第八話 沈黙の投票
その提案は、銃声より静かに落ちてきた。
「越境を、抽選ではなく“投票”で決める」
霧島がそう言ったとき、広場は一瞬だけざわめきを忘れた。
配給の列も、掲示板の前の人だかりも、動きを止める。
狙撃塔を背に、霧島は拡声器を握っている。
「現状、越境は個々人の“勝手な試み”として起きています。そのたびにタレットと狙撃手は対応に追われ、内側は混乱し、外側も麻痺する」
昼の銃声。
赤ラベルの青年のバケツ。
保管庫から紛れ込んだ拳銃。
みんなの耳に、その余韻がまだ残っていた。
「だから、ルールにします。一晩につき一名。越境を“責任ある行為”として、共同体の合意で選ぶ」
ルール。
その単語に、安堵と警戒が同時に揺れた。
「条件は三つ」
霧島は指を三本立てた。
「第一に、越境者は“医療・技術に関わる役割を優先”する。薬の運搬や外部との交渉、設備の修理など、“誰かの命と直結する技術”を持つ者を優先的に候補にする」
「つまり、医者と技術屋を外に出すってことかよ」
列の後ろで誰かがぼそりと言う。
「第二に、発作が重い者、赤ラベルに近い重症者は除外する」
ざわめきが一段高くなった。
「は?」
「なんでだよ!」
「一番薬が必要なのはそっちだろ!」
霧島は手を軽く上げ、声を鎮めようとする。
「重症者を外に出すことは、危険です。移動だけで体力を削り、途中で倒れれば、外でも内側でも助けられない。線の上で命が尽きる可能性が高い」
「だからって、ここで死ぬのを待てってか」
怒りの声が飛んだ。
「第三に」
霧島は続ける。
「投票は、礼拝所で行います。名前を書くだけの、沈黙の投票です。声の大きさが、票の多さにならないように」
沈黙の投票。
こそこそと噂する声だけが、広場に残った。
「選ばれた者は、夜間に線近くの“出発位置”まで移動してもらいます。そこから先は、タレットと狙撃手が“安全なタイミング”を見て、越境の支援をする」
「支援って、どうやって」
「それは、こちらで判断します」
霧島の声は、少しだけ固くなった。
「無差別な暴走を抑えるための提案です。希望を、線の向こうだけでなく、“投票の机の上”にも置く。祈りと一緒に」
彼はそう締めくくった。
賛成の声はすぐには上がらなかった。
ただ、「投票」「一晩一人」「重症者除外」という単語が、波のように繰り返される。
「やってやろうじゃないか」
誰かがぽつりと呟いた。
「どうせ今も、勝手に出ようとするやつがいるんだ。だったら、決め方くらいこっちで選んだ方がまだマシだ」
「誰が誰に入れるんだよ」
「医務と監視の連中が票を操作するに決まってる」
「お前、何でも陰謀扱いするなよ」
声と声が交錯する。
ユウは、ミオの状態を思い浮かべながら、霧島の言葉の“網”を頭の中でなぞった。
一晩一人。
医療・技術優先。
重症者除外。
網は複雑で、穴だらけだ。
その穴から、誰が落ちて、誰がすり抜けるのか。
まだ誰にも分からない。
◇
礼拝所は、その日の午後から“投票所”に変わった。
祭壇の前に、長机が二つ並べられ、片方には紙と鉛筆、もう片方には封のされた箱が置かれている。
御子柴は、祭壇脇に立っていた。
袖をまくり、机の位置を微調整する。
「祈りの場を、こんなふうに使ってしまっていいのか、と少し思いましたが」
彼はアヤに苦笑した。
「今は、ここがいちばん“静かな場所”なので」
「静かに争うには、ちょうどいいかもしれませんね」
アヤも、皮肉とも本気ともつかない声で返した。
入口には、兵士が二人立っている。
中で騒ぎが起きないように、という名目だ。
「名前と、候補者の名前だけを書いてください」
御子柴は、列を作り始めた避難民たちに説明する。
「自分の名前は、投票後に切り取って捨てます。残るのは候補者の名前だけ。誰が誰に入れたか、分からない形に」
「ほんとに分からないのかよ」
「私を信じてください、と言えば嘘になりますね」
御子柴は、正直に言った。
「でも、人は“見られていると思うと嘘をつきづらくなる”ものです。だから、あえて私がここにいます」
列の中に、ヌマの姿もあった。
いつものように、口の端に笑みを浮かべている。
順番が近づくと、わざと後ろに下がり、様子を伺い続ける。
机の上に置かれた紙には、すでに何人かの名前が並んでいる。
“アヤ”“志織”“外周整備班の誰か”“補給係”――。
