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赤い線の向こう側―疫病隔離施設。地面に赤い線が引かれ、越えた者は射殺される。  作者: 二条理|アコンプリス


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第二章 陽性再判定

 検査室の前には、午後一時の十分前から列ができていた。

 東棟第七区画の住人たちは、番号順に並ばされる。壁際には黄色い足形のマークが二十個ほど貼られており、その上に一人ずつ立つ決まりだった。前後の距離は一・五メートル。床には透明なテープで区切りが引かれている。人と人との間隔は厳密に管理されていたが、人の不安までは区切れなかった。

 検査室は、配給ホールとは別の通路にあった。

 白い壁、白い床、白い扉。どこを見ても白かった。だが、その白さは清潔さとは違う。消毒液の匂いと、蛍光灯の冷たい光で作られた白だ。長く見ていると、目の奥が痛くなる。

 佐伯蓮は、七〇一番の足形の上に立っていた。

 すぐ後ろに、莉子がいる。

 番号順だから、本来ならそれでいい。七〇一と七〇二。二人はいつも連続して呼ばれる。だが今日は、その当たり前の順番すら危うく感じられた。列の途中に防護服の職員が何人も立っている。いつもは二人か三人だが、今日は六人いた。検査室の入口には、銀色のワゴンが二台。採血用の器具、綿棒、密閉容器、携帯端末。見慣れた道具ばかりのはずなのに、数が増えるだけで凶器のように見えた。

 三枝菜月は、蓮たちから少し離れた場所に立っていた。

 彼女の番号は六八九。検査はもう終わっている。それなのに、列の近くに残っていた。壁にもたれ、腕を組み、職員の動きを見ている。いつもより目が鋭い。

 蓮は三枝と視線を合わせた。

 三枝は、ほんのわずかに首を横に振った。

 何もするな。

 そう言われた気がした。

『週次簡易検査を開始します』

 スピーカーが告げた。

『対象者は番号を呼ばれた順に入室してください。検査結果に関する質問、抗議、確認要求は受け付けません。判定に従わない場合、施設維持規定に基づき、拘束処置を行います』

 列の中に、小さなざわめきが走った。

 抗議を受け付けない。

 その一文は、普段の放送にはなかった。

 莉子が後ろから囁いた。

「お兄ちゃん」

「何だ」

「今日、やっぱり変だよね」

「黙ってろ」

「うん」

 莉子の声は落ち着いていた。落ち着いているように聞こえた。蓮は振り向きたい衝動を抑えた。振り向けば、妹の顔色を見てしまう。顔色を見れば、そこに不安を探してしまう。不安を探せば、きっと見つかる。

 それが怖かった。

 七〇〇番は、もういない。

 七〇一番の蓮が呼ばれた。

「七〇一、入室してください」

 検査室の扉が開いた。

 蓮は一歩前へ出た。後ろにいる莉子の気配が遠ざかる。たった扉一枚隔てるだけなのに、赤い線を挟むときと同じ感覚があった。こちら側と向こう側。見えるのに届かない。声は聞こえるのに、手を伸ばせない。

