」

 思わず、聞いていた。

 三枝はすぐには答えなかった。

 配給用の扉が開き、防護服の職員が台車を押して入ってくる。白い箱が積まれている。七〇一番の箱はある。七〇二番の箱はない。

「生きていると考えて動くしかない」

 三枝は言った。

「死んでいると考えた瞬間、あんたは壊れる。生きていると考えすぎても、判断を間違える。だから、可能性として扱う」

「可能性」

「冷たく聞こえるでしょう」

「ええ」

「でも、生き残るためには必要よ」

 七〇一番が呼ばれた。

 蓮は前に出て、箱を受け取った。

 栄養パック。水。錠剤。記録表。

 七〇二番は呼ばれない。

 その空白が、どんな銃声よりも大きかった。

 配給が終わった後、蓮はすぐに共同スペースへは戻らなかった。ホールを出る前に、足を止めた。職員はまだ台車を片づけている。防護服の一人が端末を見ている。もう一人が白い箱を積み直している。

 蓮は、赤い線から入口までの距離を視界の端で測った。

 十歩半。

 昨日より近く見える。

 いや、近く見えるのではない。

 越えると決めたから、距離の意味が変わったのだ。

 天井のカメラはホール中央を向いている。黒い半球の奥に、赤い光はない。銃口は沈黙している。だが、沈黙しているものほど恐ろしい。

「蓮」

 三枝が名前を呼んだ。

 蓮は視線を戻した。

「今は見るだけにして」

「見てるだけです」

「見すぎてる」

 蓮はホールを出た。

 その日一日、時間は奇妙な速さで進んだ。

 早くもあり、遅くもあった。

 午前中、蓮は共同スペースで栄養パックを飲んだ。味はわからなかった。三枝に言われた通り、食べられるだけ食べた。動くには糖分がいる。水分もいる。空腹や脱水は判断を鈍らせる。

 透が何度も近づいてきた。

「蓮兄」

 そう呼ばれるようになったのは、莉子が透にそう呼ばせたからだった。最初は嫌がっていた。兄でもないのに、と。しかし透が人懐っこくそう呼ぶうちに、訂正する気力がなくなった。

「莉子姉、いつ戻ってくるの」

 透は小さな声で聞いた。

 蓮は答えられなかった。

「すぐだ」

 嘘とも願望ともつかない言葉が出た。

 透はそれを信じたような、信じていないような顔をした。

「処置室、痛いのかな」

「わからない」

「お母さんも、あそこ行った」

 蓮は息を呑んだ。

 透の母親も、処置室へ運ばれたまま戻っていない。

「莉子姉も、戻ってこなかったら嫌だ」

 透の声は震えていた。

 蓮は彼の頭に手を置きかけ、やめた。

 三枝の言葉を思い出した。

 子供は顔に出る。

 今、透に余計な不安を与えるわけにはいかない。蓮が何かをしようとしていることを知られれば、透は必ず表情に出す。そして、その表情は周囲に伝わる。

「戻ってくる」

 蓮は言った。

「ほんと?」

「戻ってくるようにする」

 言ってから、しまったと思った。

 透が顔を上げる。

「何かするの?」

「何もしない」

「でも今、戻ってくるようにするって」

「待つって意味だ」

「蓮兄、嘘つくとき少し怖い顔になる」

 莉子と同じようなことを言う。

 蓮は、思わず目を逸らした。

「透」

 三枝がやって来た。

「洗濯室の棚に、小さい人形落ちてた。あんたのじゃない?」

 透の顔が変わった。

「ほんと?」

「さあ。見てきたら」

「行ってくる」

 透はすぐに走っていった。

 蓮は三枝を見た。

「助かりました」

「気をつけて。あの子、勘がいい」

「はい」

「あと、あんたは嘘が下手」

「妹にも言われました」

「でしょうね」

 三枝は短く言って、共同スペースを離れた。

 午後、蓮は洗濯室へ行った。名目は、衣類の洗濯だった。実際には、布をもう一枚調整するためだ。支給靴のつま先に巻いた布が少し緩い。走ったときに外れれば、転倒する危険がある。

