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赤い線の向こう側―疫病隔離施設。地面に赤い線が引かれ、越えた者は射殺される。  作者: アコンプリスの人


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第十一章 赤い線の向こう側

 決行の夜は、やけに静かだった。


 風も、ほとんど吹いていない。 外の音は、最初、誰の耳にも現実のものとして届かなかった。


 低い羽音が天井を震わせている。施設全体が、ゆっくりと巨大な機械の腹の中に変わっていくようだった。配給ホールのモニターには、上空から見た施設の映像が映っている。白い屋根。細い連絡通路。換気塔。敷地を囲むフェンス。その上を、ヘリが旋回していた。


 蓮は、しばらくその映像を見ていた。


 外だ。


 その単純な言葉が、胸の奥に落ちてくるまでに時間がかかった。


 二年以上、外は遠かった。窓の樹脂板越しに見える空も、放送で聞かされる社会も、職員が語る危険も、すべてが加工されたものだった。外は存在しているが、蓮たちには触れられない。見ることはできても、行くことはできない。そういう場所だった。


 だが今、外の音が施設の内側へ入り込んでいる。


 消毒液の匂いと警報音に覆われたこの建物の中へ、ヘリの羽音が入ってきている。


 それだけで、赤い線の意味が少しずつ崩れていくのがわかった。


 配給ホールの大型モニターには、まだB2保管リストが表示されていた。


 名前。


 名前。


 名前。


 番号ではない。


 処理済でも、保管対象でも、反応群でもない。


 佐伯美和。


 坂井隆三。


 宮代春香。


 そのほか、蓮が知らない名前がいくつも並んでいる。隔離区域の人々はモニターの前で立ち尽くしていた。誰かが泣いている。誰かが床に座り込んでいる。誰かが自分の胸の番号札を握りしめている。


 透は、モニターを見たまま動かなかった。


 宮代春香。


 それが、透の母の名前だった。


 彼は口を開けていたが、声は出ていない。泣くこともできないようだった。三枝がそばに立ち、彼の肩に手を置いていた。だが、慰めの言葉は言わなかった。何を言っても足りないことを知っている顔だった。


 蓮の隣では、莉子が壁にもたれて立っていた。


 本当は立っていられる状態ではない。三枝が支えている。唇は青白く、額には汗が浮かんでいる。肩に掛けられた防寒ガウンが、彼女の身体には大きすぎた。それでも莉子はモニターから目を逸らさなかった。


「お母さんの名前」


 莉子が呟いた。


「あったね」


 蓮は頷いた。


「あった」


「消えてなかった」


「うん」


 消えていなかった。


 それは救いではない。


 母が戻るわけではない。坂井が立ち上がるわけでも、透の母が帰ってくるわけでもない。記録に名前があったからといって、失われた時間が返ってくるわけではない。


 それでも、名前はあった。


 誰かが消そうとした名前が、まだ残っていた。


 その事実だけで、蓮はかろうじて立っていられた。


 黒瀬修司は、物資搬入口の前で職員たちに囲まれていた。


 だが、その囲み方は、先ほどまでとは違っていた。守るための囲みではない。判断を待つための囲みだった。職員たちもまた、モニターを見ていた。B2の記録を、赤線処分記録を、死亡記録修正履歴を、黒瀬自身の音声を見聞きしてしまった。


 もう、黒瀬の言葉だけで全員が動く状態ではなかった。


「表示を止めなさい」


 黒瀬は言った。


 誰もすぐには動かなかった。


「表示を止めろ」


 声が強くなる。


 職員の一人が端末を操作しようとしたが、別の職員がその腕を掴んだ。


「待ってください」


 若い職員だった。蓮を追っていた職員の一人かもしれない。顔には戸惑いと恐怖が浮かんでいる。


「これは、本物なんですか」


 黒瀬はその職員を見た。


「今すぐ止めなさい」


「本物かどうかを聞いています」


「あなたに判断する権限はありません」


「でも、名前が」


 職員はモニターを見た。


「処理済って、何ですか。赤線処分記録って、坂井隆三さんは、薬を拾おうとしただけだったって」


「記録を閉じなさい」


「答えてください」


 その問いは、蓮が投げたものではなかった。


 職員の側から出た。


 その瞬間、施設の中の空気が変わった。


 赤い線は、人間を二つに分けるためのものだった。線のこちら側と向こう側。管理する者とされる者。防護服の者と灰色の服の者。質問する者と、黙って従う者。


 だが今、線の向こう側にいたはずの職員が、黒瀬に質問している。


 それは小さなことではなかった。


 黒瀬は、穏やかな表情を保とうとしていた。


「混乱時の情報には、誤読が含まれます。各自、持ち場に戻りなさい。外部ヘリへの対応は管理局が行います」


「管理局って、誰ですか」


 三枝が口を開いた。


 彼女は透の肩から手を離し、一歩前に出た。


「ここを管理しているのは、あなたでしょう。記録を書き換えたのも、低温室に人を保管したのも、赤い線で撃たせたのも、全部あなたの承認があるからできた。管理局という見えない言葉の後ろに、もう隠れないでください」