 検査室の中には、防護服の職員が三人いた。

 一人は端末を持ち、一人は採血器具を準備し、もう一人は蓮の動きを見張っている。壁の上部には監視カメラが二つ。天井には空調口。窓はない。

「椅子に座ってください」

 蓮は指示に従った。

 背もたれのない金属椅子。座面は冷たく、消毒液で濡れているような匂いがした。

「番号」

「七〇一」

「氏名」

「佐伯蓮」

「自覚症状」

「なし」

「発熱」

「なし」

「咳」

「なし」

「倦怠感」

「なし」

「味覚異常」

「なし」

 職員は端末に入力していく。蓮の返答に興味はないようだった。質問は確認ではなく、手順の一部にすぎない。

 鼻腔検査の綿棒が入れられた。目の奥に痛みが走る。続いて喉の奥を擦られる。採血。指先の酸素飽和度。瞳孔確認。首筋のリンパ節。胸の音。

 五分もかからなかった。

「退室してください」

「結果は」

 聞いてから、蓮は自分が愚かな質問をしたと思った。

 職員は端末から目を上げずに答えた。

「通知を待ってください」

「いつ」

「通知を待ってください」

 同じ言葉だった。

 蓮は立ち上がり、扉へ向かった。背中に職員の視線を感じる。何かを疑われているのか、それとも誰に対してもそうなのか、わからない。

 扉が開くと、莉子がそこにいた。

 七〇二番の足形の上で、両手を前に重ねている。蓮の顔を見ると、わずかに笑った。

「早かったね」

「すぐ終わる」

「痛かった?」

「少し」

「やだな」

 莉子は冗談のように言ったが、唇の色は悪かった。

 朝より、白い。

「七〇二、入室してください」

 職員が呼んだ。

 莉子が一歩前へ出た。

 蓮は反射的に手を伸ばし、彼女の袖を掴んだ。

 莉子が振り返る。

「お兄ちゃん」

 蓮は自分の指を見た。布をつかむ力が強すぎた。莉子の灰色の袖に、皺が寄っている。

「何か聞かれても、必要なことだけ答えろ」

「うん」

「昨日の夜のことは言うな」

「うん」

「咳も――」

「わかってる」

 莉子は小さく頷いた。

「大丈夫」

 その言葉を、蓮は聞きたくなかった。

 母も同じことを言ったからだ。

 大丈夫。

 戻ってくる。

 すぐ終わる。

 この施設では、そう言った人間ほど帰ってこない。

 蓮は袖から手を離した。

 莉子は検査室に入った。

 扉が閉まる。

 蓮はその場に立ち尽くした。

「七〇三、待機線へ」

 職員が次の番号を呼んでいる。列は進む。施設の手順は止まらない。誰かの妹が扉の向こうに消えても、番号は次々に処理される。

 三枝が近づいてきた。

「顔色が悪い」

「莉子の?」

「あんたの」

 蓮は答えなかった。

 三枝は検査室の扉を見た。

「中で咳をしたら、記録される」

「わかってます」

「体温もごまかせない」

「わかってる」

「でも、微熱だけで再判定になるのはおかしい」

 蓮は三枝を見た。

「おかしい?」

「この区画で微熱の人間なんて珍しくない。栄養状態も悪いし、空調も強すぎる。全員を再判定にしていたら、部屋が足りない」

「じゃあ、何で今日は」

 三枝は答える前に、周囲を確認した。

 防護服の職員が二人、こちらを見ている。距離はあるが、声を拾われる可能性はあった。三枝は蓮の横に立ち、前を向いたまま口を動かした。

「誰かを連れていく日には、理由が後から作られる」

「理由?」

「発熱でも、咳でも、検査値でもいい。必要なのは、連れていくための名前」

 蓮の喉が詰まった。

「莉子が選ばれてるって言うんですか」

「まだわからない」

「だったら――」

「だから、今は動くな」

 三枝の声は低かったが、鋭かった。

「ここで騒いだら、あんたも妹も終わる」

 蓮は拳を握った。

 わかっている。

 わかっているから、何もできない。

 この施設では、怒りすら手続きの前では無力だった。抗議すれば拘束される。拒否すれば処分対象になる。説明を求めれば、通知を待てと言われる。通知が来たときには、もう扉は閉まっている。

 検査室の中から、かすかに咳が聞こえた。

 蓮は顔を上げた。

 一度だけだった。

 小さな咳。

 だが蓮には、銃声のように聞こえた。

 三枝も聞いたらしい。表情は変わらなかったが、目だけがわずかに細くなった。

 扉は開かない。

 一分。

 二分。

 三分。

 蓮の検査より長い。

 列は少しずつ動いている。七〇三番がすでに別室へ入れられ、七〇四番が待機線に立っている。検査室が複数使われているのだ。莉子の入った部屋だけが、なかなか開かない。

 蓮の呼吸が浅くなった。

「長い」

 彼は呟いた。

 三枝が言った。

「見るな」

「無理です」

「顔に出てる」

「出て何が悪い」

「あんたが動揺すると、あの子も余計に怖がる」

 その言葉で、蓮は黙った。

 さらに二分ほどして、扉が開いた。

 莉子が出てきた。

 足取りはしっかりしている。だが、右腕の肘の内側にガーゼが貼られていた。採血のあとだ。普通の採血なら小さな絆創膏で済む。ガーゼを当てられているということは、いつもより多く血を抜かれたのかもしれない。

