第一章 赤い線
朝は、いつも警告から始まった。
午前六時五十分。天井のスピーカーが、かすかなノイズを吐いた。
それを合図に、東棟第七区画の住人たちは一斉に動き出す。起きたというより、起こされたというほうが近い。眠りは浅く、夢を見るほど深く沈む者はいなかった。誰もが耳の奥に、あの放送の声を飼っていた。いつ鳴るかわからない警報に、身体のほうが先に反応する。
佐伯蓮は、薄い毛布を畳んだ。
毛布は毎週消毒される。だが、消毒液の匂いだけが増えて、古い汗の匂いは消えない。布地には細かな毛玉が浮き、端は何度も洗われたせいで波打っていた。支給された当初は白かったはずだが、今は蛍光灯の下でも灰色に見える。
隣の簡易ベッドで、妹の莉子が目を開けていた。
「起きてたのか」
蓮が声をかけると、莉子は毛布を鼻先まで引き上げたまま、小さくうなずいた。
「放送の前に起きるようになっちゃった」
「いい習慣じゃないな」
「ここで身につく習慣に、いいものなんてある?」
莉子は冗談めかして言った。だが、声にはまだ眠気が残っている。十七歳の少女の声というより、長く風邪を引きずった子供の声に近かった。
蓮は、妹の額を見た。
汗はない。頬の赤みも昨日より薄い。呼吸も乱れていない。そう確認してから、胸の奥に溜まっていた息を静かに逃がした。
「何?」
「いや」
「また顔色見てた」
「見てない」
「嘘。お兄ちゃん、見るとき目が細くなる」
莉子はそう言って笑った。
笑うと、彼女はまだこの施設に来る前の莉子に戻る。駅前の本屋で文庫本を選んでいた莉子。母親に頼まれて夕飯の買い物に行った莉子。高校の制服の襟元を気にしながら、電車の窓に映った自分の顔を覗きこんでいた莉子。
だが、その笑顔は長く続かない。ここでは、笑うことにも体力がいる。
スピーカーから、女の声が流れた。
『東棟第七区画の皆様にお知らせします。本日の配給は、午前七時十分より開始します。対象者は、番号順に配給線前へ整列してください』
配給線。
この施設の人間は、誰もその呼び名を使わなかった。
赤い線。
そう呼んだ。
蓮はベッド脇の棚から、支給袋を取った。薄い不織布でできた袋で、そこに一日分の食料と薬が入れられる。莉子の袋も手に取ると、彼女が少し不満そうな顔をした。
「自分で持てるよ」
「わかってる」
「じゃあ、持つ」
「今日は俺が持つ」
「過保護」
「妹の荷物を持つ兄は、昔から過保護と決まってる」
「そんな法律あった?」
「家庭内規定だ」
莉子は小さく笑い、咳をした。
蓮の指が、袋の取っ手を握ったまま固まった。
「平気」
莉子が先に言った。
「乾燥してるだけ」
「水、飲んだか」
「飲んだ」
「何時に」
「……取り調べ?」
「確認だ」
「夜中。たぶん三時くらい」
蓮は棚の上の紙コップを見た。半分ほど水が残っている。飲んだことは本当らしい。だが、それだけで安心できるほど、この施設での生活は単純ではなかった。
東棟第七区画に入ってから、二年と三か月が経つ。
最初に運び込まれたとき、蓮は二十二歳だった。大学院で都市防災を研究していた。母は市立病院の事務員で、莉子は高校一年生だった。未知の感染症が広がり、街は何度も封鎖され、検査結果の出る前に一家ごと搬送された。
そのときは、隔離は二週間だと言われた。
二週間が一か月になり、一か月が半年になった。半年が一年を越えた頃、誰も日数を数えなくなった。数えたところで、出口が近づくわけではない。
ただひとつだけ、毎日変わらないものがあった。
床に引かれた、赤い線だ。
東棟第七区画は、古い研究施設を改修した隔離棟だった。白い廊下の壁には空調ダクトが走り、窓はすべて内側から樹脂板で塞がれている。外光は入るが、外気は入らない。空は見える。雲も見える。だが、風だけは届かない。
居住区の廊下を進むと、大きなホールに出る。
