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赤い線の向こう側―疫病隔離施設。地面に赤い線が引かれ、越えた者は射殺される。  作者: しげみち みり


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第2話 越境案

 午前の検温と配給が終わると、広場の片隅に人の流れが生まれる。

 赤い線の、ほんの少し手前。

 そこに寄り添うようにして、木箱や毛布、壊れかけの机が並び、ささやき声が重なっていた。


 影の市、と人は呼んだ。


 正式な売買は禁止されている。

 だが、ここでしか手に入らないものがある。

 たとえば、壊れたラジオの一部品とか、配給に乗らない古い缶詰とか、誰かからこっそり抜かれた薬とか――そして、噂。


「そこで止まって。靴、線にかかってる」


 低い声にユウは足元を見る。

 赤い線のわずか数センチ手前、土の色が急に変わっていた。

 線は、塗り直したばかりの艶を残している。

 ほんの少し踏み込めば、センサーが反応する距離だ。


 声の主――ヌマが、木箱の上に腰をかけていた。

 顔の半分をマスクとスカーフで覆い、目だけが笑っている。


「そんなに見つめられると照れるなあ。俺、そんなにイケメンじゃないよ?」

「……別に、見てない」


 ユウは目を泳がせ、あたりを見渡した。

 影の市には十数人が散らばっている。

 毛布を広げて古びたマスクを並べる老婆。

 何かの機械部品を知らないふりで撫でている青年。

 そして、みんな赤い線には決して触れない。


「君、昨日の夜、塔の上にいたろ」


 ヌマが指先で空を指す。

 ユウの背筋がこわばった。


「あの高さからだと、ここがよく見える。俺も君を見てたから」

「……用件は?」


 開き直るように問い返すと、ヌマは肩をすくめた。

 カラカラと乾いた笑い声が、風に混じる。


「用件はそっちでしょ。『外に何かあるなら教えてください』って顔してる」

「そんな顔してない」

「してる。少なくとも、姉ちゃんを心配してる顔だ」


 ミオの名前は出していない。

 でも、ここでは、誰が誰を気にしているかなんて、とっくに見抜かれているのかもしれない。


「で?」

「……治療薬の話、本当なのか」


 ユウが絞り出すと、ヌマの目が細くなった。


「さあ。噂はタダだけど、本当の情報は高い」

「金なんて持ってない」

「金じゃないよ。ここで価値があるのは、食料、情報、それと人の度胸」


 ヌマは木箱の下から紙を引き出した。

 皺だらけの紙に、震えた線で簡単な見取り図が描かれている。


「補給庫の位置と、タレットの死角。それから、昨夜の補給車の軌道」

「……本当に?」

「安くしとく。必要なのは、君の度胸だけ」


 紙には、施設の外壁と赤い線、それに沿うように設置された自動タレットの位置が記されていた。

 一箇所、印が違う場所がある。

 タレットの視界から、わずかに外れるスリットのような空白。


「ここ。線ギリギリまで近づけば、タレットは撃たない」

「越えたら?」

「さあ。戻ってこれたやつはいないから、俺にもわからない」


 ヌマは悪びれずに言う。

 その軽さが、余計に胸をざらつかせた。


「交換条件は?」

「今は、君の名前でいい」

「名前?」

「君が本気で外を見に行く気があるなら、俺はそこに賭ける。賭けた相手の名前ぐらいは知っておきたい」


 馬鹿げている。

 そう思いながらも、ユウは口を開いていた。


「……ユウ」

「ユウ。いいね、短くて覚えやすい。俺はヌマ。沈みかけてる場所とは相性がいい」


