第七話 “薬”の正体
冷たい光の部屋は、いつもより静かだった。
監視室の隣。古い端末と紙のファイルが積まれた小さな資料室。
志織は、机いっぱいに補給ログのコピーを広げていた。
「また何か見つけたの?」
扉のところで立ち止まっていたユウが、思わず聞いた。
文字だらけの紙。英数字の羅列。日付とコード。
眺めているだけで頭が痛くなりそうなそれを、志織は真顔で追いかけている。
「やっと“噂の薬”の顔が、少しだけ見えてきた」
志織は目だけを動かし、ユウを手招きした。
「こっち。アヤさんにもすぐ見てもらいたいけど、とりあえず先にあんたに見せる」
「なんで俺?」
「一番、欲しがってるからでしょ。例の“治療薬”」
あっさり言われて、ユウは胸の奥が冷たくなる。
ミオの体温。
昨日より少し下がっていた数字。
錠剤の苦みを飲み込んだときの、彼女の顔。
全部が、ここに繋がっている気がした。
「これ、補給ログ。外から何がどのルートで運ばれてきてるかの記録」
志織は紙の一枚を指さした。
「ここ、“医療物資”ってカテゴリの中に、別の記号でくくられてる箱がある。二週間に一度だけ、少しだけ」
「それが……治療薬?」
「それが“治療薬だと言われている箱”」
言い方が慎重だ。
「箱ごとに番号がふってあって、中身の明細はコードだけが書いてある。でも、そのコードがさ」
志織は、別の紙を持ち上げる。
そこには、薬剤の一覧表がコピーされていた。
「医務の倉庫に貼ってあったやつ」
「勝手に取ってきたの?」
「借りてきただけ。アヤさんにはあとで怒られる予定」
さらっと言いながら、志織は二つの紙を並べた。
「こっちの補給コードと、こっちの薬剤コードを突き合わせるとね……」
指先が、ある行で止まる。
「ステロイド剤、解熱剤、電解質補正液」
ユウは、それが何を意味するのか、最初は分からなかった。
「……それって」
「簡単に言うと、“症状を抑える薬”。炎症を抑えたり、熱を下げたり、脱水を防いだり」
「病気を治す薬、じゃなくて?」
「少なくとも、このログに載ってるものだけ見ると、“原因そのものを叩く薬”じゃない。症状の悪化をゆっくりにするやつ」
志織は、紙から少し視線を離した。
「“橋渡し”って、アヤさんがよく言うでしょ。『本当の治療まで辿りつくまでの間、身体を持たせるための薬』」
ユウは、喉がひりつくのを感じた。
「じゃあ、“外に置かれていた治療薬”っていうのは」
「もしかしたら、“本物の治療薬”じゃなくて、“戻る希望の時間を稼ぐ道具”だったのかもしれない」
志織の声は、淡々としていた。
だからこそ、言葉の重さがそのまま胸に落ちてくる。
「外に“解決”は、そもそもなかったのかもしれない。少なくとも、このログが正しいなら」
「嘘だろ」
思わず、声が出た。
「でも、噂では、“特効薬がある”って」
「噂はいつだって、少しだけ盛られる。『少し良くなるかもしれない薬』が、『治る薬』って言い換えられて広がるのなんて、よくあること」
志織は、ユウの顔をまっすぐ見た。
「だからって、意味がないとは言わないよ。“橋渡し”の薬があるかないかで、助かる命があるのも本当だと思う」
ユウは、ミオの咳を思い出す。
一晩中続く咳。
少しだけ長く眠れていた時間。
「延びた一日が、その人の全部かもしれない」
自分でも気づかないうちに口にしていた。
志織は、わずかに目を細める。
「アヤさんにも、これを見せよう。医者の目から見たら、また別の解釈が出てくるかもしれない」
「……うん」
ユウは頷いたが、頭の中は整理できていなかった。
外に解決がない。
でも、外に“時間を延ばすもの”はある。
それを取りに行くことに、意味はあるのかないのか。
胸の中で、二つの声がぶつかり合っていた。
◇
事実は、思った以上の早さで広がった。
志織とアヤが補給ログと薬剤表を突き合わせた結果は、すぐに霧島の耳にも届き、そして避難民たちの間にも噂として広まった。
「外の薬は、特効薬じゃないらしい」
「熱を下げたり、水分を補ったりするだけの薬だって」
「じゃあ、線を越える意味って何なんだよ」
広場のあちこちで、そんな声が飛び交う。
「でも、意味はあるだろ」
ある男が反論する。
「熱が下がってくれれば、一日でも二日でも、持ち直すかもしれない」
「そんな“延命措置”のために、誰かが撃たれるのか?」
「“延命”って言い方やめろよ」
声が荒くなる。