 洗濯機の音に紛れて、彼は布を巻き直した。

 きつすぎると足指が動かない。緩すぎると外れる。何度も結び目を作り、解き、また結んだ。右足、左足。立ち上がって二歩、三歩。床を蹴る。音を聞く。もう一度。

 自分が何をしているのか、途中でわからなくなりそうだった。

 赤い線を越えるために、靴底に布を巻いている。

 それはあまりにも小さな準備だった。

 小さすぎて、絶望的だった。

 だが、これしかない。

 夕方、配給の時間になった。

 七〇二番の箱は、やはり出なかった。

 蓮は七〇一番の箱を受け取り、ホールに残った白い箱を見た。余りではない。誰かの分だ。戻ってこない者の分ではない。最初から予定された数だけが運ばれている。

 七〇二番は、もう計算に入っていない。

 蓮は箱を握りつぶしそうになった。

 共同スペースで食べながら、三枝が向かいに座った。

「今夜、負荷試験がなかったら」

「そんなことがあるんですか」

「延期されることはある」

「その時は?」

「動かない」

「また一週間待てと?」

「動かない」

 三枝の声は固かった。

「主電源停止なしに赤い線を越えれば、撃たれるだけ。莉子ちゃんのところには届かない」

 蓮は歯を食いしばった。

「一週間後まで、莉子が生きている保証はない」

「今夜死ぬ保証ならある」

 蓮は三枝を睨んだ。

 彼女は視線を逸らさなかった。

「怒っていい。でも、間違えないで。あんたが死ねば、莉子ちゃんを探す人間が減る」

 蓮は何も言わなかった。

 食事の味は、やはりしなかった。

 夜が来た。

 消灯時間を過ぎると、居住区はいつものように静かになった。だが蓮には、その静けさが昨日までとは違って聞こえた。

 すべてが待っている。

 空調も、壁も、天井も、赤い線も。

 負荷試験まで、あと三時間。

 蓮は横にならなかった。ベッドに座り、呼吸を整えた。時計を見る回数を減らそうとしたが、無理だった。二十三時五十分。零時十分。零時四十五分。一時二十分。

 時間は伸びたり縮んだりした。

 一時半を過ぎた頃、廊下で小さな足音がした。

 扉の下に影が落ちる。

 蓮は身を起こした。

 ノックはなかった。

 数秒後、扉の下から小さな紙片が差し込まれた。

 蓮はそれを拾った。

 手書きの短い文字。

 午前三時前後。予定変更なし。

 ホール入口左壁際。

 走り出しは非常灯点灯後。

 焦るな。

 三枝の字だった。

 蓮は紙片を口に入れ、飲み込んだ。

 味はしなかった。

 二時四十分。

 蓮は靴を履いた。

 布の結び目を確かめる。服の裾を直す。ポケットには何も入れない。手には何も持たない。顔には支給マスク。髪は手で押さえて乱れを少なくした。

 部屋を出る前に、莉子のベッドを見た。

 戻れなければ、この部屋を見るのも最後になる。

 そう思った瞬間、胸がつかえた。

 戻ることを考えるな。

 三枝の声を思い出す。

 しかし、戻らないことを受け入れたわけではない。戻れないかもしれないと知っているだけだ。

 蓮は扉を開けた。

 廊下は青白い夜間照明に沈んでいた。

 靴音は小さい。布が効いている。呼吸を浅くし、普通に歩く。走らない。急がない。トイレに向かうような顔で歩く。洗濯室へ行くような歩幅で歩く。

 曲がり角の監視カメラを過ぎる。

 共同スペースは暗い。数人が椅子で眠っている。誰かの寝息が聞こえる。透の姿はない。部屋で眠っているのだろう。

 蓮は配給ホールへ向かった。

 ホール入口の左壁際。

 三枝の紙にあった場所だ。

 そこは廊下の影が少し濃く、監視カメラの正面から外れている。完全な死角ではないが、立っていても目立ちにくい。