 ヌマが紙を差し出す。

 ユウが受け取った、その瞬間。


「おい、そこ。何をしている」


 背後から声が飛んだ。

 砂利を踏む靴音。

 ユウが振り向くと、砂原リョウが立っていた。

 制服の胸元には警備班の腕章。

 右手には、いつでも銃に手が伸びる距離。


 終わった、と思った。


 ヌマは肩をすくめて木箱から降りる。

「おや。お勤め、ご苦労さま」

「ここでの売買は禁じられている」


 リョウの視線が、ユウの手元の紙に落ちた。

 ユウの心臓が、喉までせり上がる。

 紙を隠すには遅すぎた。


 数秒。

 重い沈黙。

 影の市全体が息を止めているのが分かった。


 リョウは紙を凝視し、それから視線をそらした。


「……今日は見なかったことにする。ここから離れろ」


 その声には、怒りよりも疲れが滲んでいた。

 ユウは一礼もできないまま、その場を離れる。

 背中に、リョウの視線が刺さる。

 “見なかったこと”にするという選択が、どれほど重いか。

 その重さを、彼が誰よりも知っているのだと感じた。


     ◇


 昼前になると、広場の一角に人だかりができた。

 検査結果の掲示板。

 そこには日ごとに更新される名前とラベルが貼られる。


 白、グレー、そして――赤。


 その赤ラベルが、一枚増えていた。


「……また、出た」

「誰? どの部屋?」

「知らない名前。でも、赤は赤だ」


 囁きが一気に温度を帯びる。

 赤ラベルは、事実上の“宣告”だ。

 症状が進行しているか、感染源の可能性が高いと判断された者に貼られる。

 赤が増えるほど、不安も増える。

 人々は距離を取り、目を合わせなくなる。


 ユウは掲示板の前で足を止めた。

 赤ラベルの下に書かれているのは、小さな少年の名前だった。

 昨日まで遊び場でボールを追いかけていた姿を覚えている。

 今は、床に座り込んで毛布にくるまり、母親と一緒に角に縮こまっていた。


 アヤが、毛布を持って少年のもとへ歩いていく。

 周囲の視線が刺さる。

 赤に近づく者は、それだけで“危険”だと見なされる。

 でも、アヤは立ち止まらない。


「寒くない?」

 彼女は膝を折り、少年の目線に合わせて微笑んだ。

 余計な慰めは言わない。

 ただ毛布を一枚重ねてやり、呼吸音を確かめる。

 母親は泣き腫らした目で何度も頭を下げた。


「ありがとうございます……本当に……」

「当番だからね。大丈夫。あなたも水分を取って」


 アヤは立ち上がり、群衆の視線を真正面から受け止めた。

 その目には、開き直りのような、諦めのような光があった。


 その足で、彼女は霧島の部屋へ向かう。


     ◇


 霧島の部屋は、事務棟の二階にある。

 窓からは広場と掲示板がよく見えた。

 壁には時計と、日付が書かれたホワイトボード。

 その下に、外部との通信ログが並んでいる。


「また赤が増えました」


 アヤが報告すると、霧島は小さく頷いた。

 彼は椅子に座り、机の上の書類にペンを走らせている。


「検査結果は?」

「境界値を超えています。でも、今すぐ重症化するとは限らない」

「……だが、可能性はある」


 霧島はペンを止めて、窓の外を見た。

 群衆のざわめきが、ガラス越しに伝わってくる。


「ラベルの運用基準は、前回と同じだ。隔離ブロックを――」

「基準そのものを見直すべきです」


 アヤは遮るように言った。

 霧島の眉がぴくりと動く。


「規則は人を守るための網です」

「ええ。だからこそ、今の網は目が細かすぎる。全部を拾い上げようとして、苦しめている」


 アヤは拳を握りしめた。