「“延びた一日”で、間に合うことだってあるかもしれないだろ。外の状況が変わるとか、本当の治療薬が届くとか、救助が来るとか」
「来るって誰が保証する? “かもしれない”を信じて線を越えて、撃たれたらどうするんだ」
「撃たれない時だってあるだろ、この前みたいに」
「当たらなかっただけだ。次は分からない」
「それでも必要だ派」と「無駄だ派」。
施設の中に、見えない線がもう一本引かれていく。
赤い線のこちら側にいるはずなのに、心の中のどこかで、互いを“あっち側”と“こっち側”に分け始めていた。
◇
その日の夕方、霧島は広場に人を集めた。
掲示板の前。
狙撃塔を背にして、拡声器を握る。
「“薬”の話をしましょう」
開口一番、その言葉だった。
「補給ログの解析によれば、外から運ばれている医療物資の多くは、ステロイド剤、解熱剤、電解質補正液など、“症状を抑える薬”だと判明しました」
ざわめきが広がる。
「つまり、それは“原因を根本から断つ治療薬”ではなく、“症状の悪化を遅らせるための薬”です」
霧島は、わざと“特効薬”という言葉を使わなかった。
「この事実を聞いて、失望した人もいるでしょう。“外に解決があるのではないか”という期待が裏切られた形だからです」
うなずく者が何人かいる。
「ですが、私はこうも考えます」
霧島はわずかに間を置いた。
「希望は、燃料であり、火事でもある」
広場が静まる。
「『まだ大丈夫だ』『何とかなるかもしれない』という希望は、人を生かす燃料になります。症状を抑える薬も、その燃料の一つでしょう。“もう少しだけ”という時間を稼ぎ、その間に状況が好転する可能性を繋ぎ止める」
彼は、遠くの空を一瞬だけ見た。
「しかし、希望は同時に火事でもある。“治る薬がある”“線を越えれば全部が解決する”と信じるあまり、無謀な越境や暴力的な行動が起きる。それは、内側の秩序を焼き尽くし、結果としてもっと多くの命を危険に晒す」
昨日の銃声が、誰かの耳に蘇った。
「私は、希望を否定しません。ただ、“燃料”として管理すべきだと考えます。必要な場所に、必要な量だけ。決して、一度にすべてを燃やしてしまわないように」
霧島は、赤い線の方へ片手を伸ばした。
「治療薬の正体がどうであれ、線の意味は変わりません。勝手な越境は、外の脅威だけでなく、内側の火事を招きます。私は、その火事から皆さんを守らなければならない」
言い終えて、軽く頭を下げた。
拍手は起きなかった。
代わりに、小さなため息と、消化しきれないざわめきだけが残った。
「希望は、燃料であり、火事でもある」
誰かが、そのフレーズだけを口の中で繰り返した。
◇
礼拝所では、御子柴が同じ話を、別の言葉で語っていた。
「外から運ばれている薬が、“症状を抑えるだけのものかもしれない”という話、皆さんも耳にしたと思います」
彼は、祭壇の前に立っていた。
灯された蝋燭の火が、頬に揺れる影を作る。
「それを聞いて、“意味がない”と感じた人もいるでしょう。『治らないなら、どうせ無駄だ』『線を越える価値はない』と」
数人がうなずく。
「でも、“意味がない”とは、私にはどうしても思えません」
御子柴は、胸に手を当てた。
「延びた一日は、一日です。“どうせいつかは死ぬのだから”という言葉で、たやすく切り捨てていい一日ではないと、私は信じています」
彼は、窓の外にちらりと目をやる。
「もちろん、霧島さんの言う通り、希望は火事にもなり得ます。“治る”という言葉が独り歩きすれば、人は冷静さを失い、線を無視し、銃を手に取るでしょう」
そこで一拍置いて、言葉を継いだ。
「ですが、火事を恐れて灯を消すなら、闇が支配します」
静かな声だったが、言葉ははっきりと届いた。
「希望を火事として恐れ、“全部消してしまおう”と考えるなら、残るのは闇だけです。闇は、人を容易く諦めさせます。“どうせ無駄だ”“どうせ変わらない”と」
御子柴は、灯のひとつを指先で整えた。
「私は、灯を残したい。小さな灯でいい。燃え広がらないように皆で見守りながら、それでも消さないでいたい」
彼は、祈るように目を閉じた。
「外の薬が“橋渡し”に過ぎないとしても、その橋の先に何があるのかを、私たちはまだ知らない。“橋を渡ることそのもの”に、意味がある場合もあるでしょう」
礼拝所の中で、数人が静かにうなずいていた。
その中に、ミオの姿もあった。
