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赤い線の向こう側―疫病隔離施設。地面に赤い線が引かれ、越えた者は射殺される。  作者: 二条理|アコンプリス


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第十章 向こう側へ

 複製率は、七十九パーセントで止まった。

 画面右下の数字が、一瞬だけ迷うように点滅し、それきり動かなくなった。

 記録室にいた全員が、その小さな数字を見ていた。

 扉の向こうでは、職員たちが棚を押し退けようとしている。金属が床を擦る音が、少しずつ近くなる。蓮は倒した棚に肩を押しつけ、足を踏ん張っていた。肩の骨がきしむ。背中の痛みは、もう痛みとして判別できないほど広がっていた。

「止まったのか」

 蓮が言った。

 真鍋は端末の前でキーを叩いていた。額に汗が浮かんでいる。地下二階の冷気の中で、その汗だけが妙に生々しかった。

「サーバ側で遮断された」

「黒瀬か」

「おそらく」

「七十九パーセントでは足りないのか」

「中身による」

「確実な答えをくれ」

「足りない」

 真鍋は短く言った。

 蓮は歯を食いしばった。

 足りない。

 まただ。

 いつも足りない。時間も、情報も、力も、扉を開ける権限も。赤い線を越えるには三分しかなく、記録を送るには回線が足りず、莉子を助けるには腕が足りない。

 扉が大きく揺れた。

 棚が五センチほど動いた。

 看護助手の若い女性が、棚の横からファイル箱を押し込んだ。彼女の名前を蓮はまだ知らない。だが彼女もまた、もう戻れない場所へ足を踏み入れていた。

 莉子は椅子に座ったまま、六一八番の老人の肩に毛布を掛けている。五九二番の女性は搬送ベッドの上で浅い呼吸を繰り返していた。低温室から出された若い女は、まだ状況を理解できていないように目を動かしている。