 蓮はすぐに近づいた。

「莉子」

「大丈夫」

「何をされた」

「いつもと同じ。ちょっと採血が長かっただけ」

「咳は」

 莉子の目が一瞬だけ揺れた。

「してない」

 嘘だ。

 蓮にはわかった。

 莉子は嘘をつくのが下手だった。母に似たのだ。嘘をつくと、必ず少しだけ早口になるか、目を逸らす。

「莉子」

「ほんとに大丈夫」

 彼女はそれ以上言わせないように、支給袋を抱え直した。

 蓮は歯を食いしばった。

 大丈夫という言葉を、今すぐこの施設から消してしまいたかった。

 検査が終わった者たちは、共同スペースで待機するよう指示された。結果通知があるまで各室へ戻ることは禁止された。これも普段とは違った。いつもなら検査後は各自の居住室へ戻り、夕方まで通常待機になる。

 今日は全員が一か所に集められている。

 共同スペースは、重い沈黙で満たされた。

 誰も大きな声で話さない。水を飲む音、椅子の脚が床を擦る音、誰かの浅い呼吸。そうした小さな音だけが、かえって耳についた。

 透が莉子の隣に座った。

「莉子姉、検査痛かった?」

「ちょっとだけ」

「俺、鼻のやつ嫌い」

「わかる。目から出てくるかと思うよね」

「うん」

 透はそう言って、自分の鼻を押さえた。

 莉子は笑った。

 だが、その笑顔は途中で崩れた。咳をこらえたのだ。肩がわずかに震える。蓮はすぐに水を差し出した。莉子は受け取り、少しだけ飲んだ。

 透が不安そうに見上げる。

「莉子姉、具合悪いの?」

「悪くないよ」

「ほんと?」

「ほんと」

 透はまだ疑っている顔をしていた。

 莉子は彼の頭を軽く撫でた。

「透くんこそ、検査で泣かなかった?」

「泣いてない」

「えらい」

「子供扱いしないで」

「十二歳は子供です」

「莉子姉だって十七歳じゃん」

「十七歳は大人です」

「ずるい」

 そのやりとりを聞きながら、蓮は胸が締め付けられるのを感じていた。

 この共同スペースでは、日常の形だけが薄く残っている。会話、冗談、子供の拗ねた顔。だが、それらは薄氷の上に置かれている。下には冷たい水がある。いつ割れてもおかしくない。

 壁の時計は、午後三時二十二分を示していた。

 検査開始から二時間以上が経っている。

 結果通知はまだない。

 三枝が蓮の向かいに座った。手には自分の記録表を持っている。彼女はそれを折り畳んだり開いたりしていた。落ち着かないときの癖なのかもしれない。

「佐伯さん」

「はい」

「莉子ちゃんが呼ばれたら、まず私が話す」

 蓮は顔を上げた。

「どういう意味ですか」

「元医療職として、症状が軽いと説明する。再検査ならここでできるはずだと主張する。処置室に移送する必要はない、と」

「通じるんですか」

「通じないと思う」

「なら――」

「でも、数十秒は稼げる」

 蓮は三枝を見た。

 数十秒。

 それが何の役に立つのか。

 そう思ったが、口には出さなかった。ここでは数十秒が命を分けることもある。坂井の薬袋も、あと数秒誰かが止めていれば、違った結果になったかもしれない。あるいは同じだったかもしれない。答えは出ない。