そこが配給場所だった。
ホールの中央には、幅十センチほどの赤い線が床を横切っている。壁から壁まで、まっすぐに伸びている。血のような赤ではなかった。もっと人工的で、塗料の粒子が浮いたような、濁った赤だった。
その線を境に、世界は二つに分かれていた。
手前が隔離区域。
向こう側が管理区域。
蓮たちが立てるのは、赤い線の手前までだった。線の向こう側には、防護服を着た職員が立つ。透明なフェイスシールドの奥に顔は見えるが、表情まではわからない。彼らは蓮たちを患者と呼んだ。感染疑い者と呼んだ。観察対象と呼ぶこともあった。
人間とは、あまり呼ばなかった。
『赤い線を越えた者は、感染拡大防止規定により、即時処分されます』
スピーカーから、また同じ声が流れた。
『配給時は、両手を見える位置に置き、職員の指示に従ってください。赤い線の上に身体の一部、または所持品が入った場合も、越境行為とみなされることがあります』
越境行為。
即時処分。
蓮は、その言葉を聞くたびに、莉子の手首を探す癖がついていた。
自分でも気づかないうちに、指が伸びる。莉子はもう抵抗しない。最初の頃は「子供じゃない」と怒った。今は黙って握らせる。むしろ、放送が流れると、彼女のほうから少しだけ近づいてくることさえあった。
ホールには、すでに二十人ほどが並んでいた。
老人、子供、痩せた男、髪を短く切った女。年齢も職業も、ここに来る前の生活もばらばらだ。だが、全員が同じ色の衣服を着ていた。灰色の上下。胸には番号の入った布が縫い付けられている。
蓮の番号は七〇一。
莉子は七〇二。
母の番号は七〇〇だった。
その番号を、蓮は今でも忘れられない。忘れようとしたこともない。
「佐伯さん」
背後から声をかけられた。
振り向くと、三枝菜月が立っていた。三十代半ばの女性で、髪は顎のあたりで切りそろえられている。施設内では珍しく、いつも姿勢がいい。疲れた表情をしていても、背筋だけは曲がらない。
かつて看護師だったと聞いたことがある。本人が話したわけではない。誰かがそう言っていた。ここでは、過去の職業は噂として流通する。本人確認の手段はない。だが三枝の手つきや言葉の選び方を見る限り、それはおそらく本当だった。
「莉子ちゃん、昨日より顔色いいね」
三枝は莉子を見て言った。
「ほんとですか」
「うん。唇の色が少し戻ってる」
「ほら、お兄ちゃん。専門家もこう言ってる」
「だから無理していいとは言ってない」
三枝が苦笑した。
「お兄さんの言うことも聞いておきなさい。ここでは、調子がよく見える日ほど危ないこともあるから」
莉子は「はい」と素直に答えた。
蓮は三枝の横顔を見た。彼女は線の向こう側を見ている。目つきに、蓮たちとは違う種類の警戒があった。何かを知っている人間の目だ、と蓮は思うことがある。
しかし、それを尋ねたことはない。
この施設では、知ってしまったことが人を守るとは限らなかった。
七時十分。
管理区域側の扉が開いた。
防護服の職員が三人、台車を押して入ってくる。台車には白い箱が積まれていた。朝食用の栄養パック、錠剤、水、交換用のマスク。すべて番号ごとに分けられている。
職員は赤い線の向こう側で止まった。
一人が携帯端末を操作する。もう一人が箱を床に置く。赤い線のすぐ向こう側、線から二十センチほど離れた場所だ。
手渡しはされない。
向こう側に置かれた箱を、職員が足で押す。箱は床を滑り、赤い線の手前で止まる。蓮たちはそれを拾う。
初めて見たとき、蓮は家畜への餌やりを連想した。その考えをすぐに打ち消した。そんなふうに考える自分が嫌だった。
だが二年経った今、その印象は薄れていない。
「七〇一」
職員が番号を呼んだ。
蓮は莉子の手首を離し、一歩前に出た。足先が赤い線から五十センチほど手前で止まる。そこから先には、身体が勝手に進まない。恐怖が足首に絡みつく。