 死んでいた一人だけが、低温室に残された。

 蓮は、その顔を見ないようにしていた。

 見れば動けなくなる。

「外へ送る方法は」

 蓮が聞いた。

「地上の通信盤を使うしかない」

「さっき一部を送った場所か」

「そうだ。だが黒瀬はもう塞ぎにかかっている。保守診断回線も、緊急通知も、おそらく遮断される」

「まだ完全には?」

「完全なら、この七十九パーセントも残らない」

 真鍋は画面を切り替えた。

 赤い警告が並んでいる。

 外部回線遮断。

 管理官権限による送信停止。

 地下記録サーバ隔離中。

 緊急保守通知、応答待機。

「応答待機?」

 蓮は画面に近づいた。

「さっき君が送った一部記録が、どこかに届いた可能性がある」

「どこに」

「保守管理会社か、行政の監査サーバか、あるいは死んだ回線に溜まっているだけかもしれない」

「また可能性か」

「そうだ」

 真鍋は蓮を見た。

「だが、ゼロではない」

 蓮は頷いた。

 ゼロではない。

 この数時間、蓮はその言葉だけで動いてきた。

 莉子が生きている可能性。赤い線を越えられる可能性。記録が外へ出る可能性。隔離区域の人々が動く可能性。

 確実なものは、いつも施設側にあった。

 銃口。扉。認証。拘束具。処分命令。

 こちら側にあるのは、可能性だけだった。

 扉の外から、黒瀬の声が聞こえた。

「真鍋先生。記録複製は停止されています。これ以上続けても無意味です」

 蓮は扉を睨んだ。

 黒瀬の声は近い。

 外にいる。

「佐伯蓮さん。あなたが持っている記録媒体を提出してください。七〇二番の処置は、まだ調整可能です」

 莉子の身体が小さく震えた。

 蓮は彼女のほうを見た。

 莉子は椅子に座ったまま、兄を見返した。怯えている。疲れきっている。それでも、首を横に振った。

 渡すな。

 そう言っていた。

 蓮は自分の胸元に手を当てた。

 白い記録媒体は、患者服の内側にある。

 本物はこっち。

 莉子が運んできたもの。

 真鍋が残したもの。

 母の記録、莉子の記録、死亡者リスト、投薬指示、黒瀬の音声、B2の保管リスト。それらすべてを、これ以上この地下に閉じ込めておくわけにはいかない。

「真鍋先生」

 蓮は低く言った。

「地上の通信盤まで行く」

「無謀だ」

「今さらです」

「B2の封鎖扉が閉まり始めている。地上への連絡路は、黒瀬の認証なしでは開かない」

「黒瀬は扉の外にいる」

 真鍋の目が止まった。

 看護助手が息を呑む。

 莉子が声を上げた。

「お兄ちゃん」

「捕まえるんじゃない」

 蓮は言った。

「認証させる」

「どうやって」

「黒瀬は、俺に記録媒体を渡させたい。莉子を使って脅すつもりなら、まだ俺を殺せない。なら、こちらから取引する」

 真鍋は眉をひそめた。

「取引に応じる相手ではない」

「応じさせる」

「何を差し出す」

 蓮は少し黙った。

 記録媒体を差し出すわけにはいかない。

 だが、差し出すふりはできる。

「俺です」

 蓮は言った。

「俺を連れていけばいいと言う。送信先を教える。記録媒体も渡す。だから莉子たちを地上へ移送しろ、と」

「信じると思うか」

「信じなくても、黒瀬は確認しに来る。扉を開ける」

「開けた瞬間、職員が入る」

「そこで時間を作る」

 真鍋は蓮を見つめた。

「君は、自分を餌にすることを作戦と呼んでいるのか」

「他に餌がない」

「蓮」

 莉子が呼んだ。

 蓮はそちらを見ないようにした。

 見れば揺らぐ。

 揺らぐ余裕はない。

「お兄ちゃん」

 今度は少し強い声だった。

 蓮は仕方なく顔を向けた。

 莉子は椅子から立とうとしていた。看護助手が支えようとする。莉子はそれを断り、テーブルに手をついて立ち上がった。足元は震えている。

「私を、置いていくつもり?」

「違う」

「違わない顔してる」

「お前はここにいろ」

「嫌」

「莉子」

「また私を置いて決めるの、嫌」

 蓮は言葉に詰まった。

 赤い線の手前で、莉子の手を離した。

 処置ゲートの前で、何もできずに見送った。

 低温室の前で、彼女が生きているのを見て叫んだ。

 何度も、彼は妹を守ろうとした。だが、そのたびに莉子自身の意思を置き去りにしていたのかもしれない。

 莉子は震える声で続けた。

「私、もうただ助けられるだけなの嫌だ。記録媒体を持ってきたのも、私。低温室の人たちを出そうって言ったのも、私。お兄ちゃんだけの戦いじゃない」