 すでに三枝がいた。

 棚の影に立ち、清掃用の布袋を持っている。夜間に清掃道具を運んでいるように見える。彼女は蓮を見ると、小さくうなずいた。

「来たね」

「はい」

「今ならまだ戻れる」

「戻りません」

「でしょうね」

 三枝は布袋を蓮に渡した。

「中に古いシーツが入ってる。処置ゲートの向こうで滑りそうな床があったら使って。あと、顔を隠したいときにも」

「荷物は持たないと言ったはずでは」

「行く前は持たないほうがいい。越えた後は、何もないよりまし」

 蓮は布袋を受け取った。

 軽い。

 片手で持てる。

「無理なら捨てて」

「わかりました」

 三枝はホールの中を見た。

 赤い線は夜間照明の下では黒ずんで見えた。赤というより、乾いた傷跡のようだった。線の向こう側は暗い。処置ゲートの輪郭だけがぼんやり見える。

「空調音が落ちる」

 三枝は囁いた。

「その直後、照明が瞬く。白色灯が消えたら、一拍置いて非常灯が点く。非常灯が点いた瞬間から数えて」

「三分」

「主電源が復旧するまで、約三分。絶対に三分ぴったりとは限らない。二分半で戻ることもあると思って」

「二分半で動きます」

「違う」

 三枝の声が厳しくなった。

「二分半で隠れるの。進むんじゃない」

 蓮はうなずいた。

「処置ゲートを越えたら右壁沿い。中央を走らない。床の中央は音が響く。十秒ごとに呼吸を整える。全力疾走しない。向こうで倒れたら終わり」

「はい」

「一時観察室の扉が閉まっていたら、無理に開けない。記録端末を探す。表示を読む。七〇二、佐伯莉子、B2、処置室、観察。どれか一つでも見たら覚える」

「写真は」

「端末を持ち出せない。撮る道具もない。目で覚えて」

「はい」

「職員に会ったら、顔を伏せる。患者服を見られたら終わる。逃げられるなら逃げる。逃げられないなら隠れる。話そうとしない」

「わかってます」

「わかってない」

 三枝は蓮の目を見た。

「莉子ちゃんを見つけても、連れて帰れるとは限らない」

 蓮は答えなかった。

「歩けない状態かもしれない。鍵があるかもしれない。医師がいるかもしれない。時間がないかもしれない。その時、あんたはどうする」

「連れて帰ります」

「違う」

「置いていけと?」

「死なないで」

 三枝の声が、初めて少し震えた。

「妹を見捨てろと言ってるんじゃない。助ける回数を一回で終わらせないでと言ってるの」

 蓮は、三枝の顔を見た。

 彼女は怒っているようにも見えたし、泣きそうにも見えた。

「わかりました」

「本当に?」

「たぶん、全部はわかってません」

 三枝は少しだけ目を伏せた。

「そのくらいでいい」

 二時五十八分。

 ホールは静まり返っている。

 天井のカメラはゆっくりと首を振っていた。赤い線の手前、奥、入口、処置ゲート。一定の間隔で視線を動かす。タレットの銃口は天井に沈んでいる。

 二時五十九分。

 蓮は壁に背中をつけた。

 布袋を握る手に汗が滲む。

 三枝は少し離れた位置に立った。彼女が蓮の近くにいすぎると、監視で不自然に見えるからだ。

 三時ちょうど。

 何も起きなかった。

 一秒。

 二秒。

 三秒。

 蓮の心臓が跳ねる。

 延期か。

 そう思った瞬間、施設全体から低い唸りが消えた。

 空調音が落ちた。

 耳の奥に、痛いほどの静寂が広がる。

 蛍光灯が一度、瞬いた。

 白い光が細かく震え、次の瞬間、消えた。

 完全な闇にはならなかった。

 一拍遅れて、赤い非常灯が点いた。

 ホール全体が、血の底のような色に沈んだ。

 天井のカメラの動きが止まる。

 三枝の声が聞こえた。

「今」

 蓮は走り出した。