「“医療・技術優先”って話、広まってるね」
背後から小声がした。
志織が、紙束を抱えて入ってくる。
「でも、投票は強制じゃないんでしょ」
アヤが確認する。
「うん。入れたくない人は、空白の紙を箱に入れてもいい」
「空白の票も“沈黙”としてカウントされる」
御子柴が補足する。
「“誰か一人に重さを乗せたくない”という意志の表明として」
「沈黙を、数字にできるんですか」
「できないでしょうね」
御子柴は、肩をすくめた。
「でも、“沈黙した人がいた”という事実だけは、ここに残ります」
志織は、そのやりとりを聞きながら、机の端に配線図の折り目を整えた。
今日は図面の出番はない。
それでも、手放せなかった。
◇
ヌマの“市場”は、投票が始まってすぐに動き出した。
「票、売ってくれない?」
影の市の端で、彼はいつもの草を口にくわえながら言った。
相手は、十七、八の少年。
腕には包帯が巻かれている。
昼間の騒ぎで殴られたのかもしれない。
「売るって、どういう意味ですか」
「簡単な話。君の一票を、俺に預けてくれれば、その代わりに缶詰を一つ。それか、マスク一枚。どっちがいい?」
少年は眉をひそめた。
「でも、それ、ズルじゃないですか」
「何が?」
「正義とか、希望とかを売り買いするのは」
「正義は配給できない」
ヌマは、さらりと言った。
「配給所で“正義が欲しいです”って言っても、誰もくれないだろ。だから、売るしかない」
「……意味が分かりません」
「君が腹を空かせてる間に、“高いところ”ではいろんなきれいな言葉が飛び交ってる。『希望は燃料だ』とか『灯を消すな』とか」
ヌマは、広場の方を顎で指した。
「でも、君の胃袋はその言葉では埋まらない。“正義”は、君の口には入ってこない。だったら、せめて“正義を誰に預けるか”くらい、自分で選べばいい」
「預ける、って?」
「君の一票を、俺に譲る。俺はそれをまとめて、ある一つの名前に換える。君にとっては正義の細かい小銭が、“今日の分の缶詰”になる。悪くない取引だと思うけどな」
少年は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「……缶詰、ください」
「ありがと」
ヌマは、缶詰をひとつ渡し、代わりに小さな紙切れを受け取る。
「礼拝所ではその紙を出して、俺が渡した名前を書けばいい。それで取引完了」
同じようなやりとりが、あちこちで繰り返された。
缶詰一つで一票。
マスク一枚で一票。
“今夜だけ熱を下げる薬”で一票。
内側に、もうひとつの市場ができていく。
「やめなさい」
背後から、冷たい声がした。
アヤだった。
「票を売り買いするなんて、何考えてるの」
「考えてるよ。寝る間も惜しんで」
ヌマは肩を竦める。
「だって、医務の人たちだって結局“優先順位”を付けてるでしょ。誰に薬を使うか、誰を検査に回すか。あれも、“見えない投票”みたいなもんだ」
「それとこれとは違う」
「違わないよ。あれは“専門性の名を借りた配分”。こっちは“露骨な売り買い”。見た目のきたなさが違うだけで、やってることは似てる」
アヤの眉間に皺が寄る。
「あなたのやり方は、弱い人を利用してる。今日食べるものに困ってる人に、“正義の値段”を押しつけてるだけ」
「弱い人の票が、一番安く買えるから?」
ヌマの目が細くなる。
「そう見えるなら、それは正しいよ。だって、ここでは弱さが一番の通貨だから」
「……」
「でもね」
ヌマは、少しだけ真剣な声になった。
「誰かの一票を“きれいなもの”のまま机に置いておいてもさ、その票が本当に“正しい場所”に届くかどうかなんて、誰にも分からない。だったら、少なくとも目の前の誰かの腹を満たす方が、まだマシだって思う」
アヤは、返す言葉を探した。
見つからなかった。
「止める?」
ヌマが、わずかに首をかしげる。
「止めたければ、殴ってでも止めていいよ。その代わり、その分の缶詰と薬は、全部あなたが配ることになる」
「……私には、そこまで背負えない」
「だったら、見てて」
ヌマは、再び列に戻っていく人々を見やった。
「正義は配給できない。だから、売るしかない。売って、買って、値踏みして。それでも残ったものが、“本当に欲しかったもの”かもしれないから」
アヤは、その背中を見送るしかなかった。
◇
