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赤い線の向こう側―疫病隔離施設。地面に赤い線が引かれ、越えた者は射殺される。  作者: 二条理|アコンプリス


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第三章 三分間の穴

 夜になると、施設の白さは少しだけ弱まった。

 蛍光灯の数が減るわけではない。壁も床も天井も、昼と同じように白い。空調の音も、監視カメラの低い駆動音も、何ひとつ変わらない。けれど夜の白は、昼の白よりもずっと薄く、底が見えない。

 人の気配が減るからだ、と蓮は思っていた。

 昼間はまだ、誰かが動いている。配給の列ができ、検査の順番を待ち、共同スペースで紙コップを持つ。誰もが疲れていて、誰もが黙っている。それでもそこには、生活の残骸のようなものがあった。

 だが夜になると、それすら消える。

 ベッドの上で息を潜める者たち。眠れないまま天井を見ている者たち。咳を殺そうとして毛布を噛む者たち。泣き声を出さずに泣く者たち。

 音が少なくなるほど、施設そのものの音が近づいてくる。

 空調。配管。監視装置。遠くで閉まる自動扉。何かを運ぶ台車の車輪。どこかの部屋で鳴る短い電子音。

 そして、ときおり聞こえる。

 赤い線の向こう側から響く、靴音。

 蓮はベッドに横になっていなかった。

 背中を壁につけ、床に座っていた。膝を立て、その上に両腕を乗せている。隣のベッドは空だった。莉子の毛布は、朝のまま畳まれていない。彼女が検査へ向かう前に出た形のまま、少しだけ乱れている。

 蓮は、それを直せなかった。

 直せば、莉子がいないことを認めるような気がした。

 午後、処置ゲートの透明な扉が閉まった。消毒ミストで莉子の姿が白くかき消された。それから七時間が経っている。

 通知はない。

 死亡通知も、処置完了通知も、経過観察通知もない。

 ただ、莉子の番号は夕方の配給リストから消えていた。

 七〇二番の箱は、押し出されなかった。

 それだけだった。

 蓮は、何度もその事実を頭の中で反芻した。

 いなくなったわけではない。

 処置室にいるだけだ。

 赤い線の向こう側にいるだけだ。

 まだ生きている。

 そう考えようとするたびに、母の記憶が重なった。母の番号も、同じように消えた。七〇〇番の配給箱が出なくなり、ベッドが片づけられ、誰も名前を呼ばなくなった。

 施設は、人間を殺すとき、まず日課から消す。

 それから、記録から消す。

 最後に、周囲の人間の声から消す。

 蓮は、妹の名前を口の中で呟いた。

「莉子」

 声にならなかった。

 部屋の扉の上には、小さな監視ランプがついている。赤くはない。青白い光だ。青白いほうがかえって嫌だった。こちらを冷静に見ているように感じられる。

 蓮は立ち上がった。

 時計は二十三時四十分を示していた。

 三枝は、夜に洗濯室の奥へ来いと言った。監視カメラの死角がある、と。

 その言葉を信じていいのかどうか、蓮にはわからなかった。

 三枝菜月は何かを知っている。莉子が連れていかれたとき、彼女は処置室に入った全員がすぐ死ぬわけではないと言った。処置ゲートの向こうにいた真鍋という白衣の男の名も知っていた。

 彼女はただの隔離者ではない。

 だが、それが味方である証拠にはならなかった。

 この施設では、味方に見える人間ほど、何かを隠している。

 蓮は扉に耳を近づけた。

 廊下の音を聞く。

 遠くで空調が鳴っている。誰かの咳。短い足音。それから静寂。

 蓮は扉を開けた。

 廊下には薄い夜間照明が灯っていた。昼間の白色灯よりも暗く、青みがかっている。そのせいで、壁も床も病院ではなく、水槽の内側のように見えた。

 東棟第七区画の夜間移動は原則禁止されている。

 ただし、トイレ、給水、洗濯室の利用は認められている。三枝が洗濯室を選んだのは、そのためだろう。

 蓮は足音を殺して歩いた。

 居住区の扉が並んでいる。各部屋には二人から四人が割り当てられている。部屋の中から寝息が聞こえるところもあれば、まったく音がしないところもある。誰もが眠っているわけではない。眠れない者ほど、音を立てない。