箱が押し出された。
蓮は腰をかがめ、箱を取った。中身を確認する。自分の番号。栄養パック二つ。錠剤三種類。水のボトル一本。紙片が一枚。体調記録表だ。
「七〇二」
莉子の番号が呼ばれた。
蓮が代わりに受け取ろうとすると、職員の声が冷たくなった。
「本人が取ってください」
蓮の動きが止まる。
「体調がよくない。俺が――」
「本人が取ってください」
同じ声だった。抑揚も、速度も変わらなかった。人間が喋っているのに、録音のようだった。
莉子が蓮の袖を引いた。
「大丈夫」
「無理するな」
「取るだけだよ」
莉子は一歩前に出た。
蓮はその肩に手を添えた。莉子は赤い線の手前でしゃがむ。箱は線に近い位置で止まっていた。指を伸ばせば届く。だが、ほんの少しでも身体が前に出れば、線の上に影が落ちる。
天井で、かすかな機械音がした。
蓮は反射的に見上げた。
黒い半球型の監視カメラが、莉子の動きを追っている。その両側には、小型の銃口が埋め込まれていた。普段は天井材と同じ色に塗られ、目立たない。だが、一度気づくと、それ以外のものが見えなくなる。
莉子の指が箱に触れた。
その瞬間、箱が少し滑った。紙の底が床材に引っかかり、斜めに動いた。莉子は取り落としそうになり、思わず片手を伸ばす。
「莉子」
蓮が低く言った。
莉子の手が止まった。
足先は、赤い線の手前にあった。
沈黙が落ちた。
ホールにいる全員が、莉子を見ていた。職員も、隔離者も、誰も動かない。天井のカメラだけが、わずかに角度を変えた。
莉子はゆっくりと箱を引き寄せ、立ち上がった。
蓮は彼女の肩を抱いて後ろへ下がらせた。
たったそれだけで、背中に汗がにじんでいた。
「ごめん」
莉子が小さく言った。
「謝るな」
「でも」
「謝ることじゃない」
蓮はそう言ったが、声が少し硬かった。
莉子が悪いのではない。箱が滑っただけだ。だがこの施設では、箱が滑ることさえ命取りになる。
命は、赤い線から何センチ離れているかで測られる。
蓮はそれを知っていた。
知るしかなかった。
半年前、老人が撃たれた。
名前は坂井という。下の名前までは知らない。七十を越えていた。元教師だったらしい。毎朝、配給の列で子供たちに声をかけていた。宮代透が泣いていると、ポケットから紙で折った鳥を出して渡していた。
その日、坂井は薬を受け取ろうとしていた。
白い錠剤の入った小袋が、箱からこぼれた。袋は赤い線の向こう側に落ちた。線から十センチほど先だった。職員は気づいたが、拾わなかった。
「薬が落ちました」
坂井は言った。
職員は端末を見たまま答えた。
「回収不能です。再申請してください」
「今日の分です。飲まないと発作が出る」
「再申請してください」
「そこにあるんです」
坂井は、指差した。
薬は本当にそこにあった。赤い線の向こう側。手を伸ばせば取れる距離。子供でも拾える距離。だが、その十センチが、ここでは国境より遠かった。
坂井は迷った。
蓮は、その迷いを覚えている。
彼の背中は小さく震えていた。怒りでも、恐怖でもない。もっと切実なものだった。薬を飲まなければ身体がもたない。そのことを本人が一番よく知っている。だから、赤い線を見つめていた。
誰かが止めようとした。
たぶん三枝だった。
だが間に合わなかった。
坂井は膝をつき、腕を伸ばした。身体は線の手前に残っていた。越えたのは右手の指先だけだった。指先が赤い線の上を通り、薬袋に触れた。
その瞬間、警告音が鳴った。
高く、短い音。
天井のカメラが動いた。黒い半球の中心に、小さな赤い光が灯った。
『越境行為を確認しました』
放送の声は、いつもと同じだった。
『対象者はその場を離れてください』
坂井は薬袋をつかんだまま、顔を上げた。