 最初の一歩で、布を巻いた靴底が床を掴んだ。滑らない。音も小さい。

 一、二、三、四。

 赤い線が近づく。

 何度も見た線。

 越えれば撃たれる線。

 老人の血を吸った線。

 莉子を奪った線。

 蓮は、線の手前で止まらなかった。

 足が赤い線を越えた。

 警告音は鳴らない。

 銃声もない。

 身体のどこかが、それでも撃たれると思っていた。背中に弾丸が入る感覚を想像していた。だが、何も起きなかった。

 赤い線は、ただ床に引かれた塗料だった。

 五、六、七、八。

 処置ゲートへ向かう。

 ゲートは閉じている。だが負荷試験中、センサーが一瞬リセットされると三枝は言っていた。蓮は布袋を左手に持ち替え、右手でゲートの端を押した。

 開かない。

 心臓が止まりかけた。

 もう一度押す。

 わずかに動いた。

 蓮は肩を入れて押し込む。

 透明な扉が、人ひとり分だけ開いた。

 消毒液の匂いが強くなる。

 彼は身体を滑り込ませた。

 ゲートの向こう側。

 管理区域。

 初めて見る場所のはずなのに、そこは想像よりも狭かった。白い通路。壁に埋め込まれた配管。床に貼られた矢印。天井には小さなカメラがあるが、首振りは止まっている。

 赤い非常灯が、通路の奥を点々と照らしている。

 蓮は右壁沿いに走った。

 全力ではない。

 呼吸を殺し、足音を殺す。

 十秒。

 二十秒。

 通路は緩く右へ曲がっている。

 左に機材保管室。

 扉には小さな窓がある。中は暗い。通り過ぎる。

 右に職員用小部屋。

 扉は半開きだった。

 中から、端末の青白い光が漏れている。

 誰かがいる。

 蓮は壁に背中をつけ、息を止めた。

 小部屋の中で、椅子が軋む音がした。

「また切替かよ」

 男の声。

「三分で戻る。ログ見とけ」

 別の声。

 職員が二人。

 蓮の口の中が乾いた。

 通路の中央に出れば、見つかる可能性がある。だが止まっている時間はない。職員たちは端末を見ている。非常灯で通路は暗い。患者服は灰色。壁際を走れば、視界の端で済むかもしれない。

 三枝の言葉。

 想定していない場所には、油断がある。

 蓮は姿勢を低くし、壁沿いに進んだ。

 小部屋の前を通過する。

 男の一人が咳払いをした。

 蓮は止まらない。

 通過。

 三十秒。

 四十秒。

 天井カメラの下を抜ける。

 カメラは止まっている。録画は残るかもしれない。だが今はどうしようもない。

 通路の奥に、赤いランプが見えた。

 一時観察室。

 扉の横に、表示パネルがある。

 赤いランプ。

 使用中。

 蓮の心臓が激しく鳴った。

 中に誰かがいる。

 莉子かもしれない。

 扉は閉まっている。透明な小窓があるが、内側には曇り加工がされていて見えない。

 蓮は表示パネルに近づいた。

 画面には文字が並んでいる。

 電源切替中のため一部機能制限。

 観察室A使用中。

 対象番号:六九五。

 状態:鎮静下経過観察。

 六九五。

 莉子ではない。

 昨日、一緒に連れていかれた若い男の番号だった。

 蓮は息を吐きかけ、すぐに止めた。

 莉子はどこだ。

 隣の扉を見る。

 観察室B。

 青いランプ。

 空室。

 観察室C。

 白いランプ。

 清掃中。

 莉子の番号はない。

 一分十秒。

 まだ進める。

 蓮は通路の奥へ向かった。

 処置室の表示が見えた。

 白い扉。覗き窓なし。横に端末がある。画面は暗い。認証待機中。

 その手前に、壁付けの小型端末があった。三枝が言っていた記録端末かもしれない。画面には非常電源モードの文字。下に、直近搬送リストという項目が開いたままになっている。