投票の結果が発表されたのは、夜の少し手前だった。
礼拝所の前に、小さな人だかり。
御子柴が封筒を開け、紙を取り出していく。
隣には霧島。
志織は、少し離れたところで図面を丸めて握りしめていた。
「沈黙票が、三分の一ほど」
御子柴が小声で告げる。
「空白の紙ですね」
「はい」
霧島は、頷くだけで何も言わなかった。
残りの票には、さまざまな名前が書かれている。
“アヤ”“志織”“ヌマ”“外周整備班”“補給班”“礼拝所の誰か”――。
そして、一つだけ、目を引く名前があった。
真木ミオ。
「……なんで」
ユウは、思わず口に出していた。
ミオの名前が、何度も出てくる。
誰かの手で書かれた細い字。
震える字。
丁寧な字。
「ミオちゃんは候補から外しておいたはずじゃ」
アヤが、御子柴の肩口を覗き込む。
「“重症者除外”じゃなかったんですか」
「正式な赤ラベルではない、という判断で」
霧島が静かに言った。
「グレーと赤の境目にいる者は、“医療に関わる家族の存在”も考慮し、候補に残しました。反対もあるでしょうが」
「でも、発作が重い子を外に出すのは――」
「危険だから残すのか」
霧島の声が、少しだけ鋭くなる。
「危険だから“ここで死なせる”のか、“向こうで賭ける”のか。どちらも残酷です。ならば、共同体で選ぶしかない」
御子柴の手が、紙を握る力を増した。
彼は何か言おうとして、やめた。
紙に書かれた“ミオ”の文字を見つめる。
祈りの場で書かれた字。
そのひとつひとつに、書いた人の願いが透けて見える気がした。
「……第一夜の越境候補者は」
霧島が、拡声器を取る。
礼拝所の外に集まった人々が、息を飲む。
「真木ミオ」
その名前が、夜に響いた。
時間が止まる。
ユウの胸が、ひゅっと縮んだ。
「ミオちゃん……?」
「なんで……」
「医務の家族だからだろ」
「一番“意味がある”から」
「いや、“見たい”だけだろ、みんな。あの子が線を越えるのを」
ささやき声が、刺のように飛び交う。
「異議があります」
アヤが、はっきりと言った。
拡声器を持った霧島の前に、一歩進み出る。
「重症者の越境は危険です。移動だけでも命を削ります。症状を抑える薬があるとはいえ、この環境と距離では――」
「医務の判断として、ということですか」
「はい」
アヤは迷わず答えた。
「医務の責任として、ミオちゃんを外に出すことには反対します」
霧島は、アヤを見た。
その目の奥に、微かな揺れがある。
「危険だから残すのか」
さっきの言葉を、今度ははっきり投げる。
「危険だから“ここに置く”んですか。安全ではなく、“危険を先延ばしにする”ために」
「でも、ここなら――」
「ここなら、誰かが看取れる?」
霧島の声が、少しだけ低くなった。
「ここなら、医療の目が届く。ここなら、“死ぬ順番”を管理できる。……そういう安心を、私は否定しません」
誰も笑わなかった。
「ですが、“外に賭けたい”と願う者の一票も、ここにはある。その一票を“危険だから”の一言で踏み潰すことは、私にはできません」
アヤは唇を噛んだ。
「……医者としては止めたい。けど、人としては」
「沈黙を選びますか?」
霧島の問いに、アヤは目を閉じた。
しばらくの沈黙のあと、彼女は小さく首を振った。
「医師としての異議は、ここまでです」
御子柴は、そのやり取りを見つめていた。
祈りの言葉は、喉元まで何度も上ってきた。
それでも、声にはしなかった。
ミオを選んだ票の一つ一つに、善意と恐怖と計算が混ざっているのが分かる。
それをまとめて「間違っている」と断じる言葉を、今の彼は持っていなかった。
だから、沈黙を選んだ。
志織は、丸めた図面を強く握りしめていた。
紙の端が、手のひらに食い込む。
(タレットを止めれば、越境のリスクは少し減る。でも、完全には消えない)
(送電線を落とせば、ここの生活も一緒に止まる)
頭の中で、配線図と人の顔がぐちゃぐちゃに重なっていく。
誰か一人の命のために、どこまで壊せるのか。
答えは出ない。
◇
夜が深まる。
医務室のカーテンの向こうは、静かだった。
ユウは、ベッドのそばの椅子に座り、ミオの顔を見つめていた。
「ねえ」
ミオが先に口を開いた。
「私、選ばれたんだって?」
「……知ってたのか」
「そりゃあね。みんな、隠すの下手だもん」
ミオは、天井を見上げて笑った。
