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赤い線の向こう側―疫病隔離施設。地面に赤い線が引かれ、越えた者は射殺される。  作者: しげみち みり


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第3話 銃口の向き

 夜と朝の境目は、いつも狭い。


 まだ空が暗いのに、広場の端では交代の兵士たちが集められていた。狙撃塔の足元。塔の影は、赤い線をまたいで地面に長く伸びている。


「交代、五分遅れだ」


 上官の低い声が響いた。

 砂原リョウは背筋を伸ばしたまま、返事ができなかった。


 狙撃塔の交代時間は、分刻みで決められている。

 五分の遅延は、五分の“隙”だ。

 この施設では、隙はそのまま死に直結する。


「昨夜の巡回ログ、見た。ここ、空白がある」


 上官がタブレットを指先で叩いた。

 画面には、施設全体の巡回ルートが時間ごとに表示されている。

 その中に、小さな穴が空いていた。

 塔の上から赤い線を見下ろせた、あの時間帯。


「見落とし、です」


 砂原は絞り出すように答えた。

 声は自分のものなのに、遠く聞こえた。


「見落とし?」


 上官の眉がわずかに動く。

 周囲の兵士たちが、砂原を見た。

 誰も何も言わない。ただ、その視線が冷たい。


「警報も鳴っていない。タレットも作動していない。なのに、ログには“巡回中断”の隙間がある」


 それは――見逃し、というより“意図的な空白”に見えた。


「……すみません。塔の上で視界を確認していて、入力を忘れました」


 言い訳に近い説明を口にしながら、砂原は自分の視線が定まらないのを自覚していた。

 上官はその揺れを見逃さない。


「お前は、優しすぎる」


 静かに言われた一言は、罵倒ではなかった。

 だが、胸に刺さった。


「戦場でも、避難所でも、“甘い兵士”は一番最初に孤立する。誤解され、自分も誰も守れなくなる」


 その場にいた他の隊員たちが、わずかに視線を逸らした。

 砂原は返事をせず、ただ敬礼する。

 形式だけは守らないと、立っていられない気がした。


 上官はため息をつき、短く告げた。


「巡回ログは正確に。次に空白を作ったら、話はここで終わらないと思え」


 解散の号令。

 兵士たちは散っていく。

 その中で、砂原だけが、塔を見上げたまま動けなかった。


 塔の上には、昨夜見た闇がまだ残っている気がする。

 その闇の縁に、紙片を握りしめた少年と、赤い線を挟んで立っている自分の姿が、焼き付いていた。


 甘い兵士。

 優しい、と呼ばれたことはあっても、その言い方は初めてだった。


 砂原は小さく息を吐き、顔を下げた。

 塔の影が足元で揺れた。

 それはまるで、内側に向けられた銃口の影のように見えた。


     ◇


 朝の検温が終わるころ。

 医務ブロックの片隅で、アヤと志織、ユウが身を寄せ合っていた。


 診察室の奥。

 不要になったベッドの枠と壊れた検査機器の間。

 ここなら、耳の良すぎる患者たちにも、兵士の靴音にも気づかれにくい。


「タレットの“震え”、やっぱり右側ユニットだけ違う」


 志織が紙に何かを書き込みながら言った。

 昨日持ち出した配線図のコピー。

 その端に、小さな丸と矢印が増えていく。


「震え?」

 ユウが首をかしげると、志織は窓の外を顎で示した。


「試射のとき、見てた? 左と中央は、撃つ前にほとんどブレない。でも、右だけ“最初の一発”がわずかに下に落ちてから、軌道が戻る」


「故障、ってこと?」


「ジャイロのズレだと思う。照準はデータ上、正確。でも、体そのものが最初の一瞬だけ躊躇ってるみたいにズレる」


 志織は指先で自分の手首を押さえ、銃を構えるまねをしてみせた。


「ほら、撃つ直前に、無意識で手が震えると、最初の一発だけ変な方向に飛ぶでしょ。あれの機械版」


「タレットが……躊躇う?」


 ユウが思わず繰り返す。

 機械に感情はない。

 でも、“最初だけ当たらない銃”というイメージは、妙にリアルだった。


「だから、右側のタレットの真下付近。線の上ぎりぎりに“空間”ができてる。完全に安全じゃないけど、他よりはマシ」


 志織は赤いペンで一点を丸く囲った。

 それは、昨夜ヌマの描いた死角と、ほとんど同じ場所だった。


「なんでそんなこと、分かるの」


「暇だから」


 即答だった。

 でも、その声の裏に、別の感情が隠れているのは、ユウにも分かった。


「暇だと、『見られてる』って意識に押しつぶされそうになるでしょ。だから、逆に“見てる側”を観察する。カメラ、タレット、警備の動線。そうすると、少しだけ息がしやすくなる」