 蓮は黙った。

 真鍋も、看護助手も、何も言わなかった。

 扉の外では黒瀬が沈黙している。こちらの会話を聞いている可能性が高い。だが、もう構わなかった。

「じゃあ、どうする」

 蓮が聞いた。

 莉子は、胸に手を当てた。

「私も行く」

「歩けない」

「歩けないから、背負って」

「それで俺が走れると思うか」

「走らないでいい。黒瀬さんは、私がいたほうが近づいてくる」

 蓮は一瞬、息を止めた。

 莉子は自分を餌にしろと言っている。

 その事実に、怒りが湧いた。

 だが、怒れなかった。

 自分も同じことを言ったばかりだったからだ。

「駄目だ」

 蓮は言った。

「私を置いて、お兄ちゃんだけ餌になるのはいいの?」

「俺は兄だ」

「私は妹だけど、人間だよ」

 その一言は、蓮の胸に深く刺さった。

 人間。

 この施設が奪ってきた言葉。

 患者でも、番号でも、反応群でも、保管対象でもない。

 人間。

 莉子は、それを自分で取り返そうとしている。

 蓮は目を伏せた。

「わかった」

 莉子の表情が少しだけ緩む。

「でも、俺が背負う。途中で気を失っても、絶対に離すな」

「うん」

「無理だと思ったら言え」

「言ったら止まる?」

「止まらない。でも聞く」

 莉子は、かすかに笑った。

「お兄ちゃんらしい」

 真鍋が端末から顔を上げた。

「複製データの七十九パーセント分を、地下記録サーバの別領域に逃がした。完全ではないが、消去には時間がかかる」

「十分ですか」

「十分ではない」

 真鍋は言った。

「だが、足りないまま行くしかない」

 蓮はうなずいた。

 扉の外へ向かって声を張った。

「黒瀬!」

 外の音が止まった。

「話がある」

 黒瀬の声が返ってきた。

「ようやく理解しましたか」

「記録媒体を渡す。送信先も話す」

 莉子が蓮の背中に腕を回した。

 蓮は彼女を背負う。

 軽い。

 軽すぎる。

 彼女の体温は低い。背中越しに、それが伝わってくる。だが、腕には力がある。弱いが、確かに首に回っている。

「条件がある」

 蓮は言った。

「七〇二番、六一八番、五九二番、低温室にいた生存者を地上へ運ぶ。医療処置を受けさせる。隔離区域の人間に、処置室とB2の説明をする」

 外で、黒瀬が小さく笑った気配があった。

「現実的ではありません」

「なら、記録媒体は渡さない」

「こちらには突入する選択肢があります」

「突入したら、俺はこれを壊す」

 蓮は白い記録媒体を取り出した。

 莉子の目が揺れる。

 蓮はそれを床に落とし、足で軽く踏んだ。

 もちろん、本気で壊すつもりはない。

 だが黒瀬からは見えない。扉越しに聞こえる音だけだ。

「やめなさい」

 黒瀬の声がわずかに鋭くなった。

 効いている。

 蓮は確信した。

「扉を開けろ。黒瀬、あなた一人で入ってこい。職員が一人でも入れば踏み潰す」

「あなたには、その記録の価値がわかっていない」

「わかってる。だから踏んでる」

 沈黙。

 長い沈黙。

 その間にも、スピーカーから地上の警報が聞こえていた。

『赤線判定異常。複数境界を検出。職員は床面の赤色表示を除去してください』

 さらに別の声。

『隔離区域の皆様、赤線前から離れてください。これは命令です』

 だが、人々は離れていないらしい。

 声が増えている。

 床を叩く音。

 何かを引きずる音。

 怒号。

 三枝たちが、赤い線を増やし続けている。

 黒瀬にもその音は聞こえているはずだ。

 地上も地下も、同時に崩れ始めている。

「わかりました」

 黒瀬が言った。

「私一人で入ります。ただし、七〇二番を背負ったままでは、あなたは冷静な判断ができない」

「莉子は離さない」

「彼女の身体が持ちません」

「あなたが言うな」

 扉のロックが外れる音がした。

 真鍋が蓮の横に立った。

「無茶はするな」

「今さらですね」

「本当に今さらだ」

 真鍋は小さな医療用メスを蓮の手に握らせた。

「使うな。見せるだけだ」

「医者がそれを渡しますか」

「医者でいられる時間は、とっくに終わっている」

 蓮はメスを袖の内側に隠した。

 扉が開いた。

 黒瀬が立っていた。

 その後ろには職員たちがいるが、部屋には入ってこない。黒瀬は両手を見える位置に置いていた。だが、蓮は油断しなかった。彼の胸元には管理カードが下がっている。地下の扉を開ける権限。施設の首輪。