「数十秒で、俺に何をしろと」

 三枝は蓮をまっすぐ見た。

「何もしないことを選ぶ時間にして」

 蓮は眉をひそめた。

「何もしない?」

「今のあんたは、呼ばれた瞬間に飛び出す顔をしてる」

「妹が連れていかれるなら当然です」

「当然のことをして殺される人間を、私は見飽きた」

 三枝の声は静かだった。

 蓮は言い返せなかった。

「線を越えたら撃たれる。職員に掴みかかれば拘束される。処置室の扉を叩けば、あんたも一緒に消える。妹を助けるつもりで、妹から最後の味方を奪うことになる」

「じゃあ、見てろって言うんですか」

「今は」

「今は?」

 三枝は少しだけ視線を落とした。

「ここで終わりじゃないかもしれない」

「どういう意味です」

「処置室に入った全員が、その場で死ぬわけじゃない」

 蓮の身体が強張った。

「知ってるんですか」

 三枝は答えなかった。

 蓮は身を乗り出した。

「三枝さん。知ってるなら――」

 そのとき、スピーカーが鳴った。

 共同スペースの空気が一瞬で変わった。

 誰かが息を飲む音が聞こえた。透が莉子の袖を掴んだ。莉子はその手に自分の手を重ねた。

『週次簡易検査の一次判定が終了しました』

 放送の声は、いつもの女の声だった。

『以下の番号は、陽性再判定の対象となります。番号を呼ばれた者は、速やかに赤線前処置ゲートへ移動してください』

 陽性再判定。

 その言葉が響いた瞬間、共同スペースのあちこちで小さな悲鳴が上がった。

 蓮は莉子の手首を握った。

 莉子は彼を見た。

 瞳が揺れている。だが、泣いてはいなかった。

『五九二』

 遠くの席で、女性が口元を押さえた。

『六一八』

 老人がうなだれた。

『六九五』

 若い男が立ち上がりかけ、隣の者に止められた。

 蓮は、心臓が肋骨の内側を叩く音を聞いていた。

 七〇一。

 七〇二。

 そのどちらかが呼ばれるのではないか。

 呼ばれるなら、自分であってほしい。

 そんな考えが一瞬浮かんだ。だが、それは祈りではなかった。逃避だった。自分が呼ばれれば莉子を守れる気がした。だが実際には、彼が消えれば莉子は一人になるだけだ。

『七〇二』

 世界から音が消えた。

 莉子の番号だった。

 七〇二。

 佐伯莉子。

 蓮の手に、妹の手首の細さだけが残った。

『以上四名。対象者は速やかに赤線前処置ゲートへ移動してください。繰り返します――』

 放送は淡々と番号を繰り返した。

 莉子は動かなかった。

 透が泣きそうな顔で彼女を見ていた。

「莉子姉?」

 莉子は透に笑いかけようとした。だが、うまく笑えなかった。

「大丈夫」

 また、その言葉だった。

 蓮は彼女の手首を離さなかった。

 防護服の職員が共同スペースに入ってきた。四人。全員が透明なフェイスシールドをつけている。腰には拘束具が下がっていた。

「対象番号の方は立ってください」

 誰もすぐには動かなかった。

 五九二番の女性が、震えながら立ち上がった。六一八番の老人は立てず、職員に腕を取られた。六九五番の若い男は「何かの間違いだ」と言ったが、職員は返事をしなかった。

 職員の一人が、莉子の前で止まった。

「七〇二、立ってください」

 蓮が立ち上がった。

「妹は微熱だけです」

 自分でも驚くほど、声は低かった。

 職員は蓮を見た。

「七〇二、立ってください」

「再検査ならここでできるはずです。症状は軽い。咳も一時的なものだ」

「判定は確定しています」

「判定基準を示してください」

「開示対象外です」

「処置室へ行った人間は戻ってきていない」

 共同スペースが静まり返った。

 その言葉を口にする者はいなかった。全員が知っていて、全員が言わなかったことだ。

 職員の姿勢が変わった。

 ほんのわずかに、警戒の重心が蓮へ移る。

 三枝が立ち上がった。

「七〇二番について、医療的な確認を求めます」

 彼女の声は落ち着いていた。

「本日の症状は軽度の咳と三十七度台前半の微熱です。この程度で処置室移送とするなら、区画内の基準と整合しません。隔離区域内での経過観察を提案します」