 自分の声が震えているのが分かる。


「赤の子たちは、もう“患者”じゃなくて“罪人”です。誰も近づかない。食料も、毛布も、分けようとしない。網が人を守っているんじゃない。網で絞め殺している」


 霧島はしばらく黙っていた。

 机の上のペンが転がる音だけが響く。


「……私の役は、“撃たせないこと”だ」


 静かに霧島が言った。


「撃つ、撃つと言い続けるのが、撃たせない一番の近道なんです」

「どういう意味ですか」

「『越えたら撃つ』と宣言しておけば、多くは越えようとすらしない。越境を諦める。その分だけ、タレットが火を噴く回数も人が死ぬ回数も減る」


 それは合理的な論理だった。

 だが、アヤの胸には、冷たいものとして落ちた。


「でも、そのせいで、誰も“助けに行こう”としなくなる」

「助けに行く先に、何があるというんですか?」


 霧島の視線が鋭くなる。

 窓の向こう、赤い線。

 その外側には、灰色の空き地と、遠くにかすむ海の気配。


「治療薬、希望、自由。それとも……死体の山」

「私は、どちらか分からないから、安易に『行け』とは言えない」


 霧島の言葉は静かだ。

 それでも、その静けさがアヤには残酷だった。


「ここは隔離施設です、アヤさん。外は安全ではない。内側だけが安全だという保証もありませんがね」

「それでも、規則を理由に、何も変えようとしないのは……」


 アヤは言葉を飲み込んだ。

 霧島はため息をつき、椅子から立ち上がる。


「網は、人を守るためのものです。水槽に入れた魚が、網の向こうを恋しがっても、蓋を開けるわけにはいかない」

「魚じゃなくて、人です」

「だからこそ厄介なんですよ」


 それ以上、話は進まなかった。

 アヤは一礼をして部屋を出る。

 扉を閉める直前、霧島の背中がわずかに丸くなっているのが見えた。


     ◇


 夜。

 灯りが半分に減らされ、施設全体が薄暗くなる時間。

 非常灯だけがゆらゆらと廊下を染める。


 ミオは寝台の上で浅い呼吸を繰り返していた。

 顔色は朝よりも悪い。

 唇の色が薄くなっている。


 ユウは手を握り、脈を確かめた。

 細く、弱く、でもまだそこにある。


「ユウ……眠ってないでしょ」


 ミオが目を開けて微笑む。

 声の隅に、かすかな冗談の響きがあった。


「寝ようとすると、咳の音がする」

「文句? うるさい?」

「うるさくてもいい。咳してるってことは、生きてるってことだから」


 ミオは少しだけ笑い、それからまた咳き込んだ。

 アヤがそっと背中をさすり、水を渡す。


「少し休んで。ユウ、ちょっと来て」


 アヤに廊下へ呼び出され、扉を閉める。

 中の空気が一気に薄くなる気がした。


「……限界?」

「まだ。戻せる可能性もある。でも、時間はあまりない」


 アヤは壁に寄りかかり、低い声で続けた。


「今夜、停電の時間帯がある」

「停電?」

「定期的な節電。前からあるでしょ。だけど今日のは少し長いって、電源担当から聞いた」


 ユウの背筋に冷たいものが走る。

 脳裏に、ヌマの見取り図と、タレットの死角が浮かぶ。


「……行くつもりだったの?」

 アヤの目が、暗がりの中でこちらを射抜く。


「姉を救う。僕が行く」

「行かせない」

 間髪入れずに返ってきた。


「あなたが行けば、誰かが撃つことを覚える」

「タレットが、でしょ」

「人よ」


 アヤは言葉を強くした。


「今は『越えたら自動で撃たれる』っていう形だけど、本当に人が越え始めたとき、きっと“人の手”が引き金を引くようになる。誰かがあなたを撃ったあと、『これが正しさだ』って覚える」