 廊下の曲がり角に、監視カメラがある。

 蓮はいつものように、カメラの下を通った。避ける動きをすれば、かえって怪しまれる。ここでは、不自然に見えないことが唯一の防御だった。

 洗濯室は居住区の奥にある。

 透明な樹脂扉の向こうで、洗濯機が四台並んでいた。すべて施設仕様で、家庭用より大きい。蓋はロック式。洗剤は壁から自動注入される。使用時間は端末で管理され、番号ごとに記録される。

 蓮が入ると、一台だけ低く回っていた。

 脱水の振動が床から伝わってくる。規則的な振動。水が抜ける音。

 三枝は、奥の棚の影に立っていた。

 灰色の上着を羽織り、髪を後ろで結んでいる。昼間より顔色が悪く見えた。夜間照明のせいだけではないだろう。

「遅かったね」

「考えてました」

「来ないかと思った」

「来なかったら?」

「それでも、いつか来たと思う」

 蓮は扉のほうを振り返った。

「ここ、本当に聞かれてないんですか」

「完全に安全な場所なんてない」

「なら」

「この棚の裏だけ、カメラの角度が甘い。音も洗濯機の振動に紛れる。大声を出さなければ、内容までは拾われにくい」

「なぜ知ってる」

 三枝は答える前に、壁際の乾燥機を操作した。空の乾燥機が回り始める。低い唸りが加わり、部屋の音が少し厚くなった。

「二年前、私は線の向こう側にいた」

 蓮は動かなかった。

 予想していなかったわけではない。

 だが、実際に言葉として聞くと、胸の奥が冷えた。

「職員だったんですか」

「正確には、外部派遣の看護師。感染症対応の臨時チームに組み込まれて、この施設に来た。最初の三か月だけね」

「その後、なぜこっち側に」

 三枝は自嘲するように笑った。

「体調を崩したから。発熱と倦怠感。簡易検査で陽性疑い。観察のために一時的に隔離区域へ入れられた」

「一時的に?」

「そう。最初は一時的だった」

 洗濯機が回る音の中で、三枝の声は奇妙に静かだった。

「でも、一度こちら側に入ったら戻れなかった。再検査は陰性だった。それでも、上は私を戻さなかった。理由は教えられない。ただ、私が見たものが多すぎたんだと思う」

「見たもの?」

「処置室。記録。投薬リスト。戻らなかった患者たち」

 蓮の喉が鳴った。

「莉子はどこにいる」

 三枝はすぐには答えなかった。

「わからない」

 蓮は彼女に詰め寄った。

「知らないのに、全員がすぐ死ぬわけじゃないと言ったんですか」

「本当のことよ」

「莉子は生きてるのか」

「可能性はある」

「可能性じゃなくて――」

「ここで確かなことを言う人間を信用しないほうがいい」

 三枝の声が鋭くなった。

「この施設で確かなのは、赤い線を越えたら撃たれることだけ。それ以外は、全部隠されてる」

 蓮は言葉を飲み込んだ。

 怒鳴りたかった。

 だが怒鳴っても、莉子は戻らない。

 三枝は乾燥機の回転窓を見つめながら続けた。

「処置室には段階がある。最初は赤線前処置ゲート。そこで消毒と再確認。次に一時観察室。そこから先は、症状や判定によって分かれる。軽い者は経過観察。重い者は処置室。さらに先に、地下へ移される者がいる」