 職員は三枝を見た。

「あなたに判断権限はありません」

「判断ではありません。確認です。患者移送には根拠が必要です」

「七〇二は陽性再判定対象です」

「陽性の何に対する再判定ですか。感染症ですか。二次症状ですか。薬剤反応ですか」

 その瞬間、職員の動きが止まった。

 蓮はそれを見逃さなかった。

 薬剤反応。

 三枝は、今まで口にしたことのない言葉を言った。

 職員はすぐに態度を戻した。

「対象者の移送を開始します」

「答えていません」

「妨害行為と判断します」

 二人目の職員が前に出た。

 蓮は莉子の前に立った。

「お兄ちゃん」

 莉子の声がした。

「どけ」

 職員が言った。

「どかない」

「佐伯蓮。あなたの行為は施設維持規定に違反しています」

「妹をどこへ連れていく」

「処置室です」

「何をする」

「開示対象外です」

「戻すのか」

 職員は答えなかった。

 蓮は一歩前に出た。

 共同スペースの入口の上で、赤い警告灯が点いた。

『妨害行為を確認しました』

 スピーカーの声が響いた。

『七〇一番、佐伯蓮。直ちに対象者から離れてください』

 天井の監視カメラが動いた。

 蓮はそれでも動かなかった。

 莉子が彼の背中に手を当てた。

「お兄ちゃん、だめ」

「黙ってろ」

「だめ」

 莉子の声が震えた。

「私のせいで、お兄ちゃんまで撃たれるのは嫌だ」

 蓮は振り向けなかった。

 振り向けば、自分が崩れるとわかっていた。

「戻ってくるから」

「その言葉を言うな」

 蓮の声は、自分のものではないようだった。

「母さんも言った」

 莉子は黙った。

 防護服の職員が近づく。

 三枝が蓮の腕を掴んだ。

「佐伯さん」

「離してください」

「今じゃない」

「今止めなかったら、いつ止めるんですか」

「生きてから考えろ」

 三枝の指が、蓮の腕に食い込んだ。

「今ここで死んだら、本当に終わる」

 蓮は三枝を睨んだ。

 その目の奥に、奇妙な確信を見た。

 三枝は何かを知っている。

 処置室に入った者が、その場で死ぬわけではないと言った。ここで終わりではないかもしれないと言った。

 それが希望なのか、ただの時間稼ぎなのかはわからない。

 だが、蓮は動けなくなった。

 莉子が彼の横を通り過ぎた。

 自分から一歩前へ出たのだ。

「七〇二番、佐伯莉子です」

 声は細かった。

 それでも、彼女は名乗った。

 職員が彼女の腕を取ろうとした。

 蓮は反射的に手を伸ばしかけた。

 莉子が首を横に振った。

 その目を見た瞬間、蓮の手は止まった。

 莉子は泣いていなかった。

 怖がっていないわけではない。唇は震えている。呼吸も浅い。だが、彼女は蓮を見ていた。兄が壊れないように、必死に見ていた。

「大丈夫って言うと怒るから、別のこと言うね」

 莉子は無理に笑った。

「帰ってきたら、卵焼き味じゃないやつ食べたい」

 蓮は喉の奥が熱くなるのを感じた。

「莉子」

「約束」

 蓮は何も言えなかった。

 莉子は職員に促され、共同スペースの出口へ向かった。五九二番の女性、六一八番の老人、六九五番の男も連れていかれる。列のように並ばされ、通路へ出る。

 蓮は後を追った。

 職員が制止しようとしたが、三枝が言った。

「赤線前処置ゲートまでは見送り可能なはずです」

 職員は少し迷い、端末を確認した。

「距離を保ってください」

 蓮は莉子の後ろを歩いた。

 通路の先に、配給ホールがある。

 朝と同じ場所。

 床の中央には、赤い線が引かれている。

 だが今は配給のためではない。赤い線の向こう側に、処置ゲートと呼ばれる透明な扉が開いていた。普段は壁に隠れている搬送用の通路だ。そこから先は管理区域へ続いている。

 赤い線の手前で、対象者たちは止められた。

 向こう側には、防護服の職員が三人。さらに奥に、白衣姿の男が一人立っていた。顔はマスクで半分隠れているが、目だけは見える。年齢は四十代半ばくらい。職員たちとは違い、蓮たちを物として見ている目ではなかった。