 志織の視線が、窓の外の塔とタレットをなぞる。

 その目は、怯えているようでもあり、冷静でもあった。


「アヤさんの方は?」


「配給係から、空の薬箱を三つ。何とかもらえた」


 アヤが足元の布袋を軽く蹴った。

 金属の擦れる音がする。


「どうやって?」


「“まだ使える箱を捨てるのはもったいない”って。『次の便がいつになるか分からないんですよ』って、大げさに心配してみせたら、向こうも不安になって、“じゃあ持っていきなさい”って」


 アヤは小さく笑った。


「不安は、交渉の道具になる」


 その言葉の冷静さに、ユウはほんの一瞬ゾッとした。

 いつも患者のそばで優しく笑っている看護師の顔と、今目の前にいる“作戦に必要なものを揃えるためにどんな言葉でも使う”アヤが、同じ人間だと思えなかった。


「その箱に、外から引き寄せたものを詰め込む。薬があれば薬。食料でも、何でもいい。ミオちゃんに必要なものは、こっちで選ぶ」


「ミオの体温は?」


 志織に問われ、ユウはノートを開いた。

 ページには時間と体温、咳の発作の時間帯が細かく記されている。


「今朝は三七・八。昨夜よりは少し下がった。発作の間隔は……短くなってるけど、その分、一回一回が軽くなってる気がする」


「薬が効いてる?」


「効いてるか、ただの波か……分からない。でも、今日の夜を越えたら、たぶん――」


 言い淀んだユウの代わりに、アヤが言葉を継いだ。


「今日の夜までに、手を打ちたい、ってこと」


 その場に、短い沈黙が落ちた。


 外では、午前のタレット校正試射が行われている。

 乾いた連射音。

 志織は、その音のわずかなリズムの乱れを数えながら、紙に印をつけていた。


「右が一瞬、遅れる。……やっぱり、躊躇うんだよ。最初の弾だけ」


 躊躇う銃。

 躊躇う機械。

 躊躇わない人間。


 ユウは、昨日霧島が言った言葉を思い出した。

 「撃つと言い続けるのが、撃たせない一番の近道です」


 本当にそうなのか。

 本当に、誰も撃たずに済むのか。


 胸のどこかで、鈍い音が鳴った。


     ◇


 昼前。

 掲示板の前に、人の輪ができていた。


 検査結果が更新される時間。

 紙のラベルを貼り替える霧島の手元を、みんなが食い入るように見ている。


 今日、赤ラベルは増えていない。

 代わりに、昨日赤だった一枚が、黒い線で囲まれている。


 死亡、という意味だった。


「近くにいた人間は、あの子の“同席者”ってことになるのか?」


「同席って、どこまで? 家族だけ? 隣のベッド? 同じ部屋?」


「同じ配給列に並んでたやつは?」


「いや、そしたら俺たち全員アウトだろ」


 囁きが広がる。

 ラベルには、“同席者”の区分けも小さく書かれていた。

 最近、それが細かくなっている。

 部屋番号、ベッドの位置、配給列の順番。


「お前も“同席者”だろ」


 誰かの声が、輪の中で跳ねた。


「は? 違う」


 即座に否定した青年の腕を、別の男が掴む。


「いや、昨日、赤の子のベッドの近くで水を交換してただろ。見たぞ」


「交換しただけだ。話なんてしてない」


「距離じゃない、“接触”だ。規則だろ」


 掴まれた腕が振り払われる。

 ぶつかった肩が、別の人間に当たる。

 小さな苛立ちが、連鎖していく。


「おい、やめろよ。今、押しただろ」

「押してねえよ。そっちが勝手に近づいて――」


 言葉の温度が上がる。

 その瞬間、乾いた音が一つ鳴った。


 銃ではない。

 拳だった。


 誰かの頬に拳がめり込み、体がよろめく。

 周りが一斉にどよめいた。


 この施設で、初めて聞く“人の拳が鳴る音”だった。


 殴られた男が、反射的に殴り返す。

 掴み合いになる。

 周囲が止めようとするが、その手を振りほどいて、拳がもう一度振り上げられる。


「同席者なら、離れてろよ!」

「お前だって同じだろうが!」