 黒瀬は三枝を見た。


「三枝菜月さん。あなたは元医療従事者として、感染管理の重要性を理解しているはずです」


「理解しています」


 三枝は即答した。


「だからこそ、感染管理と隠蔽を混同しないでください」


 ざわめきが広がった。


 隔離者たちだけではない。職員側にも。


 蓮は端末の画面を確認した。


 全館緊急表示はまだ続いている。だが、外部送信は完全には成功していない。施設内には出た。外のヘリも来た。だが、記録媒体そのものを外部機関に渡すまでは、黒瀬が再び封じ込めに動く可能性がある。


 白い記録媒体は、蓮の手の中にある。


 これを外へ渡す。


 そのためには、正面玄関か、外部対応用のゲートまで行く必要がある。


 問題は、そこまで莉子を連れていけるかだった。


 蓮は莉子を見た。


「歩けるか」


「少しなら」


「嘘だな」


「うん」


 莉子は正直に認めた。


 蓮は膝を曲げた。


「背負う」


「また?」


「文句は外で聞く」


「外で?」


「ああ。外で」


 その言葉を口にした瞬間、莉子の目が少し潤んだ。


 外で。


 それは、今まで冗談にもできなかった言葉だった。


 莉子は蓮の背中に腕を回した。蓮は彼女を背負い直し、記録媒体を胸元にしまう。三枝がすぐ横に来た。


「正面へ?」


「外の人間に渡します」


「私も行く」


「透は」


 三枝が振り返る。


 透はまだモニターを見ていた。宮代春香という名前を、目だけで何度もなぞっているようだった。三枝が声をかけようとした時、透が先に口を開いた。


「行く」


「透くん」


「お母さんのこと、聞く。外の人に」


 十二歳の声だった。


 だが、その中には子供のわがままではない固さがあった。


 三枝は少し迷い、頷いた。


「私から離れないで」


「うん」


 そのとき、施設のスピーカーが大きく鳴った。


『こちら外部監査局緊急対応班。施設管理者は応答してください。東棟および地下区画の異常信号、ならびに緊急保守通知を受信しました。正面ゲートを開放し、職員および収容者の安全確認に協力してください』


 外部監査局。


 蓮はその言葉を聞いた。


 緊急保守通知は届いていた。


 完全な記録ではないにしても、何かは外へ出た。保守通知として、異常信号として、外部の目に触れた。


 黒瀬の顔が硬直した。


 職員の中にも明らかな動揺が走る。


『繰り返します。施設管理者は正面ゲートを開放してください。応答がない場合、外部権限に基づき強制開放手続きを開始します』


 蓮は動いた。


「行こう」


 三枝が頷く。


 だが、黒瀬がその前に立ちはだかった。


 彼の背後には、まだ数人の職員がいる。全員が迷っていたが、完全に黒瀬から離れたわけではない。長く従ってきた規則は、そう簡単には剥がれない。


「記録媒体を渡してください」


 黒瀬は言った。


「外部監査局に渡す」


「彼らは、ここで何が起きているかを理解していません」


「だから見せる」


「断片的な情報は誤解を生みます」


「全部見せる」


 黒瀬は蓮の胸元を見た。


「あなたは、それを公にすることの意味を理解していない。あなたの母の死も、妹の状態も、すべて世の中に晒される。報道され、議論され、消費される。あなたたちは被害者であると同時に、見世物にもなる」


 蓮は一瞬だけ黙った。


 それは、たぶん嘘ではなかった。


 外に出れば、すべてがきれいに解決するわけではない。施設の記録が明るみに出れば、母の死も、莉子の身体も、蓮たちの生活も、誰かの画面に映る。怒りと同情と好奇心が押し寄せる。名前は取り戻されるが、その名前が別の形で消費される可能性もある。


 黒瀬はそれをわかっていて言っている。


 人の恐怖を突くのがうまい。


 蓮の背中で、莉子が小さく言った。


「それでも、閉じ込められるよりいい」


 蓮は振り返らなかった。


 ただ、妹の腕が首に回っている感触を確かめた。


「聞こえたか」


 蓮は黒瀬に言った。


「本人がそう言っている」


「十七歳の少女に判断させるには、重すぎます」


「番号にして保管するよりましだ」


 黒瀬の目が細くなる。


「あなたは、私を怪物だと思っている」


「違うのか」


「違います」


 黒瀬は静かに言った。


「私は、怪物にならないために規則を選んだ。誰かの感情で命の順番が変わらないように。誰かの怒りで社会が壊れないように。線を引き、記録し、管理することで、混乱を最小限に抑えようとした」


「その線の上で人が撃たれた」


「越えたからです」


「薬を拾おうとしただけだ」


「規則は例外から崩れます」


「人間は例外だらけだ」


 蓮は言った。


「母さんは正直に熱を書いた。莉子は怖くても戻るって言った。透の母親は、子供を残して処置室へ行った。坂井さんは薬を拾おうとした。みんな、あなたの規則から見れば例外かもしれない。でも、その例外のほうが人間なんだ」