アヤが隣で様子を見守る。
ミオの頬は赤く、目は少し輝きすぎている。
アヤは、その“よくない良さ”を飲み込むように、唇を噛んだ。
◇
夜。
医務室には、機械の小さな電子音と、寝息が交互に流れていた。
ユウはミオのベッドのそばに座り、昼間の話をどう切り出すか迷っていた。
ミオは薄く目を開ける。
「また何か隠してる顔してる」
「……バレる?」
「バレる」
弱い笑い声と一緒に、咳が出た。
アヤが静かに水を差し出す。
「ログの話、聞いた?」
「薬の?」
ミオは、ユウの顔を見上げた。
「外の薬が“治す薬じゃなかったかもしれない”ってやつ」
「うん」
ユウは、逃げずに頷いた。
「ステロイドとか、解熱剤とか。病気そのものを消すんじゃなくて、症状を抑えて時間を稼ぐ薬かもしれないって」
「へえ」
ミオは、意外とあっさりした声を出した。
「嫌じゃないの?」
「んー……がっかりはするけど」
ミオは天井を見上げた。
「でも、なんか、聞いた瞬間、『ああ、そんなもんだろうな』って思った」
「そんなもん?」
「世界、そんなに都合よくできてないよ。線の向こうに一発で全部治る薬がある、とか。あったらいいけどさ」
咳がまたひとつ。
「でも、“時間を稼ぐ薬”って聞くとさ、ちょっとワクワクする」
「ワクワク?」
「延びた一日が、一日だもん」
ミオは、ゆっくりとユウの方を見る。
「延びた一日で、誰かがここにたどり着くかもしれないし、ユウがもっと賢い方法を思いつくかもしれないし、霧島さんが泣きながら規則を変えるかもしれない」
「泣きながらは変えないと思うけど」
「じゃあ、しかめっ面で」
ミオは笑う。
その笑い声の裏に、息苦しさが少し混じっていた。
「……それでも、行くよ」
ユウは、はっきりと言った。
「外に“解決”がないかもしれなくても、“橋渡し”の薬しかなくても。それでも行く」
ミオの視線が、真っ直ぐにぶつかってくる。
「延びた一日が、姉ちゃんの一日だから」
言いながら、自分の言葉の身勝手さを自覚していた。
施設全体のバランスとか、線の内と外の関係とか、誰が撃たれるべきで誰が撃たれるべきじゃないかとか。
そういう“正義”の話から、完全に外れた動機だ。
「僕の正義は、ここにしか効かなくていい」
ユウは、ミオの額にそっと手を置いた。
「この体温にだけ効いてくれればいい」
「ひどい正義だね」
ミオは笑って言った。
「うん。自分でもそう思う」
「でも、好きだよ、そういうの」
ミオは、目を閉じた。
「世界全部を救おうとする人って、漫画の主人公には向いてるけど、現実だとちょっと怖いから」
「俺は漫画の主人公じゃないしな」
「うん。病人の弟」
言葉と一緒に、咳がこぼれる。
アヤが、そっと背中をさする。
「計画、練り直さないとね」
アヤが小さく言った。
「戻ってこなくていい計画に」
「は?」
ユウが顔を上げる前に、アヤは首を振る。
「独り言。忘れて」
彼女の目は、ユウではなく、机の上の地図を見ていた。
◇
医務室を出たあと、アヤは志織を呼び出した。
監視室の片隅。
夜勤の兵士が退屈そうにモニターを眺めている中、二人は小声で話す。
「補給ログの件、ありがとね。あれがなかったら、私たちまだ“特効薬がある”って期待し続けてたかもしれない」
「喜んでいいのかどうかは分からないけど」
志織は苦笑した。
「で、“戻ってこなくていい計画”って?」
「ユウ、絶対行くって決めちゃった」
アヤは、机の端に置かれた紙の地図を広げた。
「止めても無駄。むしろ、止めれば止めるほど変な方向に行くタイプ」
「まあ、そうだろうね」
「だから、戻ってこなくていい前提でルートを組み直す。向こうに行って、そのまま“もっと外”へ抜けられるように」
志織は目を瞬かせた。
「“ここに戻らない方が安全な場所”なんてある?」
「分からない。ただ、“ここに留まるよりマシな場所”はあるかもしれないと思いたい」
アヤは、指で地図の一点を叩いた。
「ヌマの地図で×が付いてたところ。封鎖道路の先の集積ポイント。そこまで行ければ、少なくとも別の情報と別の薬にアクセスできる」
「つまり、“脱走”?」
「脱走って言葉、嫌いなんだよね」
アヤは、わずかに眉をひそめる。
「私は、ここが“永遠に閉じた箱”だとは思ってない。何かしらの形で必ず“出口”があるはず。その出口に少しでも近づく行為を、全部“脱走”で片づけるのはもったいない」
「でも、線は越える」