「待ってくれ。これは――」
銃声がした。
音は一発だけだった。
映画のような派手な音ではない。乾いた破裂音。空気の中で何かが裂けるような、短い音だった。
坂井の身体が、横に倒れた。
薬袋は手から離れ、赤い線の上に落ちた。透明な袋の中で、白い錠剤が二つ、床に散らばった。
血が広がっていった。
床材の目地に沿ってゆっくり流れ、赤い線に触れた。赤い塗料と血の色は似ていなかった。血のほうが暗く、重く、粘っていた。それでも遠目には、赤い線が太くなったように見えた。
誰も叫ばなかった。
叫べなかった。
宮代透だけが泣いた。声を押し殺そうとして、余計に喉がひきつったような音になった。
職員は坂井の遺体をすぐには回収しなかった。
まずホールにいた全員を居住区へ戻らせた。放送は何度も同じ文言を繰り返した。
『越境行為を確認しました。処分は規定に基づき実行されました』
その日の昼、赤い線は清掃された。
血は消えた。
だが、線の色がわずかに濃くなったように、蓮には見えた。
それ以来、配給の時間になると、誰も線に近づきすぎなくなった。子供ですら、自分の爪先がどこにあるか確認するようになった。老人の死は、規則の説明よりも正確に、赤い線の意味を教えた。
今日も配給は淡々と続いた。
番号が呼ばれ、箱が押し出され、誰かが拾う。線の手前で手を伸ばし、線の手前で引き戻す。それだけの行為に、全員が細心の注意を払う。
宮代透の番になった。
透は十二歳だった。母親と一緒にここへ来たが、その母親は昨年、処置室へ運ばれたまま戻ってこなかった。今は同室の大人たちが交代で面倒を見ている。蓮もその一人だった。
透は箱を取るとき、床に落ちていた紙片を蹴ってしまった。紙片がひらりと舞い、赤い線のすぐ手前で止まる。透は反射的に拾おうとした。
「透」
蓮の声が飛んだ。
透はびくりと肩を震わせ、手を引っ込めた。
紙片は線の手前にあった。拾っても撃たれはしない。だが、蓮の声には叱責以上のものが含まれていた。透はそれを理解したらしく、唇を噛んで後ろへ下がった。
三枝が紙片を拾い、透の箱の上に置いた。
「ゆっくりでいい」
彼女は言った。
「ここでは、急いだ人から死ぬ」
職員の一人が顔を上げた。
三枝はその視線を受けても、表情を変えなかった。
配給が終わると、職員たちは残った箱を台車に戻した。ひとつだけ、床に薬袋が落ちている。誰のものかはわからない。赤い線の向こう側だった。
誰も何も言わなかった。
職員の一人がそれを拾い、廃棄袋に入れた。
蓮はその動作を見ながら、坂井のことを思い出していた。落ちた薬を拾おうとして撃たれた老人。今日の職員は、落ちた薬を何の感情もなく捨てた。
命の価値は、どちら側から拾うかで変わる。
ホールから居住区へ戻る途中、莉子が足を止めた。
通路の壁際には、背の高い空気清浄機が並んでいる。青いランプが点滅し、内部でファンが低く唸っていた。施設中に漂う消毒液の匂いは、この機械から出ているのかもしれない。だがどれほど空気を洗っても、ここに染みついた不安までは取り除けなかった。
「お兄ちゃん」
「どうした」
「さっき、ちょっと怖かった?」
蓮は答えなかった。
莉子は自分の箱を胸に抱えたまま、赤い線のあるホールを振り返った。扉はもう閉まりかけている。赤い線は見えない。だが、見えなくてもそこにあることを、身体が覚えている。
「あの線って、ほんとは何を守ってるんだろうね」
蓮は妹を見た。
莉子は独り言のように続けた。
「外の人を守ってるって、毎日言われるでしょ。感染を広げないためだって。でも、じゃあ私たちは何なんだろう。守られる側じゃないのかな」
「莉子」
「わかってる。変なこと言うと怒られる」
「そうじゃない」
「じゃあ、何?」
蓮は答えを探した。
外を守るため。
感染を防ぐため。