 黒瀬は黙っていた。


 蓮は続けた。


「あなたが守ったのは秩序じゃない。例外を見ないで済む仕組みだ」


 その言葉に、黒瀬の表情がわずかに変わった。


 怒りだったのか、動揺だったのか、蓮にはわからない。


 ただ、その一瞬に、三枝が動いた。


「今!」


 彼女が叫ぶ。


 隔離者たちが一斉に床へ赤い布を投げた。


 すでに床には無数の赤い線がある。そこにさらに、布、薬液、血のついた包帯、赤いマーカーの線が重なった。境界は境界でなくなった。床一面が赤い迷路のようになる。


 天井のタレットが動いた。


 だが、撃たない。


『赤線判定不能。発砲許可システム停止中』


 蓮は走った。


 莉子を背負い、三枝と透が続く。ほかの隔離者たちも動いた。職員が止めようとするが、誰を止めればいいのかわからない。灰色の服の人々が一斉に赤い線を越え、管理区域へ流れ込む。


 黒瀬が叫んだ。


「手動で制圧しろ!」


 だが、職員たちは動けなかった。


 目の前を走っているのは、番号ではなく名前を持つ人間だと、モニターが暴いてしまったからだ。宮代春香の息子。佐伯美和の子供たち。坂井隆三の死を見ていた老人たち。処理済と書かれた者の家族。


 職員の一人が、持っていた警棒を床に落とした。


 それが合図のようになった。


 別の職員も下がる。


 黒瀬だけが立っていた。


 蓮たちは正面ゲートへ向かう廊下を走った。


 いや、走っているのは蓮だけではない。人々が同じ方向へ動いていた。ふらつく者を支える者。子供の手を引く者。車椅子を押す者。処置室から戻らなかった家族の名前を叫ぶ者。


 施設の中に、初めて生活ではない声が満ちていた。


 怒号でも悲鳴でもない。


 出口を求める声だった。


 正面ゲート前には、巨大な赤い線が引かれていた。


 これまで見たどの線よりも太い。外部との境界。ここを越えれば、施設の外に出る。だが、そこにも天井カメラとタレットが設置されている。赤線判定不能とはいえ、手動で撃たれる可能性はある。


 ゲートの向こうには、外部監査局の人影が見えた。


 防護服ではない。医療用マスクとヘルメットをつけた人々。カメラを構える者もいる。外部救急隊らしき姿もあった。ゲートは半分だけ開いている。施設側のロックが完全には解除されていないのだろう。


 蓮は赤い線の手前で止まった。


 身体が勝手に止まった。


 二年以上かけて刻み込まれた恐怖だった。


 赤い線を越えれば撃たれる。


 老人が倒れた。


 薬袋が落ちた。


 血が線と重なった。


 莉子が処置ゲートへ消えた。


 蓮の足は動かない。


 背中の莉子が、彼の首に回した腕に力を込めた。


「お兄ちゃん」


「わかってる」


「足、止まってる」


「わかってる」


「撃たれないかな」


「わからない」


 蓮は正直に答えた。


 莉子は少しだけ笑った。


「じゃあ、一緒に怖がろう」


 蓮は息を吸った。


 隣に三枝が来た。透もいる。透は泣き腫らした目で、赤い線とゲートの向こうを見ていた。


 外部監査局の職員が叫ぶ。


「こちらへ! ゆっくり線を越えてください! タレット制御は外部から遮断中です!」


 遮断中。


 本当に撃たれないのか。


 蓮にはわからない。


 だが、もうわかるまで待つことはできなかった。


 背後から黒瀬の声がした。


「越えてはいけない!」


 振り返ると、黒瀬が廊下の奥に立っていた。


 彼は銃を持っていなかった。警棒もない。ただ、必死に声だけで止めようとしていた。


「その線を越えれば、戻れません。外はあなたたちを守る場所ではない。調査、報道、訴訟、差別、好奇の目。ここから出ても、苦しみは終わりません」


 蓮は黒瀬を見た。


「そうかもしれない」


 黒瀬の顔に、わずかな希望のようなものが浮かんだ。


 蓮は続けた。


「でも、それは外で考える」


 彼は一歩を踏み出した。


 赤い線を越えた。


 警告音は鳴らなかった。


 銃声もなかった。


 ただ、莉子の腕が蓮の首に強く巻きついた。


 次の一歩。


 また一歩。


 赤い線は足の下を過ぎた。


 蓮は、初めてその線を上から見下ろした。


 塗料だった。


 ただの塗料だった。


 乾きかけた血のような色をしていたが、それ以上のものではなかった。人を殺したのは線ではない。線に意味を与えた人間だった。線を守るために人を撃った仕組みだった。線の内側に名前を閉じ込めた管理だった。