 叫び声が重なり、押し合いが広がる。

 赤い線からは遠い。

 だが、空気は線の上よりも危うく見えた。


「やめなさい!」


 アヤが割って入ろうとした瞬間、銃声にも似た鋭い音が響いた。

 だが、それはタレットではなく、拡声器だった。


「全員、その場で止まれ!」


 霧島の声が広場に突き刺さる。

 兵士たちがすぐに周囲を囲み、拳を振り上げていた男たちを引き離した。


 霧島は掲示板の前に立ち、ゆっくりと人々を見渡す。

 背後には、狙撃塔がそびえている。

 塔の上のタレットの口が、広場全体を睨んでいた。


「並んでください」


 霧島の声は静かだった。

 だが、その静けさの中に、さっきの殴り合いより強い圧があった。


 人々は、言われるままに二列に並ぶ。

 殴り合っていた男たちも、肩で息をしながら列に戻された。


 霧島は、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「私は、外へ向けて銃を構える」


 塔の方へ、顎をしゃくる。


「タレットも、兵士も、規則も。本来は、外にある脅威から、ここを守るためのものです」


 誰かが、小さく鼻で笑った。

 霧島の視線が、その方向を一瞬だけ射る。

 それだけで、笑いは喉で止まった。


「でも、今、ここにいる皆さんの目は、どこを見ていますか?」


 沈黙。

 視線は、それぞれの足元や、隣の肩や、掲示板の赤いラベルに落ちていた。


「外ではなく、隣を疑っている。拳を向ける先は、感染の可能性がある“外の何か”ではなく、“近くにいる誰か”になっている」


 霧島は一歩前に出た。

 狙撃塔を背に、人々を真っ直ぐ見据える。


「私は外へ向けて銃を構える。内側に向けるのは、君たちだ」


 その言葉は、ゆっくりと広場全体に落ちていった。


 誰も返事をしない。

 返事の代わりに、浅い呼吸が重なる。


「同席者の線引きは、確かに難しい。どこまでを危険と見なすかは、専門家でも意見が分かれるでしょう。だからこそ、私はラベルに頼る。個人の感情ではなく、規則に」


 霧島は掲示板を指さす。


「ここに書かれたこと以上を、勝手に決めないでください。『あいつはきっと感染している』『近づけば自分も危ない』。その想像は、銃より速く人を傷つけます」


 殴り合っていた男たちが、うつむいた。

 頬に青あざが浮かび上がっている。


「タレットは、自分の意思で内側を撃ったりしません。だが、人間は違う。心の中で銃口をくるりと回し、隣人に向ける」


 霧島の目が、列の端に立つ砂原を捉えた。

 砂原は一瞬、視線をそらしそうになり、堪えた。


「私が怖いのは、外からの何かではありません。ここにいる、一人一人の“銃口の向き”です」


 言い終えると、霧島は拡声器を下ろした。

 耳の奥で、誰かの唾を飲む音が聞こえた気がした。


「解散。……もう殴り合いはやめましょう。殴られる前に、話すことはできるはずです」


 最後の言葉は、ほんの少しだけ優しかった。

 だが、誰も笑わない。

 列が崩れ、人々はそれぞれの持ち場へ戻っていく。


 砂原は、その場に立ち尽くしたまま、塔を見上げた。

 塔の上のタレットの銃口は、相変わらず外を向いている。

 けれど、自分の胸の中にある見えない銃は、少しずつ内側へ回転を始めている気がした。


 昨夜、見なかったことにした少年の影。

 今朝、上官の言った“甘い兵士”。

 さっきの殴り合いで、止めに入れなかった自分。


 どの瞬間の銃口も、自分の手から離れた場所で勝手に動いているようでいて、実際には、自分自身がゆっくりと回しているのだと思うと、酔いそうになった。


 肩が、小さく落ちた。


     ◇


 夜が近づく。

 医務ブロックの廊下は、昼よりもひんやりしていた。


 ミオのベッドのそばで、ユウはまたノートを開く。

 体温計を抜き、数字を書き込んだ。


「三八・一。……上がってる」