社会を維持するため。
この二年で、そういう言葉は何度も聞いた。放送で。職員の説明で。壁に貼られた掲示で。すべて同じ方向を向いていた。線の外側は守るべき場所で、線の内側は管理すべき場所だと。
だが、蓮は知っている。
赤い線の内側にも人間がいる。
発熱すれば苦しむ。薬が落ちれば拾おうとする。妹を心配すれば手首を握る。母親が帰ってこなければ、声を殺して泣く。
人間を閉じ込めるための線に、守るという言葉をかぶせることができるのなら、この施設ではどんなことでも正当化できる。
「外を守ってるんだろう」
蓮は言った。
莉子が顔を上げる。
「でも、それだけじゃない」
「それだけじゃない?」
「俺たちを、外から見えないようにしてる」
言ってから、蓮は自分の言葉に驚いた。
普段なら口にしない。思っていても、飲み込む。スピーカーがどこまで拾っているかわからないからだ。壁のどこにカメラがあるかもわからない。ここでは、疑問は感染よりも危険なものとして扱われる。
莉子は少しだけ目を見開き、それから笑った。
「お兄ちゃんも、そう思ってたんだ」
「忘れろ」
「無理」
「なら、誰にも言うな」
「言わないよ」
莉子は歩き出した。
その横顔は、さっきより少しだけ大人びて見えた。施設に来たばかりの頃、蓮は妹を子供だと思っていた。守るべき存在だと。それは今も変わらない。だが、ここで過ごした時間は、莉子から子供でいる権利を奪っていった。
居住区の共同スペースでは、配給された食料を開ける音がしていた。
栄養パックの封を切る音。錠剤のシートを押す音。紙コップに水を注ぐ音。どれも小さく、乾いている。誰も大声で話さない。朝は特にそうだ。配給直後は、赤い線の緊張が身体に残っている。
蓮と莉子は壁際の席に座った。
テーブルは金属製で、角が丸く削られている。自傷防止のためだと聞いたことがある。椅子は床に固定され、動かせない。部屋の隅には監視カメラがある。カメラの下で食べる食事は、いつまで経っても食事という感じがしなかった。
莉子は栄養パックにストローを刺し、顔をしかめた。
「今日、何味だと思う?」
「見た目は全部同じだ」
「昨日は一応コーンスープ味だった」
「あれをコーンスープと呼ぶのは、コーンスープに失礼だ」
「じゃあ今日は?」
蓮は自分のパックを一口飲んだ。
ぬるく、甘く、どこか粉っぽい。何かの味に似せようとして失敗した液体だった。
「……薄い卵焼き」
「飲み物なのに?」
「卵焼き味の飲み物だ」
「最悪」
莉子は笑った。
その笑顔を見て、蓮は少しだけ安心した。
しかし、安心は長く続かなかった。
莉子がパックを置き、胸元を押さえた。
「どうした」
「平気」
「平気じゃないだろ」
「ちょっと、気持ち悪いだけ」
蓮はすぐに立ち上がりかけた。だが莉子が手を伸ばし、彼の袖を掴んだ。
「大丈夫。騒がないで」
「三枝さんを呼ぶ」
「待って」
莉子の指に力がこもった。
蓮はその力の弱さに、かえって不安を覚えた。
「お兄ちゃんが心配するのはわかる。でも、記録されたら面倒でしょ」
蓮は黙った。
体調不良は、毎日提出する記録表に書かなければならない。発熱、咳、吐き気、発疹、呼吸苦。項目は細かい。だが正直に書けばいいというものではない。重い症状を書けば、再検査の対象になる。再検査の結果によっては、処置室へ移送される。
そして処置室へ行った者は、ほとんど戻ってこない。
母もそうだった。
母は二年前の冬に発熱した。最初は微熱だった。蓮は記録表に書くなと言った。母は笑って「嘘はよくない」と言った。翌日、再検査を受け、三日後に処置室へ移送された。
母は「すぐ戻る」と言った。
その言葉を、莉子は泣かずに聞いていた。泣けば母が不安になると思ったのだろう。蓮も泣かなかった。怒りで喉がふさがっていた。
母は戻らなかった。