 ゲートの向こう側で、外気が頬に触れた。


 冷たい。


 消毒液の匂いがしない。


 土と金属と雨上がりのアスファルトの匂いがした。


 空があった。


 樹脂板越しではない空だった。


 莉子が、背中で小さく息を呑んだ。


「外って」


「うん」


「寒いね」


 蓮は少しだけ笑った。


「プリンは、温かい食べ物じゃないぞ」


「でも、外で食べる」


「そうだな」


 三枝と透も線を越えた。


 透は線の向こうに出た瞬間、崩れるように膝をついた。三枝が支える。外部救急隊が駆け寄る。隔離者たちが次々にゲートを越えてくる。泣きながら、叫びながら、黙ったまま。


 誰も撃たれなかった。


 外部監査局の職員が、蓮の前に来た。


「記録媒体を」


 蓮は胸元から白い記録媒体を取り出した。


 手が震えている。


 職員は両手でそれを受け取った。


「確かに受け取りました。あなたの名前は?」


 蓮は一瞬、答えに詰まった。


 番号を言いそうになったのだ。


 七〇一。


 その数字が、舌の上に出かかった。


 だが、背中の莉子が小さく言った。


「お兄ちゃん」


 蓮は息を吐き、答えた。


「佐伯蓮です」


 職員は頷いた。


「佐伯さん。妹さんを救急隊へ」


 蓮は莉子を下ろそうとした。


 莉子は少しだけ抵抗した。


「大丈夫」


「またそれか」


「違う。今のは、ちょっとだけ本当」


 蓮は莉子を救急隊に預けた。


 担架に乗せられた莉子は、蓮の袖を掴んだ。


「離れないで」


「離れない」


「嘘じゃない?」


「嘘じゃない」


 救急隊が莉子を運んでいく。蓮はその横を歩いた。


 ふと振り返る。


 ゲートの内側で、黒瀬修司が立っていた。


 外部監査局の職員に囲まれている。抵抗はしていない。ただ、赤い線の手前に立っていた。彼は線を越えなかった。


 蓮と目が合った。


 黒瀬は何かを言おうとしたようだった。


 だが、声は届かなかった。


 外部監査局の職員が、彼に事情聴取を始める。職員たちも順に集められていく。真鍋はB2から搬送されてきた生存者の処置に加わっていた。拘束されていたはずの手首に包帯が巻かれている。彼は蓮を見つけると、わずかに頭を下げた。


 蓮も、ほんの少しだけ頷いた。


 許したわけではない。


 感謝だけでもない。


 ただ、まだ話すべきことがあると思った。


 B2から運び出された人々が、次々に救急車へ運ばれていく。六一八番の老人は酸素マスクをつけられていた。彼の名札には、職員が手書きで名前を書き足している。


 それを見て、蓮は胸の奥が痛くなった。


 番号の横に、名前がある。


 たったそれだけのことに、こんなに時間がかかった。


 空は曇っていた。


 太陽は見えない。


 風は冷たく、施設の敷地には雨の匂いが残っている。遠くで報道ヘリが旋回し、救急車の赤色灯が回っていた。外へ出たからといって、世界が美しく見えるわけではなかった。混乱している。騒がしい。怖い。何が待っているのかもわからない。


 それでも、空気が流れていた。


 蓮は、自分の手首を見た。


 拘束具の跡が赤く残っている。血も滲んでいる。だが、もうつながれていない。


 三枝が隣に来た。


「終わったと思う?」


「思いません」


「そうね」


「これから、調査もある。母のことも、莉子のことも、透の母親のことも、全部」


「うん」


「黒瀬は、たぶん自分が間違っていたとはすぐに認めない」


「認めなくても、記録がある」


 三枝は外部監査局の職員に渡された毛布を肩に掛けていた。疲れた顔だった。だが、施設内で見ていた表情とは違う。背筋は相変わらず伸びている。けれど、どこかで力が抜けていた。


「三枝さん」


「何?」


「ありがとうございました」


 三枝は少しだけ眉を上げた。


「まだ早い」


「そうですか」


「早い。でも、受け取っておく」


 透が二人のそばに立った。


 手には、外部職員から渡された小さな紙を持っている。そこには、宮代春香の名前が書かれていた。これから正式な確認が行われるのだろう。だが、透はその紙を両手で握っていた。


「蓮兄」


「何だ」


「お母さん、いた」


 蓮は頷いた。


「いたな」


「消えてなかった」


「ああ」


 透の目から、ようやく涙が落ちた。


 三枝が彼の肩を抱く。


 蓮は何も言わなかった。


 言葉で埋められるものではない。


 救急隊が莉子を救急車へ運ぼうとしていた。


 蓮はそちらへ向かった。


 莉子は担架の上で、空を見ていた。


「何見てる」


「空」


「見ればわかる」


「本物だなって」


 蓮は救急車の横に立った。


 莉子は少し首を動かし、兄を見た。


「お母さんのこと、ちゃんと調べてもらえるかな」


「調べさせる」


「坂井さんも?」


「うん」


「透くんのお母さんも?」


「全部」


「全部は大変だよ」


「知ってる」


「じゃあ、私も手伝う」


「まず寝ろ」


「それ、医者みたい」


「医者じゃなくてもわかる」


 莉子は薄く笑った。


 救急隊員が蓮に言った。


「同乗しますか」


 蓮は頷いた。


「お願いします」


 救急車に乗る直前、蓮はもう一度だけ施設を振り返った。


 東棟第七区画。


 白い壁。閉ざされた窓。細い通路。赤い線。


 ゲートの内側では、外部職員たちが赤い線の写真を撮っていた。床には、三枝たちが描いた無数の赤い線が残っている。布、薬液、血、マーカー。一本だった境界が、乱雑な赤の集合になっていた。