「地下?」

「私は地下までは入ったことがない。でも、記録上はあった。B2保管庫」

 蓮はその言葉を覚えた。

 B2保管庫。

 意味はわからない。

 だが、嫌な響きだった。

「莉子はそこへ?」

「まだわからない。陽性再判定の直後なら、一時観察室にいる可能性のほうが高い」

「どこですか」

「管理区域の奥。赤い線の向こう側」

「行く方法は」

 三枝は蓮を見た。

「それを話すために呼んだ」

 蓮は息を止めた。

 洗濯機の振動が、床から足の裏に伝わってくる。

 三枝はポケットから折り畳んだ紙を取り出した。紙は何度も開かれた跡があり、角が擦り切れていた。彼女はそれを棚の上に広げた。

 手書きの簡略図だった。

 居住区。共同スペース。配給ホール。検査室。洗濯室。赤い線。管理区域側の通路。処置ゲート。

 蓮は紙を見下ろした。

「これを、あなたが?」

「記憶で描いた。正確ではない。でも大きくは外れていないはず」

「なぜ今まで見せなかった」

「見せる相手がいなかった」

「俺なら信用できると?」

「信用じゃない」

 三枝は静かに言った。

「あんたは、もう止まらない顔をしてる。止まらない人間に必要なのは、無謀な勇気じゃなくて、手順よ」

 蓮は図面に目を戻した。

 赤い線の向こう側に、細い通路が描かれている。処置ゲートから一時観察室まで、およそ三十メートル。その先に処置室。さらに奥に、階段らしき記号がある。

「ここへ行ければ、莉子を探せる」

「行ければね」

「赤い線を越えれば撃たれる」

「通常は」

 蓮は顔を上げた。

「通常は?」

 三枝は、図面の赤い線の上に指を置いた。

「この施設は、完全に無停止では動いていない。表向きは非常用電源を含めた多重管理になっているけれど、設備が古い。特に東棟は、増築と改修を繰り返しているせいで、電源系統に癖がある」