 蓮は画面に顔を近づけた。

 字が小さい。

 赤い非常灯のせいで読みづらい。

 五九二 観察A一時待機後、処置室二へ。

 六一八 処置室一。

 六九五 観察A。

 七〇二 処置室三経由、B2保管庫へ移送。

 蓮の呼吸が止まった。

 七〇二。

 処置室三経由。

 B2保管庫へ移送。

 莉子は、ここにはいない。

 地下だ。

 B2保管庫。

 三枝が口にした言葉。

 その文字を見た瞬間、頭の中が白くなりかけた。保管庫とは何だ。なぜ人間が保管庫へ送られる。莉子は生きているのか。処置室三で何をされたのか。

 画面が一瞬揺れた。

 電源復旧予告。

 残り三十秒。

 蓮は我に返った。

 二分半。

 三枝の声が頭に響く。

 二分半で隠れる。

 進むな。

 蓮は端末から離れた。

 リネン庫。

 どこだ。

 図面を思い出す。

 処置室の手前、右側。職員用作業室の隣。

 蓮は右側の扉を探した。

 作業室。

 その隣に、小さな扉。

 表示はない。

 ノブを回す。

 開かない。

 鍵か。

 いや、引くのではなく押すタイプ。

 蓮は身体を押し当てた。

 扉が内側へ開いた。

 暗い。

 洗濯済みのリネンが棚に積まれている。消毒された布の匂い。狭い部屋。人ひとりが身を隠すには十分だが、長くいれば見つかる。

 蓮は中に滑り込み、扉を閉めた。

 直後、施設の奥で低い音がした。

 主電源が戻る音だった。

 白い照明が、扉の隙間から差し込んだ。

 空調が再び唸り始める。

 遠くで、電子音が連続して鳴った。

『主電源復旧。各系統確認中』

 放送の声が、廊下に流れた。

 蓮はリネンの棚の影にしゃがみ込んだ。

 息を殺す。

 鼓動が大きすぎる。

 外で足音がした。

「ログ戻った?」

「待て。観察カメラが一部飛んでる」

「いつものことだろ」

「いや、処置ゲートの開閉履歴がある」

 蓮の背中に冷たい汗が流れた。

「開閉?」

「切替中に一回。手動扱いになってる」

「誰か通ったのか」

「知らん。映像出せ」

 足音が近づく。

 蓮は棚の奥へ身体を押し込んだ。

 リネンの布袋を胸に抱く。布の匂いが強い。消毒液と乾燥機の熱が混じった匂い。息を吸うと咳が出そうになる。必死にこらえた。

 扉の前で足音が止まった。

「リネン庫は?」

「見とくか」

 ノブが動いた。

 蓮は目を閉じた。

 扉が少し開く。

 白い光が細く差し込む。

 その時、廊下の向こうから別の声がした。

「処置室三、真鍋先生が呼んでる。六一八のバイタル落ちた」

「今?」

「今」

 リネン庫の扉が止まった。

 職員が舌打ちした。

「あとで確認する」

 扉が閉まる。

 足音が遠ざかる。

 蓮は、しばらく動けなかった。

 真鍋。

 処置室三。

 六一八のバイタル。

 昨日、莉子と一緒に連れていかれた老人だ。

 では莉子は、処置室三を通ってB2保管庫へ移された。

 なぜ。

 保管庫とは、どんな場所なのか。

 生きている者が行く場所なのか。

 それとも。

 蓮は考えるのをやめた。

 今、考えれば動けなくなる。

 彼は自分の腕を強くつねった。痛みで意識を戻す。

 目的は達した。

 七〇二。処置室三経由。B2保管庫へ移送。

 この情報を持ち帰る。

 だが、どうやって。

 赤い線はもう復旧している。

 タレットも動いている。

 処置ゲートの開閉履歴は残った。監視員が確認している。リネン庫もいずれ見られる。