 その中に、最初の赤い線もある。


 かつて絶対だった線。


 蓮は、それを見ても足がすくまなかった。


 怖さが消えたわけではない。


 おそらく、この先も赤い線を見るたびに思い出す。坂井の倒れた身体。母の消えた番号。莉子が処置ゲートへ消えた白い霧。B2の冷気。黒瀬の声。


 でも、もう知っている。


 線は、ただの線だ。


 越えるなと言われているもののすべてが、越えられないわけではない。


 蓮は救急車に乗った。


 莉子の担架の横に座る。


 扉が閉まる。


 救急車が動き出す。


 施設が少しずつ遠ざかっていく。


 莉子が手を伸ばした。


 蓮はその手を握った。


 手は冷たかったが、握り返す力があった。


「お兄ちゃん」


「何だ」


「プリン、忘れないでね」


「病院で食べられる状態になったらな」


「約束」


「ああ」


 莉子は目を閉じた。


 眠ったわけではない。まだ兄の手を握っている。蓮は、その指先の力を確かめながら、救急車の小さな窓の外を見た。


 道路がある。


 街路樹がある。


 遠くに、普通の建物が見える。


 人が歩いている。


 世界は壊れていなかった。


 壊れていたのは、線の内側で世界を終わったものとして見せていた仕組みだった。


 蓮は、莉子の手を握り直した。


 これから何が待っているのかはわからない。


 調査。治療。報道。裁判。記録の確認。母の死因。透の母の真実。三枝の証言。真鍋の責任。黒瀬の言い分。施設に残された者たちの救出。


 終わったことより、始まることのほうが多かった。


 それでも、救急車の中の空気には消毒液だけでない匂いが混じっていた。外の風が、わずかに入り込んでいるのだろう。


 莉子が眠りに落ちる直前、かすかな声で言った。


「外って、音が多いね」


「うるさいか」


「ううん」


 彼女の指が、蓮の手を弱く握った。


「生きてる音がする」


 蓮は返事をしなかった。


 返事をすれば、声が震えそうだった。


 救急車は走っていく。


 赤い線の向こう側へ。


 蓮は妹の手を握ったまま、初めてその言葉を、自分の中で本当の意味に変えた。


 向こう側とは、線の外にある場所ではない。


 誰かに引かれた線を越えた先に、自分たちで歩いていく場所だった。


                                 了

 赤い線の周りだけ、時間が固まっているみたいに、誰も大きな声を出さなかった。


 広場の端。

 志織は、配電盤の前にいた。


「じゃ、落とすよ」


 誰に言うでもなくつぶやいて、スイッチに指をかける。

 太いケーブルの先には、タレットの制御盤。

 予備系統も、全部まとめて。


「ほんとにやるのかよ」


 横で見ていた兵士が、思わず口を挟んだ。


「やらないと、線がただの絵にならないから」


 志織は、淡々と返す。


「大丈夫。ここは“真っ暗にするためのスイッチ”じゃない。“誰も撃たないためのスイッチ”だから」


 そう言って、彼女は最後のレバーを下ろした。


 瞬間、施設の灯りがふっと落ちる。

 すぐに非常灯が点く。

 それでも、空気の色は明らかに変わった。


 タレットの作動音が、完全に消える。


 いつも夜になると耳の奥に残っていた、低いモーターの唸り。

 それが、今夜だけはどこにもなかった。


     ◇


 狙撃塔では、砂原が最後の確認をしていた。


 視認装置の電源は落ちている。

 銃は、分解して部品を布で包んだ。

 弾倉は空で、鍵のかかった箱に入れ、その鍵をわざと配電室の床に置いた。


「撃つための道具は、これで全部“間に合わない場所”にある」


 砂原は、小さく息を吐いた。


 塔の窓から見える赤い線は、新しく塗られた場所で赤々としている。

 その手前に、薄暗い人だかり。


「……ここに残るか?」


 階段の下から、同僚の兵士が声をかけた。


「命令じゃ、俺たちも“待機”ってことになってる」


「待機はするよ」


 砂原は、銃のない手でヘルメットを押さえた。


「ここじゃなくて、下で」


 階段を降りる。

 鉄の段差を踏むたび、足の裏に軽い震えが伝わる。


 塔の外に出ると、空気が冷たく肌を刺した。

 いつもなら、ここで構えるはずの銃を、彼はゆっくりと地面に置いた。


 銃身が、石の上で乾いた音を立てる。


「俺は撃たない」


 誰に向けたとも知れない言葉を残し、砂原は塔から離れた。


 塔の窓には、もう誰もいない。


     ◇


 監視室の奥の小部屋で、霧島は一人、無線機の前に座っていた。


 ヘッドセット越しに聞こえてくるのは、遠い雑音と、時折混じる機械のノイズだけ。

 “上”からの声は、今日も相変わらず顔を見せない。


 机の上には、さっき届いたばかりの短い電文がある。