「電源?」

「週に一度、負荷試験がある。主電源を意図的に落として、非常電源に切り替える。表向きは安全確認。実際には、古い設備をだましだまし動かすための調整でもある」

 蓮は図面を見つめた。

「その間、赤い線の監視はどうなる」

「非常灯はすぐ点く。生命維持設備も落ちない。扉の基本ロックも生きている。だから、施設側は停電とは呼ばない」

「でも」

「主電源が復旧するまで、約三分かかる」

 三分。

 蓮はその数字を心の中で繰り返した。

「その三分間、自動監視タレットは完全には動かない」

 三枝の声は、さらに低くなった。

「カメラの録画は残る。赤外線の補助監視も一部は生きている。でも照準補正と発砲許可システムが止まる。つまり、自動では撃てない」

「手動なら?」

「監視員が気づいて、手動でロックを外せば撃てる。でも主電源切替の直後は、向こうも確認作業で忙しい。画面も一時的に乱れる」

「三分間だけ、赤い線を越えられる」

「正確には、越えても即座には撃たれにくい」

「十分です」

「十分じゃない」

 三枝は即座に言った。

「処置ゲートまで行くのに二十秒。通路を抜けるのに三十秒。観察室の扉まで一分半。そこで莉子ちゃんが見つかる保証はない。戻る時間もない」

「戻れなくてもいい」

「よくない」

「妹が向こうにいる」

「向こうに行って、あんたまで捕まれば何も残らない」

「ここに残っても何もできない」

 蓮の声が少し大きくなった。

 三枝が手で制した。

 乾燥機の音が唸っている。

 蓮は息を整えた。

「いつですか」

「何が」

「負荷試験」

 三枝は迷った。

 蓮はその目を見ていた。

「知ってるんですよね」

「昔のままなら、金曜の午前三時」

「今日は」

「水曜」

「あと二日」

「そう」

 蓮は目を閉じた。

 二日。

 莉子が連れていかれてから、二日後。

 長すぎる。

 だが、方法がある。

 赤い線を越える方法が。

 それだけで、頭の中に熱が戻ってくるようだった。

「もっと早い方法は」

「ない」

「処置ゲートを開ける方法は」

「ない。通常時は管理側の認証が必要。こっち側からは開かない」

「通気口は」

「人が通れる太さじゃない」

「排水路」

「途中に格子がある」

「壁を壊す」

「工具がない。音で気づかれる」

 蓮は図面を睨んだ。

 どの道も閉じている。

 赤い線だけが、三分間だけ薄くなる。

「なぜ、それを知ってるんですか」

 三枝は少し黙った。

「一度、事故があった」

「事故?」

「まだ私が向こう側にいた頃。負荷試験中に、隔離者が赤い線を越えた。認知症の男性だった。赤い線の意味をよく理解できていなかったのかもしれない。通常なら即時処分。でもそのとき、タレットは作動しなかった」

「助かったんですか」

 三枝は首を横に振った。

「三分後に主電源が戻って、職員が拘束した。その後、処置室へ運ばれた」

「戻ってきた?」

「戻ってこなかった」

 蓮は拳を握った。

「それを見て、三分間の穴に気づいた?」

「私は看護師だったけど、現場の監視記録を見る機会があった。事故報告書には、照準補正システムの一時停止と書かれていた。上はその後、運用で対策すると言った。設備そのものは更新されていない」