死亡通知はなかった。遺体も返されなかった。ただ、七〇〇番の寝具が片づけられ、配給リストから番号が消えた。それだけだった。
この施設では、人は死ぬのではない。
番号が消える。
「いつからだ」
蓮は低い声で尋ねた。
莉子は目を逸らした。
「莉子」
「昨日の夜から。少しだけ」
「熱は」
「ないと思う」
「測ったのか」
「……測ってない」
蓮は立ち上がり、棚の救急箱から体温計を取った。
莉子は観念したように腕を出した。非接触式の体温計を額に向ける。小さな電子音。画面には三十七・二と表示された。
微熱。
この施設では、それだけで十分すぎるほど危険だった。
「記録表には書くな」
蓮は言った。
莉子が彼を見る。
「でも」
「今日は書くな」
「嘘になるよ」
「嘘でいい」
「お母さんに怒られる」
蓮は言葉を失った。
莉子は、すぐに視線を落とした。
「ごめん」
「謝るな」
「でも、言っちゃいけなかった」
「違う」
蓮は椅子に座り直した。
母ならどうしただろう、と考える。正直に書いただろう。職員を信じようとしただろう。規則を守ることで、自分たちも守られると考えただろう。
そして帰ってこなかった。
「母さんは、間違ってなかった」
蓮は言った。
莉子の目が揺れた。
「ただ、この場所が間違ってる」
共同スペースのスピーカーが鳴った。
二人は同時に顔を上げた。
『本日午後一時より、週次簡易検査を実施します。対象者は全員、指定時刻までに検査室前へ集合してください』
蓮の背筋に、冷たいものが走った。
週次検査。
莉子の微熱。
配給時の咳。
それらが一つの線でつながっていくように感じた。
赤い線とは別の、見えない線だ。越えたときにはもう戻れない。誰が引いたのかもわからない。けれど確かに、人を選別する線。
莉子はパックを握ったまま、何も言わなかった。
蓮はその手を見た。
細い指。爪の色が少し悪い。以前はよくマニキュアを塗っていた。学校にはしていけないから、休日だけ薄い桃色を塗っていた。母に見つかって叱られ、蓮に見せて笑っていた。
今、その指には何の色もない。
この施設は、人から色を奪っていく。
服の色。食事の色。顔色。声の明るさ。未来の輪郭。
残るのは、赤い線だけだった。
「お兄ちゃん」
莉子が言った。
「何だ」
「さっきの話だけど」
「どれだ」
「あの線が、私たちを外から見えないようにしてるって話」
「忘れろと言っただろ」
「うん。でも、忘れない」
莉子は、共同スペースの入口の向こうを見た。
廊下の先にホールがある。ホールの中央に赤い線がある。見えなくても、そこにある。
「見えないところにいる人間って、いないのと同じにされるんだね」
蓮は妹の横顔を見つめた。
返す言葉がなかった。
スピーカーから、短いノイズがした。
それだけで、共同スペースにいた数人が肩を震わせた。放送は続かなかった。単なる接触不良か、確認音か、あるいは誰かがこちらの会話を聞いている合図なのか。判断できない。
蓮は莉子の手から記録表を取った。
体調欄に、異常なしと書く。
ペン先が紙をこする音が、ひどく大きく聞こえた。
嘘を書いている。
だが、真実を書いた母は戻らなかった。
蓮は記録表を折り、莉子の支給袋に入れた。
「今日の検査は、俺の後ろにいろ」
「番号順だよ」
「できるだけ近くにいろ」
「また過保護」
「家庭内規定だ」
莉子は少し笑った。
だが、その笑いはすぐに咳に変わった。今度はさっきより長かった。彼女は手で口を押さえ、身体を丸める。蓮は反射的に背中に手を置いた。
周囲の数人がこちらを見た。
その視線に、蓮は気づいた。
同情ではない。
警戒だった。
ここでは、誰かの咳は自分の危険になる。誰かの発熱は、自分の区域の封鎖につながる。人間は弱った者を心配するより先に、その弱さが自分に及ぶかを考えるようになる。