 〈第三区隔離施設 行動観察フェーズ3へ移行〉

 〈線の再定義に伴う越境行動の観察〉

 〈必要と判断される場合、抑止行動を優先せよ〉


 文末に、署名はない。


「……聞こえますか」


 霧島は、無線に向かって静かに話し始めた。


「こちら第三区隔離施設、責任者の霧島です」


 返答は、少し遅れてきた。


『聞こえる。報告を』


「タレットの送電は、不審な断線事案を受けて停止中。復旧の目処は未定です」


『復旧を急げ。抑止機能の低下は観察データに影響する』


「そうでしょうね」


 霧島は、軽く笑った。


「ですが、こちらにも事情があります」


『事情?』


「……人を撃たずに済むなら、何を失ってもいい」


 一瞬、通信が途切れたかと思うほど、静かになった。


『繰り返せ』


「人を撃たずに済むなら、何を失ってもいいと、私は考えています」


 霧島は、自分の声を聞きながら、ゆっくりとヘッドセットを外した。


『霧島、君は――』


 途中で、回線の音量を切る。

 ダイヤルを回し、電源を落とした。


 無線機の灯りが消える。

 部屋には、何も音が残らなかった。


 霧島は椅子から立ち上がると、帽子を手に取り、扉の方へ向かった。


「観察は、ここで終わりにします」


 誰にともなくそう呟いて、扉を開けた。


     ◇


 礼拝所には、灯りが一つだけ残っていた。


 小さなランプ。

 御子柴が、いつも祈りを始める前に火を灯す。


 その灯りの前に立ち、彼はしばらく両手を組んでいた。

 外のざわめきが、扉越しにわずかに届く。


「……」


 祈りの言葉が、喉の奥で渦を巻く。

 “守ってください”“導いてください”――そんな定型の言葉たち。


 だが今夜、そのどれもが妙に薄っぺらく感じた。


 外では、線を越えようとする誰かがいる。

 塔では、銃を置いた兵士がいる。

 医務室では、誰かが誰かの手を握っている。


 祈りは、いつも“止めるための音”だった。

 暴走や絶望にブレーキをかけるための、言葉の鎖。


 今夜だけは、その鎖が要らない気がしてならなかった。


「……」


 御子柴は、ランプに手を伸ばした。


 火を消す。


 細い煙が、ひと筋上がって消えた。


 礼拝所は、非常灯の薄い光だけになる。


 言葉も、止めた。

 祈りも、止めた。


 音を足すことでしか止められないものがある。

 けれど、音を止めることでしか始まらないものもある。


 今は、後者の番だと、御子柴は信じることにした。


 胸ポケットには、結び直した赤い紐が一つ入っている。

 それを指で確かめ、彼は静かに礼拝所を出た。


     ◇


 赤い線の前に、ユウは立っていた。


 足元には、塗り直されたばかりの赤が光っている。

 少し内側に移動した新しい線。その手前には、古い線の欠片。


 背中側には、人の気配。

 誰も大声は出さないが、息づかいと、靴の擦れる音と、布の触れ合う音だけで、どれだけの視線が自分に注がれているか分かる。


「ユウ」


 少し離れたところで、アヤがミオを支えて立っていた。


 ミオは白いマスクをして、細い腕でユウに手を振る。

 その手が震えているのは、寒さのせいだけではない。


 砂原は、二人の少し後ろで周囲を見張っていた。

 塔の方を一度も振り返らない。

 そこがもう“見ているだけの場所”になったのを、知っているからだ。


 志織は、配電室の方角から走ってきて、親指を立てた。


「落ちてる。タレット、完全に死んでる」


 短く、それだけ言う。


 霧島は、群衆の輪の一番後ろにいた。

 帽子を脱ぎ、指先でぎゅっと握っている。


「……」


 彼は、何も言わない。


 “越えるな”“戻れ”――そのどちらも、今は口にしてはいけない言葉だと、ようやく分かったからだ。


「行くよ」


 ユウは、自分自身に言うようにつぶやいた。


 いつか頭の中で何度もシミュレーションした動き。

 第一歩。

 第二歩。

 第三歩。


 足を線にかける。

 塗料はもう乾いていて、感触は普通のコンクリートと変わらない。


 誰かの叫びが飛ぶかと思った。

 命令の声が飛ぶかと思った。


 何も、飛んでこなかった。


 第一歩。

 線の上に、体重が乗る。

 世界は何も変わらない。


 第二歩。

 線の向こう側へ、身体の半分が移る。

 心臓の音だけが速くなる。


 第三歩。

 完全に、“外側”に出る。


 銃声は、鳴らなかった。


 タレットも、塔も、どこからも弾は来ない。

 風が少しだけ強くなり、ユウの髪を揺らす。


 誰かが息を呑む音だけが、背中に届いた。


 ユウは、振り返らなかった。


 振り返ったら、戻りたくなると思ったからだ。


 彼は、まっすぐ補給庫へ向かって歩き出した。