「なぜ更新しない」

「予算。秘密保持。施設の存在そのものを外に出せないから、大規模改修ができない」

 三枝の口調には、苦いものが混じっていた。

「ここは完璧な牢獄じゃない。完璧に見せかけた、継ぎ接ぎの箱よ。だから穴がある。でも穴は小さい。無理に通ろうとすれば、身体が裂ける」

 蓮は図面を見続けた。

 処置ゲート。

 一時観察室。

 処置室。

 B2保管庫。

 莉子はどこにいる。

 今、何をされている。

 泣いているのか。眠らされているのか。痛みをこらえているのか。それとも、兄が何もできなかったことを責めずに、ただ帰ることを信じているのか。

 蓮はその想像を振り払った。

 想像は役に立たない。

 必要なのは手順だ。

「三分間で観察室まで行く」

 三枝が首を横に振った。

「無謀」

「処置ゲートの奥の通路が三十メートル。一時観察室までなら走れば届く」

「届いたとして、扉が開かなければ終わり」

「開け方は」

「認証式」

「職員のカードが必要?」

「カードと生体認証」

「なら無理か」

「一時観察室の扉は、内側から開くことがある。処置対象者の搬送や医師の出入りでね。タイミングが合えば入れる」

「偶然頼みですか」

「だから無謀と言ってる」

 蓮は図面の通路を指でたどった。

「処置室へは」

「さらに奥。三分では無理」

「B2へは」

「論外」

 蓮は口元を押さえた。

 焦りが、胃の奥で固まっている。

 方法が見えた瞬間、方法の細さも見えた。赤い線は越えられるかもしれない。だが、その先で莉子を見つけ、連れ戻すことは、ほとんど不可能に近い。

 それでも、ゼロではない。

 ゼロではないというだけで、人はそこにしがみつく。

「戻る方法は」

 三枝は答えなかった。

「ないんですね」

「三分以内に戻るならある。でも観察室まで行けば、戻る時間はない」

「つまり、赤い線の向こうに取り残される」

「そうなる」

「その場合、隠れられる場所は」

 三枝は図面の一か所を指した。

「ここ。リネン庫。職員用の作業室の隣にある。昔はあまり使われていなかった。今も同じなら、数分程度は隠れられるかもしれない」

「そこから先は?」

「先は、わからない」

 蓮は小さくうなずいた。

 三枝は苛立ったように息を吐いた。

「わかってる? これは救出計画じゃない。自殺に近い侵入よ」

「でも、侵入はできる」

「蓮」

 初めて、三枝が名前で呼んだ。

 蓮は顔を上げた。

「莉子ちゃんを助けたいなら、死なないことを最優先にしなさい。感情で走るなら、私はこれ以上話さない」

「感情で走らない人間が、妹を助けに行けると思いますか」

「感情だけで走る人間は、妹に届く前に死ぬ」

 二人は睨み合った。

 乾燥機が停止した。

 部屋の音が一段、薄くなる。

 三枝はすぐに別の乾燥機を動かした。再び低い回転音が満ちる。

 その動作を見て、蓮は彼女がずっとこうやって生き延びてきたのだと理解した。

 音を重ねる。

 視線を避ける。

 感情を隠す。

 わずかな規則の隙間に、身体を押し込む。

 蓮にはできない生き方だった。

 だが、莉子を助けるには、そういう生き方が必要なのかもしれなかった。

「教えてください」

 蓮は言った。

「何を」

「向こう側の歩き方を。職員の目を避ける方法。通路の位置。監視の癖。全部」

 三枝は、しばらく黙っていた。

「本当に行くつもりなのね」

「行きます」

「止めても?」

「止まりません」

「莉子ちゃんに怒られるよ」

 蓮は少しだけ目を伏せた。

「怒られるなら、生きてるってことです」

 三枝は、その答えに何も言わなかった。

 かわりに、図面を蓮のほうへ押し出した。

「覚えて。持ち出しはできない。見つかれば終わる」

 蓮は図面を見た。

 三枝の説明は細かかった。

 赤い線の向こう側、処置ゲートを抜けた先の通路は、右に緩く曲がっている。左側には機材保管室。右側には職員用の小部屋。十五メートル進むと、天井カメラが一つ。主電源停止時には首振りが止まるが、録画自体は残る可能性がある。顔を上げすぎないこと。走るなら壁際。床の中央は足音が響く。