 苦い数字だった。

 ミオは薄く目を開ける。


「ねえ、今日何曜日?」


「分かんない」


 即答すると、ミオがかすかに笑った。


「ちゃんと覚えなよ。外出るとき、曜日ずれてたら困るよ」

「外に出るときは、曜日関係ないだろ」


「そうかな。海だって、きっと曜日で色が違うんだよ」


 咳が出る。

 アヤが慣れた手つきで体勢を変え、吸入器を口元に当てる。


「もう少しで薬が来るからね」


 アヤの言葉に、ミオが目を丸くする。


「外から?」

「どこからかは――企業秘密」


 アヤは目でユウに合図した。

 廊下で、と。


 扉を閉めると、音が一気に遠のく。

 医務室の外の空気は、なんとなく薄い。


「発作の間隔、もう一度見せて」


 アヤがノートを覗き込み、指で時間を追った。


「今日の夜、停電の時間帯、ミオちゃんの状態があまり悪くないタイミングにかぶってる」


「……行ける?」


「行くしかない」


 志織が、いつの間にか廊下の壁にもたれていた。

 配線図を折り畳んだ紙を手の中でいじりながら、にやりと笑う。


「停電開始から三分間が勝負。タレットの主電源は落ちるけど、センサーのバックアップがどこまで機能するかは賭け。カートは私とユウで押す。アヤさんは、物資を受け取る係」


「補給側が、本当に“こちらへ”近づいてくるかどうかが問題だね」


 アヤが腕を組む。


「こっちからは、越境の意思を見せない。線の上ぎりぎりまでカートを押して、“ここにいる”っていうサインだけ出す。向こうが危険だと思えば、無視するか、警告を出す」


「それだけ?」


「それだけ」


 ユウは、自分の喉が渇いているのに気づいた。


「向こうに、ちゃんと人がいるのかどうかも分からないのに」


「いるよ」


 志織が、意外なほどはっきりと言った。


「だって、補給車、来てるもん。何回も」


「運転は自動かもしれないだろ」


「積み荷のチェックは? タレットのメンテナンスは? 完全自動化するにも、誰かが最低一回は“人間として”関わってる。じゃないと、こんなふうに中途半端に壊れたりしない」


 志織は、タレットのジャイロのズレを思い出している顔だった。


「完璧じゃないってことは、人の手が混じってるってことだよ」


 完璧じゃない。

 それは希望であり、同時に不安でもあった。


「……分かった。やる」


 ユウは息を吐いた。


「越えるんじゃない。引き寄せる。線の上まで行って、待つ」


「それが、“銃口を外に向けたまま”できるギリギリのラインだと思う」


 アヤはそう言って、少しだけ目を伏せた。


     ◇


 夜。

 祈祷室の灯りは、小さな炎で揺れていた。


 御子柴は祭壇の前にひざまずき、目を閉じていた。

 壁には簡素な十字架。

 天井は低く、蝋燭の煤が黒く広がっている。


 扉が軋む音。

 振り返ると、ユウが立っていた。


「ごめんなさい。祈りの邪魔を」


「構いませんよ。ここは、誰かが何かをこぼす場所ですから」


 御子柴は微笑み、立ち上がった。


「座りますか?」


「立ったままでいいです。……聞きたいことがあって」


 ユウは、赤い線を思い浮かべていた。

 塔、タレット、ヌマの紙、志織の配線図。

 全部が頭の中でぐるぐると回る。


「もし、誰かが線を越えようとしていたら、神父さんは止めますか」


 御子柴は少しだけ目を細めた。

 質問の意味を探っているようだった。


「そうですね……」


 答えを急がず、祭壇のろうそくを一本、指で整える。


「“越境”とは、神に背くことではありません」


「じゃあ、何に背くんですか」


「共同体に、です」


 その言葉は、思っていたよりずっと静かだった。


「この施設で、人々が何とか自分を保っていられるのは、“同じ規則を信じている”という共同幻想のおかげです。赤い線を越えることは、その幻想から自分だけ降りることでもある」