それを責めることはできなかった。
蓮自身も、同じような目をしたことがある。
三枝菜月が近づいてきた。
「莉子ちゃん」
莉子は口元を押さえたまま、顔を上げた。
「大丈夫です」
三枝は蓮を見た。
蓮は小さく首を横に振った。今は騒がないでほしい、という意味だった。
三枝はすぐに理解したらしい。莉子の額に手を当てることも、脈を取ることもしなかった。ただ、テーブルに置かれた水のボトルを開け、紙コップに注いだ。
「少しずつ飲んで。咳を止めようとしなくていい。止めようとすると、余計に苦しくなる」
莉子はうなずき、水を口に含んだ。
三枝は蓮の隣に腰を下ろした。
「午後の検査、気をつけたほうがいい」
声は低かった。
「何かあるんですか」
「今朝、管理区域の職員が一人増えてた。検査用のワゴンもいつもより多い」
「それが?」
「再判定を出すつもりかもしれない」
蓮は息を止めた。
「誰に」
「わからない。でも、こういう日は決まって誰かが連れていかれる」
莉子が紙コップを持つ手を止めた。
蓮は三枝を睨むように見た。莉子の前で言うことではない。だが三枝の表情は変わらない。隠して守れる段階ではない、という顔だった。
「処置室へ?」
「たぶん」
「戻ってきた人は」
三枝は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
共同スペースの壁に掛けられた時計は、七時四十六分を示していた。
午後一時まで、五時間十四分。
それだけの時間がある。
それだけしかない。
蓮は、莉子の手首を握った。
放送のときと同じように。赤い線の前に立ったときと同じように。
莉子は今度も抵抗しなかった。
窓の向こうに、白い空が見えた。
樹脂板越しの空は、いつも少し歪んでいる。外は晴れているのか曇っているのか、それさえはっきりしない。鳥の姿は見えない。風もわからない。ただ、光だけが薄く差し込んでくる。
蓮は思った。
赤い線は、床に一本だけ引かれているのではない。
窓にもある。放送にもある。記録表にもある。検査室の扉にも、処置室へ続く廊下にもある。母の番号が消えた日の寝具にもある。
そして今、莉子の微熱と咳の周りにも、見えない赤い線が引かれ始めている。
越えれば、撃たれる。
越えなくても、奪われる。
蓮は、妹の手首を握る力を少しだけ強めた。
莉子がこちらを見た。
「痛い」
「あ、悪い」
「でも、いいよ」
「何が」
「お兄ちゃんがそうしてると、まだこっち側にいるってわかる」
蓮は何も言えなかった。
こっち側。
赤い線の手前。
撃たれない側。
だが本当に、それは安全な側なのか。
ホールの方角から、機械音が聞こえた。清掃用ドローンが動いているのだろう。朝の配給が終わると、赤い線の周辺は必ず清掃される。床を磨き、消毒し、何もなかったようにする。
坂井の血も、そうやって消された。
母の番号も、そうやって消えた。
次に消されるのは誰なのか。
蓮はその問いを頭から追い払おうとした。
だが、追い払えなかった。
午後一時の検査まで、時計の針は正確に進んでいく。施設の時計は狂わない。配給も、検査も、放送も、処分も、いつも正確だった。
人間だけが、少しずつ壊れていく。
蓮はテーブルの上の記録表に目を落とした。
異常なし。
自分で書いた四文字が、ひどく白々しく見えた。
その紙片の端に、莉子の指が触れた。彼女は何も言わなかった。ただ、兄の手の上に自分の手を重ねた。
蓮はその手を握り返した。
赤い線の向こう側には、職員たちがいる。防護服と銃口と規則がある。処置室がある。戻ってこなかった人々の沈黙がある。
赤い線のこちら側には、莉子がいる。
今は、それだけでよかった。
いや、よくはない。
よくはないが、蓮にはまだ、その線を越える方法がわからなかった。