 一時観察室の前には、赤いランプと青いランプがある。赤なら使用中。青なら空室。白なら清掃中。扉は通常ロックだが、搬送直後は三十秒ほど半ロックになることがある。

「半ロック?」

「扉が閉まっても、システム上の施錠が遅れる。内側から医師が出るための猶予。昔の仕様が残っている」

「そこを狙える?」

「狙うには、搬送のタイミングが必要」

「金曜の午前三時に搬送は?」

「普通はない」

「じゃあ無理だ」

「だから、観察室に入ることを目的にしないほうがいい」

 蓮は眉をひそめた。

「どういうことです」

「まずは向こう側に行き、状況を確認する。莉子ちゃんの所在を示す記録を探す。名前か番号がわかれば、次の動きが決められる」

「次の動きなんてあるんですか」

「行って帰るだけが救出じゃない」

 三枝は図面の機材保管室を指した。

「管理区域には端末がある。患者の移送記録を確認できる端末が、処置室周辺に一台はあるはず。認証が必要だけど、画面に直近の搬送リストが表示されたままのことがある」

「そんなずさんなことが?」

「ずさんなのよ。人間が運用してるから」

 三枝は続けた。

「職員は、自分たちが安全だと思っている。赤い線のこちら側の人間が向こうへ来るとは想定していない。想定していない場所には、必ず油断がある」

 蓮は、その言葉を胸に刻んだ。

 想定していない場所には、油断がある。

 完璧ではない。

 この施設は完璧ではない。

「金曜の負荷試験は、何時ぴったりですか」

「午前三時。だけど数分前後することがある」

「合図は」

「空調音が一瞬落ちる。照明が瞬く。その直後、非常灯に切り替わる。非常灯はすぐ点く。そこから主電源復旧までが約三分」

「タレットはその間、撃てない」

「自動ではね」

「三分を過ぎたら」

「再起動する。赤い線の向こう側にいる人間を認識すれば、警告か発砲。状況次第」

「警告なしのことも?」

 三枝は坂井の死を思い出したのか、わずかに表情を曇らせた。

「ある」

 蓮はうなずいた。

 身体の奥が、妙に冷静になっていくのを感じた。

 恐怖が消えたわけではない。

 莉子を失う恐怖が、施設に撃たれる恐怖より大きくなっただけだ。

「赤い線の上に立つと、どう判定される」

「通常なら越境。足先だけでも反応する」

「負荷試験中は?」

「録画はされる。後から確認されれば処分対象」

「後からなら、その場で撃たれない」

「その場で撃たれないだけ」

「十分です」

 三枝は不満そうに眉を寄せた。

「その言い方、やめなさい。あんたは何度も十分って言うけど、何ひとつ十分じゃない」

「じゃあ何と言えばいい」

「足りない、と言いながら準備するの」

 蓮は少し黙った。

 その言葉は、妙に胸に残った。

 足りない。

 時間も、情報も、力も、道具も、味方も足りない。

 足りないものだらけだ。

 それでも準備する。

 莉子を助けたいと叫ぶだけでは、赤い線は越えられない。

「何を準備すればいい」

 三枝は、初めて少しだけ頷いた。

「まず靴。支給靴は底が鳴る。布を巻いて音を殺す。走りにくくなるけど、裸足よりまし」

「布は」

「古いタオルを使う」

「他には」

「ライトは持たない。非常灯がある。手に物を持つと転んだとき危ない。水も持たない。重いだけ」

「武器は」

「持たない」

「職員に遭遇したら」

「逃げる。隠れる。殴らない」

「殴らなきゃ突破できない場合は」

「その時点で失敗」

 蓮は黙った。

 三枝は厳しかった。

 だが、その厳しさは蓮を止めるためだけのものではない。生き残らせるための厳しさだった。

「服は今のまま。色が目立たない。顔はマスクで隠す。髪は濡らさない。水滴が落ちると床に跡が残る」

「そんなところまで見るんですか」

「見る人間は見る」

「あなたなら?」

「見る」

 蓮は三枝の顔を見た。

 彼女が向こう側にいたという話は、おそらく本当だ。

 この人は、監視する側の目を知っている。

「金曜までに、赤い線の位置を確認する。歩幅も測る。どこから走り出せば、何歩で線を越えるか。処置ゲートまで何秒か。頭の中で何度も繰り返して」

「わかりました」

「それから、透くんに近づきすぎないで」

「透?」

「子供は顔に出る。あの子が異変に気づけば、周りも気づく」

 蓮は少し迷い、うなずいた。

 透に何かを話すつもりはなかった。だが、莉子がいなくなったことで、彼は蓮のそばに来たがるかもしれない。そこで蓮が普段と違う態度を取れば、透は気づく。

「他には」

 三枝は図面を折り畳みながら言った。

「莉子ちゃんを助けたいなら、莉子ちゃんを思い出しすぎないこと」

 蓮は目を上げた。

「どういう意味ですか」

「向こう側で泣いたり、名前を叫んだり、無理に探し回ったりするなってこと。あんたが行くのは妹を抱きしめるためじゃない。情報を取るため。見つけられなければ戻れない。戻れなければ次がない」