 黒瀬は部屋の中を見回した。

 低温室から出された患者たち。真鍋。看護助手。蓮。莉子。

 その視線に、焦りはない。

 だが、計算が速く動いているのがわかった。

「その記録媒体を渡してください」

 黒瀬が言った。

「先に地上への扉を開けろ」

「全員を移動させるには準備が必要です」

「なら準備しろ」

「あなたは自分が交渉できる立場にいると思っていますか」

 蓮は記録媒体を指で挟み、床に落としかけた。

 黒瀬の目が動く。

「立場なら、今つくった」

 蓮は言った。

「あなたはこの記録を消したい。俺はこれを出したい。莉子たちは生きている。地上では赤い線が壊れ始めている。もう、あなたが一方的に決める時間は終わった」

「終わりません」

 黒瀬の声が低くなった。

「施設は維持されます。どれほど混乱しても、最後には規定に戻る」

「戻らない」

「戻ります。人間は混乱に耐えられません。恐怖を与えれば秩序を求める。赤い線が乱れれば、彼らはむしろ線を欲しがる。自分がどちら側にいるのかを知りたがる」

「違う」

「違いません」

 黒瀬は静かに言った。

「あなたも同じです。妹を助けるという線を引いて、それ以外を切り捨てようとした。佐伯莉子さんが止めなければ、低温室の他の生存者を置いていったでしょう」

 蓮は返せなかった。

 その通りだった。

 黒瀬は続ける。

「人は線を引かなければ生きられない。守るべき者と、そうでない者。内側と外側。安全と危険。感染者と非感染者。管理する者と管理される者」

「だから撃つのか」

「必要なら」

「人を番号にして?」

「番号にしなければ、判断できません」

 黒瀬は、蓮の背中にいる莉子を見た。

「あなたの妹を七〇二番と呼ぶのは、彼女を軽んじているからではありません。判断から感情を抜くためです」

「それが間違ってる」

 莉子が言った。

 声は弱かった。

 だが、部屋の中にまっすぐ通った。

 黒瀬が彼女を見る。

「佐伯莉子さん」

「番号じゃなくて名前で呼べるなら、最初からそうしてください」

 黒瀬は少し沈黙した。

「あなたの状態は危険です。早く低温管理に戻るべきです」

「戻りません」

「あなたは自分の身体を理解していない」

「理解しています。寒いです。痛いです。立てません。でも、保管されるのは嫌です」

 蓮は、背中で莉子が震えているのを感じた。

「私、お兄ちゃんに助けてもらいたいです。でも、それだけじゃ嫌です。お母さんがどうして死んだのか知りたい。六一八番のおじいさんも、五九二番さんも、ちゃんと名前で呼ばれてほしい。ここで死んだ人が、処理済って書かれるのは嫌です」