「共同幻想……」


「神は、その共同幻想の上に“立てられている”存在に過ぎません。越境する人は、神に背くのではなく、“皆で決めた約束”に背く」


 御子柴は、ユウの目を真っ直ぐ見た。


「だから、もし誰かが越えようとしていたら、私は止めるでしょう。神父としてではなく、この共同体に属する一人として」


「その共同体って、誰ですか」


 ユウは口をついて出た疑問を、そのまま言葉にした。


「霧島さん? 兵士たち? ここに閉じ込められている全員? 外にいる誰かも含めて?」


 御子柴は少しだけ目を伏せる。


「いい質問ですね」


 そう言っておきながら、すぐには答えない。


「答えを急ぐと、間違えます。……“共同体”とは、あなたが自分の安定のために選んだ“守りたい範囲”のことです」


「守りたい、範囲」


「家族だけを共同体だと思う人もいる。施設全体を共同体と見なす人もいれば、この国全体、人類全体をそう呼ぶ人もいる。どこまでを一緒に沈ませ、どこからを切り捨てるか――その線引きが、その人の“共同体の輪郭”になる」


 御子柴は赤い線を思い出すように、床を見た。


「あなたにとっての共同体は、誰ですか」


 問いが返ってきた。

 ユウは、すぐには答えられなかった。


 ミオの顔が浮かぶ。

 アヤ、志織、ヌマ。

 砂原。

 掲示板の前で殴り合っていた人々。

 塔の上で黙ってタレットを見つめている兵士たち。


「……分かりません」


 正直に言うと、御子柴はうなずいた。


「いいんですよ。分からないままでも。ただ、線を越えるとき、自分がどの共同体から外れるのかだけは、覚悟しておくべきです」


 御子柴は、ポケットから小さな金属製の十字架を取り出した。


 祈祷室を出て、施設の外壁まで歩く。

 夜風が冷たく、赤い線が足元で鈍く光っていた。


「神父さん?」


 ユウが後を追うと、御子柴は振り返らずにしゃがみこんだ。


 赤い線の上。

 指先で、その上に小さな十字を描く。

 塗料がわずかに剥がれ、色が重なる。


「君が越えるとき、誰かの祈りが君を撃つ」


 御子柴は、静かに言った。


「祈りは、いつだって共同体の側にあるから」


 その言葉の意味を、ユウはすぐには理解できなかった。

 ただ、線の上の小さな十字が、妙に生々しく見えた。


     ◇


 深夜。

 狙撃塔の上は、風が強かった。


 砂原は防寒具の襟を立て、視認装置に目を当てる。

 外壁の向こうには、闇と、かすかな海の気配が広がっていた。


 視認装置の端を、右手が握っている。

 その手が、細かく震えていた。


 さっきから、意識しても、震えが止まらない。


 巡回ログの空白。

 上官の言葉。

 霧島の演説。

 殴り合いを止められなかった自分。

 ヌマと少年の影。


 全部が、指先に残っている。


「……落ち着け」


 誰に言うでもなく、呟いた。

 視界の端に、赤い線が伸びている。

 塔の上からは、線のこちら側と向こう側が、どちらもよく見えた。


 機械のタレットは、いつもと同じ姿勢で外を向いている。

 ジャイロのわずかなズレが、最初の一発をためらわせることを、砂原はまだ知らない。


 視認装置のレンズの端で、闇がわずかに揺れた。


「……ん?」


 砂原はピントを合わせる。

 外壁の向こう、補給庫の方向。

 そこに、小さな光の跡が見えた。


 一瞬、蛍のように。

 つい、と動いて、消える。

 また、別の場所で点き、すぐに消える。


 何かの誤作動か、それとも――合図か。


 こちらへ、と誰かが言ったように見えた。


 砂原の喉が鳴る。

 塔の上の空気が一段冷えた気がした。


 銃口は、外を向いている。

 だが、そのとき彼が感じたのは、自分の背後――施設の内側に向けられた、見えない視線の重さだった。


 甘い兵士。

 優しすぎる兵士。


 砂原の指は、いつでも引き金に届く距離で冷たくなっていた。

 震えが止まらないまま、彼は、闇の中のわずかな光跡から目を離せなかった。

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