「そこは否定しない」
アヤはあっさり言った。
「だからこそ、“撃たれないための準備”は全部する。志織、送電の弱点、もっと教えて」
志織は、机の引き出しから折りたたまれた配線図を取り出した。
送電線の経路。
分岐点。
非常用バッテリーの位置。
「ここ。前にも言ったけど、タレットの主電源が外側の送電線から来てる。ここを落とせば、一時的にタレットは黙る」
配線図の一点に、赤い×印が付けられている。
「でも、それだけじゃ足りない。バックアップ系統が働く可能性があるし、人間が撃つ銃は止まらない」
「だから、“無言の味方”を増やす」
アヤは、小さな息を吐いた。
「砂原さん、今どこ担当?」
「監視線の外側。送電線の目視チェックと、外周の巡回」
志織は、別の紙をめくった。
「ここ。線のずっと外。タレットの真正面には立たない位置」
「……夜ごとに、微かな合図を送ってくれてるって、ユウが言ってた」
「塔から降ろされたからね。今度は“外から”何かを止めようとしてるのかもしれない」
志織は、配線図の×印をもう一つ増やした。
「送電の弱点図に、味方のいる場所の×も重ねる。物理的なスイッチと、人間のスイッチ。両方必要」
赤い線のこちら側と向こう側。
さらにその外側にいる誰か。
アヤは、自分の中の迷いを紙の上に押し込めるように、地図を折りたたんだ。
「ユウには、どこまで話す?」
「全部話したら、たぶんブレーキ踏む。だから、“自分がどうしたいか”は、あの子に決めさせる。こっちは、“どうなっても生かせるルート”だけ、黙って整える」
「性格悪いね」
「医者って大体そうだよ」
アヤは、少しだけ笑った。
◇
その夜。
施設の外周は、別の意味で静かだった。
砂原は、防寒コートの襟を立てながら、送電線の支柱の影に立っていた。
上空には、黒いケーブルが伸びている。
そこを電気が走り、タレットや照明に命を送っている。
公式には、“送電線の目視点検”。
だが、実際にやることはほとんどない。
彼は、ポケットから小さな鏡を取り出した。
ヌマから渡されたものだ。
「外から光を返すのに使えるよ」
そう言って、少し得意げに笑っていた。
砂原は、鏡の角度をそっと変えた。
遠くの監視灯の光が反射し、ほんの一瞬だけ、赤い線の近くの壁に細い光が走る。
塔にいた頃、自分が受け取っていたような、あの小さな合図。
今度は、自分が送る番だった。
誰が受け取っているのかは分からない。
ユウかもしれないし、志織かもしれないし、誰も気づいていないかもしれない。
それでも、やめる気にはなれなかった。
撃たせないための“無言の反乱”。
規則を大きく破ることはできない。
公然と線を消すこともできない。
でも、わずかに届くかもしれない光を、夜ごと送り続けることならできる。
送電線が、風に揺れた。
タレットの向こうで、施設の灯りが瞬く。
「希望は燃料であり、火事でもある」
霧島の言葉が、ふと頭をよぎる。
「灯を消せば、闇が支配します」
御子柴の言葉も。
砂原は、空を見上げた。
どちらの言葉も、正しいような気がした。
どちらの言葉も、完全には信じきれなかった。
だからこそ、彼は鏡を持ち、送電線の下に立っている。
「せめて、“誰も撃たれないタイミング”くらいは、作らせてくれ」
誰にともなく呟き、再び鏡の角度をわずかに変えた。
◇
ユウは、医務室の空いたベッドに腰掛け、膝の上に地図を広げていた。
ヌマの描いた粗い線。
志織が書き込んだ補給ルートと送電線。
アヤが赤ペンで付けた印。
赤い線。
補給庫。
封鎖道路。
その先の×印――“もっと外”。
指先で、線をなぞる。
ミオの寝息が、すぐそばで聞こえる。
「延びた一日が、姉の一日」
自分の言葉を、もう一度心の中で繰り返した。
それがどれだけ身勝手で、どれだけちっぽけな正義なのかは分かっている。
それでも、ここから先の自分の動き方を決めるには、十分すぎる理由だった。
窓の外で、ふと光が揺れた気がした。
ほんの一瞬。
夜の闇を切るような、細い反射光。
ユウは顔を上げる。
もう何も見えなかった。
「……行くよ」
誰にともなくそう呟くと、地図を丁寧に折りたたんだ。
線の内側。
線の向こう側。
もっと外。
いくつもの境界線が、頭の中で交差していた。
ただひとつだけはっきりしているのは、そのすべての線の向こうに、ミオの“明日”がかかっている、ということだけだった。