 黒瀬は黙っていた。

 莉子は息を整え、続けた。

「赤い線が必要だった日も、あったのかもしれません。でも、今は違います。今の線は、守るためじゃなくて、見えなくするための線です」

 その言葉に、黒瀬の表情が初めてかすかに揺れた。

 ほんのわずかだった。

 だが、揺れた。

 蓮はその瞬間、メスを袖から出した。

 黒瀬に向けたのではない。

 記録媒体に向けた。

「地上への扉を開けろ」

 蓮は言った。

「今」

 黒瀬は、ゆっくりと息を吐いた。

「開けたとして、あなたたちはどこへ行くのです」

「赤い線の向こう側へ」

「そこも隔離区域です」

「違う。もう、線は一本じゃない」

 スピーカーが再び鳴った。

『赤線判定不能。発砲許可システム一時停止。繰り返します。赤線判定不能。発砲許可システム一時停止』

 真鍋が顔を上げた。

「地上のタレットが止まった」

 看護助手が息を呑む。

 莉子が蓮の肩を握る力を強めた。

 届いた。

 三枝たちがやった。

 無数の赤い線が、システムを混乱させた。

 発砲許可が止まった。

 今なら、赤い線を越えられる。

 黒瀬の目が細くなった。

 彼も理解していた。

 支配の中心が壊れたことを。

「開けろ」

 蓮はもう一度言った。

 黒瀬は、ゆっくりと管理カードを握った。

 そのとき、扉の外にいた職員の一人が叫んだ。

「管理官、駄目です! 地上で隔離者が線を越え始めています!」

 黒瀬の動きが止まる。

 蓮はその隙を逃さなかった。

 莉子を背負ったまま前へ出る。

 メスを黒瀬に向けるのではなく、彼の胸元のカードストラップに引っかけた。

 一気に引く。

 ストラップが切れた。

 管理カードが蓮の手に落ちる。

 職員たちが動く。

 真鍋が叫ぶ。

「走れ!」

 蓮は走った。

 莉子を背負い、管理カードを握り、記録媒体を胸に押し込む。

 黒瀬が何かを叫んだ。

 職員が追ってくる。

 真鍋と看護助手が、搬送ベッドを押し出して通路を塞ぐ。六一八番の老人がベッドの上で目を開け、かすかに笑ったように見えた。

「行け」

 老人の声は、ほとんど息だった。

 蓮は振り返らなかった。

 B2の封鎖扉へ。

 カードをかざす。

 生体認証が必要。

 蓮は悪態をつきそうになった。

 背後から黒瀬の声。

「そのカードだけでは開きません」

 その通りだった。

 扉は赤く光っている。

 莉子が背中で囁いた。

「お兄ちゃん、手」

「何?」

「黒瀬さんの手。さっき、カードと手で開けてた。手が必要」

「本人を連れてくる余裕はない」

「違う。医療ログ。真鍋先生、地下記録室で黒瀬さんの掌紋データ、見られない?」

 蓮は振り返った。

 真鍋が通路の向こうで端末を操作している。聞こえていたらしい。

「掌紋データは無理だ!」

「じゃあ」

 看護助手が叫んだ。

「緊急搬送モード!」

 真鍋が顔を上げる。

 看護助手は続けた。

「低温管理対象を地上医療区画へ搬送する場合、生体認証が一時的に省略されます。管理カードと医師権限で開くはずです!」

 真鍋がすぐに端末を操作した。

「対象七〇二、緊急搬送申請!」

 黒瀬が叫ぶ。

「承認するな!」

 真鍋は蓮を見た。

「カードをかざせ!」

 蓮は管理カードをかざした。

 真鍋が医師端末で認証する。

 扉のランプが黄色に変わる。

 緊急搬送モード。

 地上医療区画への移送を承認します。

 青。

 扉が開いた。

 冷たい地下の空気の向こうに、スロープが見えた。

 地上へ続く道。

 蓮は走った。

 背中で莉子がしがみつく。

 息が苦しい。足が重い。地下から地上へ向かうスロープは、想像以上に長かった。背中の莉子は軽いはずなのに、一歩ごとに身体が沈む。だが、止まれない。

 後ろから真鍋の声がした。

「行け! 記録を外へ!」

 その声が遠ざかる。

 黒瀬の怒号も遠ざかる。

 蓮は上った。

 地上階の扉にたどり着く。

 カードをかざす。

 扉が開く。

 白い管理区域の廊下。

 そこでは、すでに別の警報が鳴り響いていた。

『赤線判定不能。隔離者の越境を確認。発砲許可システム停止中。職員は手動対応してください』

 手動対応。

 だが職員たちは混乱していた。

 廊下の先で、数人の隔離者が走っている。灰色の服。地上の管理区域に入り込んでいる。誰かが叫んでいる。誰かが泣いている。防護服の職員が押し戻そうとしているが、タレットは撃たない。