     ◇


 補給庫の扉は、思っていたより軽かった。


 錆びついた金属のノブを回すと、きい、と乾いた音を立てて開く。


 中は、ひんやりとしていた。

 外よりも空気が冷たい。


 棚が、ずらりと並んでいる。

 薬品を入れるはずの箱。

 救急用のバッグ。

 缶詰や水のタンクが積まれていたスペース。


 すべて、空だった。


「……どういう」


 ユウは、奥へ進む。


 棚板には、かすかに箱の跡が残っている。

 埃の薄い色と、濃い色の境目。

 最近まで何かが置かれていたことだけは分かる。


 でも今は、何もない。


 奥の机の上に、一枚だけ紙が置かれていた。


 ユウは、それを手に取る。

 ペンのインクは、まだ新しい。


 紙には、こう書かれていた。


 〈撤収完了〉

 〈観察対象:境界条件下の社会行動〉


 それだけ。

 署名も、印もない。


「……ふざけんなよ」


 ユウの手が、紙を握りしめた。


 紙は、簡単に折れ曲がる。

 二つに、四つに、八つに。


 胸の中で、何かが大きく崩れた。


 外には、やっぱり“解決”なんてなかった。

 “治る薬”も、“橋渡しの薬”すらも、もうここにはない。


 あったのは、自分たちが“観察対象”だったという事実だけ。


 線の内側でどれだけ喧嘩をしても、泣いても、祈っても、全部どこかで数字として記録されていた。


 怒りより先に、空虚さが来た。


「……」


 紙を握った手を、ゆっくりと開く。


 折り目の付いた紙は、机の上に静かに戻された。


「ミオの一日を延ばすどころか、“誰かのグラフの一つ”になってたわけか」


 自分でも驚くほど、声は静かだった。


 ユウは、机から顔を上げた。


 窓が一つ。

 外の光が、薄く差し込んでいる。


 ユウは、扉から外へ出た。


     ◇


 風が、海の匂いを運んでいた。


 潮の匂い。

 錆びた鉄と、湿った土と、遠くで打ち寄せる波の音。


 ユウは、施設の外側に出て、初めて“本当の外”の景色を見た。


 道路は、ひび割れている。

 アスファルトの隙間から、細い雑草が伸びている。

 白いセンターラインはほとんど消えかけていた。


 街灯のポールは、途中で折れているものもあった。

 電線は途中で垂れ下がり、その先はぶつりと途切れている。

 志織が言っていた“送電線の落ちた先”が、そのまま目の前に広がっていた。


 建物の窓は、いくつも割れている。

 中には誰もいない。

 車が何台か道端に止まったまま、タイヤだけがぺしゃんこになっていた。


 風に運ばれてくるのは、海の匂いだけだった。


 人の匂いは、どこにもない。


「……誰も、いない」


 ユウは、ぽつりと言った。


 足元の砂利を踏む音だけが、耳に届く。


 誰かの笑い声も、怒鳴り声も、泣き声も、ここにはない。

 ここにいるのは、ただ、風と、海と、壊れかけたものたちだけ。


 この世界の“外”は、思っていたよりずっと静かだった。


「こんなところに、薬なんて……」


 言いかけて、ユウは口をつぐんだ。


 外に“解決”はない。


 それは、志織のログからうすうす分かっていたはずだ。

 補給庫の紙が、それをはっきりと突きつけてきただけ。


 それでも、ユウは空を見上げた。


 曇っている。

 雲の切れ間から、かすかに朝日がこぼれ始めていた。


 彼は、深く息を吸った。


 肺いっぱいに入ってくる空気は、冷たくて少ししょっぱい。

 喉を通って胸に落ちていく感覚が、やけに鮮明だった。


 その呼吸が、“薬”になることはない。

 どれだけ吸っても、ミオの病気を治すことはできない。

 彼女の発作を止めることもできない。


 それでも、ユウは息を吐いた。


 ここには何もない。

 でも、内側にはまだ、人がいる。


 アヤがいて、志織がいて、砂原がいて、御子柴がいて。

 何より、ミオがいる。


 ユウは、ゆっくりと振り返った。


     ◇


 赤い線の“こちら側”――内側。


 そこには、まだ人がいた。


 線のすぐ手前に、アヤが立っている。

 片腕でミオの身体を支え、もう片方の手で彼女のマスクを押さえていた。


 ミオは、ユウを見ている。

マスクの奥で、口元が少しだけ笑っているのが分かった。


 砂原は、その横で周囲を見守っていた。

 塔の方角は、一度も見る必要がない。

 そこにはもう“撃つ権利”は残っていないと知っているからだ。


 霧島は、少し離れた場所で帽子を脱いでいた。

 握り締めた帽子のつばが、皺だらけになっている。


 御子柴は、胸ポケットに手を入れたまま、じっと線を見ていた。

 指先で触っているのは、あの赤い紐だ。


 その姿を見て、ユウは自分の足元の線を見た。


 塗り直された赤。