 戻る道は閉ざされた。

 三枝は言った。

 観察室まで行けば、戻る時間はない。

 その通りだった。

 蓮はリネン庫の床に座り、扉の隙間から漏れる光を見つめた。

 赤い線の向こう側に来た。

 そして、向こう側に取り残された。

 だが、後悔はなかった。

 莉子の番号を見た。

 彼女の行き先を知った。

 それだけで、彼はまだ壊れずにいられた。

 B2保管庫。

 その言葉を、蓮は何度も心の中で繰り返した。

 忘れないために。

 恐怖に塗りつぶされないために。

 リネン庫の外で、また足音が近づいてきた。

 今度は一人だった。

 歩幅がゆっくりしている。

 職員ではない。

 もっと静かな足音だった。

 扉の前で止まる。

 蓮は息を止めた。

 ノックが二回。

 ありえないことだった。

 職員ならノックなどしない。

 扉が少しだけ開いた。

 白衣の袖が見えた。

 マスク越しの低い声がした。

「七〇一番、佐伯蓮」

 蓮は動かなかった。

 声の主は続けた。

「妹を探しに来たのなら、ここで音を立てるな」

 蓮の脳裏に、処置ゲートの向こうで見た白衣の男の目が浮かんだ。

 真鍋。

 三枝が名前を呼んだ男。

 扉の隙間から、その男の目が見えた。

「三分でここまで来たのか」

 真鍋は、呆れたように、しかしどこか痛ましげに言った。

「無茶をする」

 蓮は声を絞り出した。

「莉子はどこだ」

「今は答えられない」

「B2保管庫へ移送と出ていた」

 真鍋の目がわずかに変わった。

「見たのか」

「答えろ。莉子は生きているのか」

 廊下の奥で、職員の声がした。

 真鍋は扉をさらに少し開けた。

「ここにいれば見つかる。出ろ」

「信用できない」

「信用しなくていい。生きたいなら出ろ」

「莉子は」

「生きている可能性はある」

 その言葉は、三枝のものと同じだった。

 可能性。

 確かではない。

 それでも、蓮の胸に空気が入った。

 真鍋は早口で続けた。

「B2へ行くには認証が必要だ。今のお前には無理だ。まず隠れる場所を変える。この先の廃棄リフト室なら、午前五時まで人が来ない」

「なぜ助ける」

「助けているわけじゃない」

「じゃあ何だ」

 真鍋は答えなかった。

 かわりに、廊下の奥を見た。

「足音が来る。選べ。ここで見つかるか、私についてくるか」

 蓮は一秒だけ迷った。

 三枝の言葉を思い出す。

 一秒止まれれば、死なずにすむことがある。

 止まった後に、選ぶ。

 蓮は立ち上がった。

 布袋を握り直し、リネン庫を出る。

 廊下の白い光が目に刺さった。

 真鍋は振り返らずに歩き出した。蓮はその後ろに続く。職員用の白衣の陰に隠れるように、距離を詰めすぎず、離れすぎず。

 管理区域の空気は、隔離区域よりも少し暖かかった。

 それが、ひどく腹立たしかった。

 同じ建物の中で、赤い線一本を隔てただけで、空気の温度まで違う。

 通路の角を曲がる直前、蓮は一度だけ振り返った。

 遠くに、処置ゲートの透明な扉が見えた。

 その向こうに、赤い線がある。

 蓮はもう、こちら側にいる。

 戻ることはできない。

 進むしかない。

 真鍋が低く言った。

「急げ」

 蓮は前を向いた。

 莉子はB2保管庫にいる。

 生きている可能性はある。

 それだけを握りしめて、蓮は白い通路の奥へ進んだ。



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