 ユウは言葉に詰まった。

 想像したことがなかった。

 この線を守るために、誰かが、人を撃つ姿を。


「でも、このまま何もしなかったら、ミオは――」

「だから、代案を考えてる」


 アヤの声が少しだけ柔らかくなった。


「越えるんじゃない。向こうから来させる」

「どうやって」

「停電の数分間に、補給庫側にカートを押す。線上ぎりぎりまで。越境の意思を見せないで、あくまで“線のこちら側にいる人”として、向こうに“引き寄せる”」


 ユウはイメージしようとする。

 線上までカートを押し、そこで止まる。

 外から見れば、越境ではない。

 補給側がそれを危険と見なさず、物資を近づけてくる可能性。


「それじゃあ、向こうが応じなかったら終わりだ」

「あなたが線を越えて撃たれるよりは、ずっとマシ」


 アヤはきっぱりと言った。


「停電中はタレットの電源も落ちる。でも、センサーが完全に死ぬかどうかは分からない。試すなら、まずこっちのリスクを最小限に抑える」


「でも、器具が足りない」


 ユウがそう口にすると、アヤは頷いた。

 カートを動かすための固定具、通路のカメラを一時的に誤魔化すための何か。

 看護師だけでは用意できないものが多すぎる。


「だから――」


 曲がり角の影から、小さな影が現れた。

 髪をひとつに束ね、分厚いファイルを抱えた少女。

 志織だった。


「足りないところ、私が埋める」


 志織は、胸ポケットから折り畳んだ紙を取り出す。

 ユウが見たことのない、細かな線と記号がびっしり描かれていた。


「監視系統の配線図。正式には持ち出し禁止だけど、私、コピー取ってた」


 目を伏せて、志織は苦笑する。


「ちゃんと怒られていいやつだよね、これ」


 紙には、通路ごとのカメラ、タレットへの給電ライン、非常灯のバッテリー配置まで書き込まれていた。

 停電時にどのラインがどれくらい落ちるのか、小さな文字でメモもある。


「……なんで、そこまで」

「だって、ここ、一応“観察施設”なんだよ。誰が誰を見てるか分からないところで暮らしたら、見られてる側のルールも知りたくなるじゃん」


 志織はユウを見た。


「あなた、前から塔の上に登ってたでしょ。外の風、好きそうな顔してるから」

「顔に書いてあるのか」

「書いてある」


 アヤが紙を受け取り、真剣な表情で目を走らせる。


「停電になると、こことここが死ぬ。タレットの主電源も落ちるけど、センサーのバックアップは生きてる可能性が高い」

「つまり、完全な“死角”はないってこと?」

「でも、センサーが反応しても、タレットが撃てなきゃ意味ない。撃つ腕がなければ、銃はただの鉄の塊」


 志織が指で一箇所を示した。


「ここ。線の上、ぎりぎり。カートをここまで押して、停電のタイミングを合わせる。向こうが様子見に近づけば、手を伸ばして“物資を引き寄せる”」


「越境じゃない。あくまで、線のこちらから手を伸ばすだけ……」


 アヤが呟く。

 ユウの胸に、かすかな光が灯った。


「それで、ミオに薬を――」

「あるかどうか分からない」


 アヤはすぐに釘を刺した。


「補給庫に本当に治療薬があるのかどうか、誰も確かめてない。ヌマの情報だって、どこまで本気か分からない。でも、“試さないまま後悔する”のは、もっと嫌」


 ユウは、ミオの寝顔を思い浮かべる。

 あの乾いた咳。

 潮の匂いがすると言ったときの、子どもみたいな笑顔。


「やる」

 気づけば、口が先に動いていた。

「僕も手伝う。カート押すの、力いるし」

「危険だよ」

「姉を見てるだけよりは、ずっとマシだ」


 アヤと志織が一瞬顔を見合わせる。

 やがて、ゆっくりと頷いた。


「じゃあ今夜。停電の三分前に集合。場所は――」


 志織が配線図の端を指で叩く。

 補給庫へと続く通路。

 赤い線の内側、ぎりぎりの地点。


     ◇


 同じ頃。

 御子柴はひとり、外壁沿いを歩いていた。


 日中に塗り直したばかりの赤い線は、夜の薄闇の中でも鈍く光っている。

 彼はバケツと布を持ち、膝をついて線をなぞるように拭いていく。


「……ごめんなさい。……お守りください」


 かすかな祈りのことば。

 布が塗料を少しずつ奪っていく。

 艶が失われ、赤は土に滲む。


 御子柴の祈りは、神に向けられているようでいて、実は人に向けられていた。

 この線を越えないように。

 越えようとしないように。

 誰も撃たれないように。


「壁は、消せば消すほど、深くなる」


 自分に言い聞かせるようにつぶやく。

 線を薄くすればするほど、人は想像の中でそれを厚くしていく。

 目に見えない分だけ、恐怖は増す。


 布に赤が移り、御子柴の指先が染まる。

 風が一度だけ吹き、遠くで海の匂いがした。


 彼は顔を上げる。

 闇の向こう、補給庫の方角に、かすかな光が揺れた気がした。


「……越えるのでも、消すのでもなく」


 御子柴は赤い線を見つめ、ただ祈るしかなかった。

 この夜が、まだ“撃たれない夜”でありますようにと。

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