 三枝が小さく呟いた。

「真鍋……」

 蓮は彼女を見た。

「知ってるんですか」

 三枝は答えなかった。

 白衣の男――真鍋は、莉子たちを順に見た。最後に、蓮のほうへ視線を向けた。

 その目が一瞬だけ止まった。

 何かを言いたげに見えた。

 だが彼は何も言わなかった。

『陽性再判定対象者は、赤い線を越えて処置ゲートへ進んでください』

 放送が流れた。

 蓮の胸が激しく痛んだ。

 赤い線を越える。

 それは、ここでは死を意味する言葉だった。坂井は薬を拾おうとして指先を越えただけで撃たれた。だが今、莉子は職員の指示でその線を越えようとしている。

 許可された越境。

 撃たれない越境。

 だが、その先から戻ってきた者はいない。

 五九二番の女性が泣きながら線を越えた。六一八番の老人は職員に支えられながら進んだ。六九五番の男は何度も「間違いだ」と繰り返していたが、結局、足を踏み出した。

 莉子の番になった。

 彼女は赤い線の手前で立ち止まった。

 蓮は、その背中を見ていた。

 今なら手が届く。

 引き戻せる。

 抱えて逃げることもできるかもしれない。

 だが、どこへ。

 この施設の廊下はすべて監視されている。扉はロックされている。赤い線の向こうには銃口があり、こちら側にも逃げ場はない。怒りだけで走れば、妹の前で撃たれる。

 蓮は歯を食いしばった。

 血の味がした。

 莉子が振り返った。

 ほんの数秒。

 兄妹の間に、赤い線はまだなかった。

「お兄ちゃん」

 莉子が言った。

「私、覚えてるから」

「何を」

「こっち側にいたこと」

 蓮は息を呑んだ。

 莉子は続けた。

「だから、お兄ちゃんも覚えてて」

 それだけ言って、彼女は赤い線を越えた。

 警告音は鳴らなかった。

 銃声もなかった。

 だが蓮には、何かが撃ち抜かれたように感じられた。

 莉子は処置ゲートへ入った。

 透明な扉が閉まる。

 内側に白い霧が噴き出した。消毒用のミストだ。莉子の姿が白く霞む。彼女は一度だけこちらを見た。蓮は手を上げようとしたが、腕が動かなかった。

 扉の奥で、莉子の輪郭が消えた。

 ゲートのランプが赤から青に変わる。

 職員たちは、何事もなかったように端末を操作している。

 ホールに残された蓮は、赤い線の手前に立っていた。

 線の向こうには、もう莉子はいない。

 あるのは閉じた扉と、白い壁と、彼女を奪っていった手続きだけだった。

 三枝が隣に立った。

「佐伯さん」

 蓮は赤い線を見つめたまま言った。

「三枝さん」

「何」

「処置室に行った人間は、その場で死ぬわけじゃないと言いましたね」

 三枝は黙った。

「本当ですか」

「……少なくとも、全員がすぐに死ぬわけじゃない」

「どうして知ってる」

 三枝は答えなかった。

 蓮はゆっくりと彼女を見た。

「あなたは、何を知ってるんですか」

 三枝の顔には、迷いがあった。

 だがそれは長く続かなかった。彼女はホールの天井を見上げた。黒い半球型の監視カメラが、こちらを向いている。

「ここでは話せない」

「いつなら話せる」

「夜」

「どこで」

「洗濯室の奥。監視カメラの死角がある」

 蓮はうなずいた。

 赤い線の向こう側で、処置ゲートのランプが消えた。

 扉は閉ざされたままだった。

 莉子は戻ってこない。

 少なくとも、今は。

 蓮は自分の手を見た。さっきまで莉子の手首を握っていた手だ。感触がまだ残っている。細い骨、少し冷たい皮膚、震えを隠そうとする力。

 その感触が消える前に、何かを決めなければならない。

 生きてから考えろ。

 三枝はそう言った。

 なら、生きて考える。

 考えて、探す。

 赤い線を越える方法を。

 処置室へ続く扉を開ける方法を。

 妹を奪ったこの施設の仕組みを壊す方法を。

 蓮は、もう一度赤い線を見た。

 朝、そこは絶対の境界だった。

 今は違う。

 向こう側に、莉子がいる。

 その事実だけで、赤い線の意味は変わった。

 越えてはならない線ではない。

 越えなければならない線になった。



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