 赤い線が、機能していない。

 蓮はその光景を見て、一瞬だけ立ち止まりそうになった。

 莉子が背中で言った。

「行って」

「ああ」

 物資搬入口へ。

 通信盤へ。

 そこで本物を送る。

 管理区域の床には、赤い線が何本も引かれていた。

 赤い布。薬液。血。マーカー。誰かの衣服を裂いたもの。床に、壁に、台車にまで、赤い線があった。

 赤い線はもう境界ではなかった。

 反乱の記号だった。

 蓮は、その無数の赤を踏み越えて走った。

 物資搬入口の前には、三枝がいた。

 彼女は灰色の服の袖を赤く染めていた。血なのか薬液なのか、わからない。透がその横で赤い布を床に貼っている。彼は蓮を見ると、目を見開いた。

「莉子姉!」

 莉子が背中で小さく手を上げた。

「透くん」

 透は泣き出しそうな顔になったが、三枝に肩を押さえられた。

「泣くのは後」

 三枝は蓮を見た。

「本物?」

「本物です」

「通信盤はまだ生きてる。黒瀬側が止めきれてない」

「送ります」

 蓮は莉子を三枝に預けた。

 一瞬だけ、背中が軽くなる。

 その軽さが怖かった。

「莉子を」

「任せて」

 三枝は短く言った。

 蓮は操作盤の下へ膝をついた。

 保守端末はまだ点いている。警告表示が出ていたが、完全には遮断されていない。さっきのIDは使えるか。

 MNT-04-13。

 認証成功。

 蓮は白い記録媒体を差し込んだ。

 端末が読み込む。

 容量が大きい。画面の反応が遅い。

 外部診断回線。

 拒否。

 緊急保守通知。

 接続中。

 拒否。

 内部ログ転送。

 地上管理端末へ転送可能。

 蓮は舌打ちした。

 外に出ない。

 三枝が横から言った。

「全部、施設内の公開端末に流せる?」

「公開端末?」

「各区画の掲示モニター。配給ホール、共同スペース、職員休憩室、管理区域。施設内全体に映せるなら、外へ出す前に中を壊せる」

 蓮は端末を見た。

 保守通知。

 全館緊急表示。

 通常なら権限が足りない。

 だが、赤線判定異常と発砲停止で、システムは混乱している。保守端末は緊急モードに入っている。今なら。

 蓮は全館緊急表示を選んだ。

 添付ファイルを選択。

 白い記録媒体。

 警告。

 ファイル数が多すぎます。

 代表ファイルを選択してください。

 蓮は迷った。

 どれを選ぶ。

 死亡者リスト。

 投薬指示。

 赤線処分記録。

 黒瀬音声。

 B2保管リスト。

 全部は無理。

 なら、最も一瞬で伝わるもの。

 B2保管リストと死亡記録修正履歴。

 人の名前がある。

 番号ではなく、名前がある。

 蓮はそれを選択した。

 さらに黒瀬音声。

 送信。

 画面が変わる。

 全館緊急表示、開始しますか。

 はい。

 蓮は押した。

 施設中のスピーカーが、一瞬だけ沈黙した。

 警報も、黒瀬の放送も、赤線判定異常の声も止まった。

 次の瞬間、配給ホールの大型モニター、共同スペースの壁面端末、職員休憩室の画面、管理区域の案内表示に、一斉に文字が映し出された。

 B2保管リスト。

 死亡記録修正履歴。

 そこには、番号だけでなく名前が並んでいた。

 佐伯美和。

 坂井隆三。

 宮代春香。

 五九二番の女性の名前。

 六一八番の老人の名前。

 処理済、修正済、薬剤反応、記録制限、赤線処分。

 そして黒瀬の音声が流れた。

『命は記録に含まれます』

 施設全体が、凍りついた。

 誰かが叫んだ。

 誰かが泣いた。

 誰かが名前を呼んだ。

 透が、モニターに映った名前を見て動かなくなった。

 宮代春香。

 彼の母の名前だった。

 蓮は端末に手をついた。

 外へ出たわけではない。

 だが、内側には出た。

 施設の中にいるすべての人間が、見た。

 赤い線の内側も、外側も。

 もう、知らなかったことにはできない。

 通路の奥に、黒瀬が現れた。

 息を切らしている。初めて見る姿だった。管理官服の肩が乱れ、顔には明らかな焦りがある。

「表示を止めなさい」

 誰に向けて言ったのか、わからなかった。

 誰も動かなかった。

 職員たちも、モニターを見ていた。

 そこに、自分たちが関わった記録が流れている。

 黒瀬が蓮を見た。

「あなたは、混乱を起こした」

「違う」

 蓮は立ち上がった。

「隠していた混乱を見えるようにしただけだ」

 黒瀬は唇を引き結んだ。

 その時、遠くから音がした。

 ヘリの音だった。

 低く、重く、施設の天井を震わせる音。

 誰かが叫んだ。

「外だ!」

 モニターの一つに、外部カメラ映像が映った。

 施設の上空に、ヘリが旋回している。

 報道機関か、行政か、保守通知を受けた外部業者か。

 まだわからない。

 だが、外が来た。

 赤い線の内側へ。

 黒瀬の顔から、血の気が引いていった。

 蓮は莉子のほうを見た。

 三枝に支えられた妹は、疲れきった顔で、それでも笑っていた。

 蓮は、端末から記録媒体を抜いた。

 そして、もう一度胸元にしまった。

 まだ終わっていない。

 外部に完全に渡すまで。

 B2の人々が救出されるまで。

 黒瀬の手から施設が離れるまで。

 まだ終わらない。

 だが、初めて見えた。

 赤い線の向こう側。

 そこは、撃たれる場所ではなかった。

 歩いていける場所だった。



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