 その言葉は、蓮の胸を刺した。

 莉子を思い出しすぎないこと。

 そんなことができるわけがない。

 けれど、三枝の言っていることは正しい。

 赤い線の向こう側で、兄でいる時間はない。

 侵入者でいなければならない。

「三枝さん」

「何」

「あなたは、なぜ俺に協力するんですか」

 三枝は動きを止めた。

 乾燥機の中で、空のドラムだけが回っている。

「莉子のためですか」

「それもある」

「俺のため?」

「それは少し」

「じゃあ、一番は?」

 三枝は、乾燥機の回転窓に映る自分の顔を見た。

「坂井さん」

 蓮は老人の顔を思い出した。

 薬を拾おうとして撃たれた老人。

「私はあの日、止められなかった」

「誰も止められなかった」

「違う。私は赤い線の仕組みを知っていた。負荷試験の穴も、監視の癖も、職員の動きも。何もかもではないけど、普通の隔離者よりは知っていた。それなのに、黙っていた」

「話していたら、坂井さんは助かったんですか」

「わからない」

「なら」

「でも、黙っていたことは消えない」

 三枝の声は淡々としていた。

 淡々としているからこそ、その奥にあるものが重く聞こえた。

「ここでは、何も知らないふりをしていれば少し長く生きられる。私もそうしてきた。でも、長く生きることと、生き延びることは違うのかもしれない」

 蓮は、彼女の言葉をすべて理解できたわけではなかった。

 だが、三枝がこの二年間、ただ怯えていたわけではないことはわかった。彼女は知っていた。知っていて、黙っていた。その沈黙が、彼女をここまで生かしてきた。同時に、彼女を少しずつ削ってきた。

「莉子ちゃんが連れていかれたとき、あんたは線を越えようとした」

 三枝は言った。

「馬鹿だと思った。でも、羨ましいとも思った」

「羨ましい?」

「私はもう、あんなふうには動けない」

 蓮は何も言わなかった。

 三枝は図面を自分の服の内側へしまった。

「だから、せめて動く人間に、死なない方法を渡す」

 洗濯機が停止した。

 洗濯室の中に、一瞬だけ静けさが落ちる。

 二人は同時に扉のほうを見た。

 廊下で足音がした。

 一人ではない。二人。規則正しい靴音。職員の巡回だ。

 三枝はすぐに洗濯機の蓋を開け、中のシーツを取り出した。蓮にも目で合図する。蓮は近くの籠を持ち、シーツを受け取った。

 扉が開いた。

 防護服ではなく、夜間警備用の白い作業服を着た職員が二人、入口に立っていた。フェイスシールドはつけていないが、マスクで顔の半分は隠れている。

「こんな時間に何をしている」

 三枝が振り返った。

「洗濯です。六九五番の寝具が汚れたので」

 六九五番。

 今日、莉子と一緒に連れていかれた若い男の番号だ。

 職員は端末を見た。

「六九五番は隔離区域にいない」

「だから寝具を片づけています。戻るかどうかわからないなら、放置できません」

 蓮は黙ってシーツを畳んだ。

 心臓の音が大きい。だが、手は動かした。止まれば怪しまれる。

 職員の一人が蓮を見た。

「七〇一番。お前の洗濯時間ではない」

「手伝いです」

「誰の許可で」

 三枝がすぐに答えた。

「私が頼みました。シーツが重かったので」

「夜間の不要な接触は禁止されている」

「では次から職員の方にお願いします」

 職員は三枝を睨んだ。

 彼女は表情を変えなかった。

 沈黙が数秒続いた。

「終了後、直ちに各室へ戻れ」

「はい」

 職員たちはそれ以上追及せず、扉を閉めた。

 足音が遠ざかる。

 蓮は、ようやく息を吐いた。

 三枝はシーツを畳みながら言った。

「今のが向こう側の普通の目」

「怖くないんですか」

「怖いよ」

「そうは見えなかった」

「見せないだけ」

 三枝はシーツを籠に入れた。

「金曜まで、それを覚えておいて。怖がるな、じゃない。怖がっていないように見せる。向こう側では、それが命を分ける」

 蓮はうなずいた。

 洗濯室を出たとき、廊下の空気はさらに冷たくなっていた。

 三枝とは途中で別れた。彼女は六九五番の部屋へ寝具を運ぶふりをして、別の通路へ向かった。蓮は自室へ戻る。

 扉を閉めると、部屋の静けさが重くのしかかった。

 莉子のベッドは、やはり乱れたままだった。

 蓮はその前に立った。

 毛布の端に、莉子の髪が一本落ちている。短く切られた黒い髪。施設に来る前は、肩より少し長かった。母が「結べるくらいが似合う」と言っていた。ここへ来てから、衛生管理のために切らされた。