 太陽に照らされて、少しだけ色が変わり始めている。


「……」


 ユウは、線の上に立った。


 さっき越えてきたばかりの場所。

 もう一度、その境界の真ん中に身を置く。


 外は、無人のまま広い。

 内側には、人がいる。


 治療薬は見つからないかもしれない。

 この先どれだけ歩き回っても、“解決”なんてものには出会えないかもしれない。


 それでも。


 線は、踏み越えられた。


 タレットは沈黙し、塔は空になり、誰の銃口も、今はユウに向いていない。


 越えた先で何をするか。

 越えたあと何を選ぶか。


 それは、もはや“上”ではなく、自分たち次第だ。


 ユウは、線の外側から一歩、内側へ戻った。

 そしてもう一度、外側へ足を出す。


 行ったり来たりしながら、自分の足の動きだけを見つめる。


 赤い線が、ただの塗料に戻っていく。


「ユウ!」


 ミオの声が飛んだ。


 彼女もまた、線の手前まで歩いてきていた。

 アヤが慌てて支える。


「だめ。ここまで」


「見たいんだもん」


 ミオは、笑いながら咳き込んだ。


「ユウが、線の上を歩いてるところ」


 ユウは、ミオの方を向いた。


「……外には、何もなかったよ」


「知ってた」


 ミオは、あっさりと言った。


「でも、あなたは行った。それが大事」


「何も持って帰れなかった」


「ううん」


 ミオは首を振る。


「“線を越えたあなた”が戻ってきた。それで十分」


 ユウは、少しだけ戸惑う。


「何それ」


「だってさ」


 ミオは、目を細めた。


「あなた、最初は“線の向こうに薬があるかもしれないから行く”って言ってたけど。今はもう、“薬がなくても行く人”になってる」


 言われて、ユウは自分の胸に手を当てた。


 確かに、補給庫で紙を見つけたあと、頭の中から“薬”という言葉はほとんど消えていた。

 代わりに残ったのは、“線を壊す”“線を無効化する”という決意だけ。


「……本当に越えるべき線は」


 口から自然と、言葉がこぼれた。


「はじめから地面じゃなくて、自分の中に引かれてたんだな」


 自分で言いながら、その意味が胸に落ちてくる。


 外と内を分ける線。

 安全と危険を分ける線。

 正しさと間違いを分ける線。


 それらは全部、“地面にあるもの”だと思っていた。


 けれど、本当はいつだって、自分の中に線を引いていた。

 “ここから先はしない”“ここから先は諦める”“ここから先は誰かに任せる”。


 そう決めていたのは、自分自身だ。


 その線を、今夜ようやく踏み越えた。


 誰かに命じられたからでも、追い詰められたからでもなく。

 自分の意志で、自分の正義の密度で。


「……線、めんどくさいね」


 ミオが笑った。


「めんどくさいな」


 ユウも笑う。


「でも、めんどくさくてもいい。地面の線は消せる。タレットも止められる。塔も空にできる」


 ユウは、線の上にもう一度しっかりと立った。


「そのあと、自分の中の線をどうするかは――俺たちが決める」


 誰かが、小さく拍手をした。

 それが誰なのか、ユウには分からなかった。


 ただ、風が少しだけ強く吹いて、赤い線の上の埃をさらっていった。


 線は、そこに残っている。

 けれど、もう“絶対”ではない。


 ユウは、外に向かって一歩を踏み出した。

 その背中には、もう銃口の視線は何ひとつ乗っていない。


 外は、無人のまま、広い。


 だからこそ、これから何を描くかは、彼ら次第だった。


《了》

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


本作は、疫病隔離施設に引かれた「赤い線」を中心にした物語です。

最初はただの境界だった線が、命を分ける線になり、真実を隠す線になり、最後には人々が越えていく線へと変わっていきます。


佐伯蓮は、最初から強い主人公ではありません。

赤い線の手前で妹の手を握ることしかできなかった青年です。

けれど、妹を奪われ、母の死の真実を知り、施設に閉じ込められた人々の名前を見たことで、少しずつ「越える側」へ変わっていきました。


莉子もまた、ただ助けられるだけの妹ではなく、自分の意思で記録を託し、線の向こうへ進もうとした人物です。

この兄妹が最後に見た外の空気が、少しでも読者の皆さまに届いていたら嬉しいです。


面白かった、続きが気になった、胸に残ったと思っていただけましたら、

ブックマーク、評価、いいね、感想などで応援していただけると励みになります。


最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。

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