その笑い声に、少しだけ震えが混じる。
「どうするの、って顔してる」
「どうするんだよ」
ユウの声は、かすれていた。
「行くのか。線の向こうまで」
「行かないよ」
あまりにもあっさりした答えだった。
「選ばれたって、行かない」
ミオは、ゆっくりとこちらを向く。
「あなたを残す線を、わたしは引きたくない」
ユウは、言葉を失った。
「線ってさ」
ミオは、天井を指でなぞるようにしながら言う。
「外と中を分ける線でもあるし、“行く人と残る人”を分ける線でもある。誰かが越えるってことは、“誰かが残る”ってことだよね」
「……そうだな」
「わたしだけ外に出て、あなたがこっちで“待つ方”になるの、嫌だなって思った」
ミオは、ちょっと困ったように笑う。
「だって、あなた、絶対変なことしでかすもん。“自分だけ安全なところにいる”って思った瞬間に、何か壊しに行きそう」
「そんなこと――」
「ある」
即答だった。
「だから、白状しなさい。“自分が行く方法”考えてたでしょ」
ユウは、返事ができなかった。
沈黙が、すべてを肯定する。
「ほら」
ミオは、満足そうに息をついた。
「わたしの名前を使って、自分が行くつもりだった?」
「違う。……いや、半分はそれかもしれない」
ユウは、俯いた。
「でも、投票でミオが選ばれたのは事実だ。みんながそう書いた。俺が勝手に入れ替えたら、それこそ“線を引き直す”ことになる」
「それでも、あなたは行きたいんでしょ」
ミオの声は、責めてはいなかった。
「行きたいというより、“行かないと後悔する”って顔してる」
「……延びた一日が、お前の一日だから」
ユウは、正面から言った。
「行って、薬を取ってきて、お前の熱を少しでも下げたい。それだけだ」
「ひどい正義だね」
「前にも言われた」
「でも、そういうひどい正義、わたしは嫌いじゃない」
ミオは、少しだけ目を細めた。
「だから、こうしよう」
「こう?」
「わたしは“行かない”。選ばれたけど辞退する。代わりに、“誰かにその権利を譲る”ってことにする」
「そんなの、通るかどうか……」
「投票は沈黙でも、辞退は声に出さなきゃいけない。だったら、その声で“線の形”を少し変えればいい」
ミオは、ユウの手を掴んだ。
「譲る相手に、“ユウ”って書けばいい」
「……」
「あなたが行く。わたしの名前は降ろす。そういう協定」
協定。
兄妹だけの、小さな線引き。
「そんな勝手なこと――」
「勝手なこと、いっぱいしてきたじゃん。今さらだよ」
ミオは笑った。
「それに、“選ばれたけど行かなかった人”っていう汚名を、ここに残していくのはちょっと嫌だし」
「気にするの、そこかよ」
「気にするよ。墓標みたいに、ずっと言われるじゃん。『あの時選ばれたのに怖くなってやめたやつ』って」
ユウは、思わず笑いそうになった。
喉の奥で、笑いと泣きが絡まる。
「……本気か」
「本気」
ミオは真顔になった。
「あなたが行って、帰ってこなくていい計画を、アヤさんたちがこっそり考えてる。多分」
「え」
「知らないふりしてるけど、あの人たちの目付き、最近変だから」
ミオの観察力は、変なところで鋭い。
「わたしね」
ミオは、少しだけ声を落とした。
「あなたが線を越える瞬間を、“ここから”見てたいんだと思う。門の近くで、線の手前で。『いってらっしゃい』って言いたい」
「そんなの、ドラマみたいで」
「いいじゃん。どうせなら、最後くらいドラマチックに」
咳がひとつ。
息を整えながら、ミオは続けた。
「だから、約束して」
「何を」
「わたしの名前を、あなたの足場にして。踏み台にしていいから。……その代わり、ちゃんと“延びた一日”を持って帰ってきて」
ユウは、強く唇を噛んだ。
選ばれたのはミオの名前。
でも、その名前を使う権利を、彼女は自分に渡そうとしている。
線の上で交わされる、兄妹だけの協定。
「……分かった」
ユウは、ゆっくりと頷いた。
「俺が行く。お前の名前は、俺が降ろす」
「よろしい」
ミオは満足そうに目を閉じた。
「線は、人が引いた。動かせる。……だったら、名前の線くらい、自分たちで引き直さなきゃね」
窓の外で、夜が少しだけ白み始めていた。
沈黙の投票が終わり、名前の線が書き換えられようとしている。
誰にも聞こえない場所で交わされた約束が、やがて赤い線の上で、別の線を描いていくことになる。