 蓮は髪を指でつまみ、棚の上に置いた。

 ばかげていると思った。

 髪一本を取っておいても、莉子が戻るわけではない。

 それでも捨てられなかった。

 ベッドに腰を下ろす。

 頭の中で、図面を再現した。

 居住区。

 配給ホール。

 赤い線。

 処置ゲート。

 管理通路。

 機材保管室。

 一時観察室。

 リネン庫。

 何度も、何度も、指で空中に線を引くようにして思い出す。

 非常灯はすぐ点く。

 主電源復旧まで三分。

 自動監視タレットは完全には作動しない。

 手動なら撃たれる。

 監視員に気づかれたら終わり。

 三分。

 たった三分。

 けれど、二年以上、一ミリも動かなかった赤い線に、初めて時間の継ぎ目が見えた。

 蓮は立ち上がり、靴を脱いだ。

 支給靴の底を指で叩く。硬い音がした。これでは廊下に響く。三枝の言った通り、布を巻く必要がある。

 古いタオルを棚から取り出した。

 莉子が使っていたものだった。端に小さく七〇二と番号が書かれている。蓮は一瞬ためらい、それからタオルを細く裂いた。

 布が破れる音が部屋に響く。

 蓮は靴底に巻きつけ、結び目を内側に入れた。歩いてみる。音は少し弱くなった。走ればどうなるか。部屋の中では試せない。

 次に、壁から赤い線までの距離を思い出した。

 配給ホールの入口から赤い線まで、およそ十二歩。自分の歩幅なら十歩半。走れば四秒。線を越えて処置ゲートまで、さらに二十秒。

 頭の中で数える。

 一、二、三、四。

 線を越える。

 五、六、七。

 ゲートへ。

 八、九、十。

 管理通路。

 そこから三十メートル。

 三分のうち、最初の一分でどこまで行けるか。

 戻るつもりで行くな。

 三枝の声が聞こえた気がした。

 情報を取る。

 莉子を思い出しすぎない。

 名前を叫ばない。

 泣かない。

 死なない。

 蓮は拳を握った。

 午前二時を過ぎても、眠気は来なかった。

 眠る必要があることはわかっていた。金曜まで体力を残さなければならない。だが、目を閉じると処置ゲートの白い霧が浮かんだ。その奥で莉子の輪郭が消える。何度も消える。手を伸ばしても届かない。

 蓮は目を開けた。

 天井の監視ランプが光っている。

 その光を見ながら、彼は思った。

 この施設は、赤い線によって人を閉じ込めている。

 だが赤い線は、壁ではない。

 線だ。

 線なら、越えることができる。

 問題は、越えた後に生きていられるかどうかだ。

 蓮は、莉子のベッドに視線を移した。

 空のベッド。

 畳まれていない毛布。

 七〇二番のタオルを裂いて巻いた靴。

 それらが、彼の中でひとつの結論になっていく。

 金曜の午前三時。

 主電源が落ちる。

 非常灯が点く。

 タレットが止まる。

 三分間だけ、赤い線はただの塗料になる。

 蓮は、その三分で向こう側へ行く。

 妹を取り戻すためではない。

 まず、妹がどこにいるのかを知るために。

 それは救出ではない。救出の前に必要な、最初の侵入だった。

 夜明け前、蓮はようやくベッドに横になった。

 莉子のベッドは空いたままだ。

 眠る直前、彼は妹の最後の言葉を思い出した。

 私、覚えてるから。

 こっち側にいたこと。

 蓮は目を閉じた。

 なら、こちら側にいる自分も覚えていなければならない。

 赤い線の手前に立って何もできなかったこと。

 妹の手首を離したこと。

 処置ゲートの扉が閉まるのを見ていたこと。

 そして、もう一度その線の前に立つこと。

 金曜の午前三時まで、あと四十七時間。

 蓮は、その残り時間を数えながら、浅い眠りに落ちた。



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