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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
第二章 黒衣の魔女

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9/50

3 知らないはずの歌

 それから、わたしの生活は真っ二つに割れた。


 朝五時から七時まで、運河沿いの倉庫。


 八時半から三時半まで、学校。


 夕方から夜まで、また倉庫。


 戻って、風呂掃除をして、寝る。


 四日目で、五時間目の古文中に意識が飛んだ。


「湊ー、寝るな」


 先生の声で起きたら、ノートに「あ」だけが二十文字くらい並んでいた。



「ましろ、痩せた?」


 昼休み、千早が眉を寄せてわたしの顔をのぞきこんだ。


「痩せてない」


「痩せてる。顔ちっちゃくなってる。てか目の下」


「寝不足なだけ」


「なんで寝不足なの」


「……勉強」


 千早の目が、すっと細くなった。


 嘘は、この子の前ではだいたい失敗する。


「ましろさあ」


「なに」


「土曜、だめって言ったじゃん」


「……ごめん」


「日曜も、平日も、ぜんぶだめじゃん」


 千早は、わたしの机に置かれた弁当箱を指でつついた。


「わたしさ、しつこいって思われるの、いやなんだよね」


 胸が、ぎゅっと縮んだ。


「思ってない」


「じゃあ、なんで」


 言えなかった。


 言えるわけがなかった。


 夜明け前の倉庫でボルトを潰していますなんて、言えるわけがない。


 言ったら、この子はきっと信じる。


 ()()()()()()から、言えない。


 信じたら、千早はきっと、わたしの近くに来ようとする。


 近くには、来てほしくなかった。


「――家のこと、いろいろあって」


 わたしは、いちばんずるい嘘をついた。


 施設の子がその言いかたをすると、たいていの人は、そこで引き下がる。


 千早は、引き下がらなかった。


 じっとわたしを見て、それから、はあ、と大きなため息をついた。


「あのさ、ましろ」


「うん」


「わたし、ばかだけど、そこまでばかじゃないから」


「……」


「言いたくないなら、いいよ。でも、()()()()()()()()


 千早は立ち上がって、自分の席に戻っていった。


 わたしは、蓋を開けたままの弁当箱を見ていた。


 卵焼きが一つ、転がっていた。


 千早のお母さんが作った、甘いやつだ。たまに、こうして勝手に入っている。


 わたしは、それを食べられなかった。



 その日の夕方、駅前で、千早に見られた。


 改札を出たところで、夜鷹さんが待っていたのだ。黒いコート、黒い服。梅雨の夕方に、汗ひとつかかずに。


 人混みのなかで、そこだけ照明が落ちたみたいに見えた。


「誰、あの人」


 背中から、千早の声がした。


 心臓が止まりかけた。


「……親戚」


「親戚」


「うん」


「ましろ、親戚いないって言ってなかった?」


「――最近、見つかった」


 われながら、ひどい嘘だった。


 千早は何も言わなかった。


 ただ、夜鷹さんのほうを、じっと見ていた。


 夜鷹さんも、千早を見ていた。


 一瞬だけ、二人の視線が交わった。


 そして夜鷹さんは、わたしに向かって、あごをしゃくった。


 来い、という意味だ。


 わたしは、千早に手を振って、逃げるように歩き出した。


 背中に視線が刺さっていた。



「あの子」


 倉庫に着いてすぐ、夜鷹さんが言った。


「友達?」


「……はい」


「一人?」


「一人です」


「そう」


 彼女は、それきり黙った。


 けれど、その「そう」には、妙な間があった。



 次の日、下駄箱にメモが入っていた。


 千早の字だった。丸くて、大きくて、勢いがありすぎて、はみ出している。


『卵焼き、食べなかったでしょ。


 うちのおかんが、味が濃かったかなって気にしてるから、


 明日ちゃんと食べて感想言って。


 以上。』


 それだけだった。


 責める言葉も、心配する言葉も、どこにも書いていなかった。


 わたしはそのメモを、三回読んだ。


 四回目を読もうとして、目の奥が熱くなったので、やめた。


 折りたたんで、定期入れに挟んだ。


 翌日、わたしは卵焼きを食べた。


 甘かった。


「濃くないよ。おいしかった」


 そう言ったら、千早は「そ」とだけ言って、自分の箸で、もう一つ押しつけてきた。


 それきり、千早は何も訊かなかった。


 ()()()()()()()()()()ということが、こんなに苦しいものだとは知らなかった。



 九日目に、卵が割れなかった。


 生卵だ。スーパーで買ってきたやつを、夜鷹さんがパックごと持ってきた。


「割らずに、五センチ浮かせなさい」


 ボルトから卵に変わっただけで、地獄の難易度は変わらなかった。


 初日は六個割った。三日目は四個。


 そして九日目。


 手のひらから、卵が離れた。


 一センチ。二センチ。ゆっくり、ゆっくり。


 殻が、鳴かなかった。


 ひび一つ、入らなかった。


「……あ」


 わたしは息を止めていた。


 卵は、朝の光のなかで、ふわりと静止していた。


 まるで、そこに水があるみたいに。


「――浮いた」


 声が震えた。


「浮きました、夜鷹さん、これ」


 振り返った。


 夜鷹さんは、シャッターにもたれたまま、こちらを見ていた。


 その顔から、いつもの冷たさが、ほんの少しだけ剥がれていた。


 一秒だけ。


 まばたきのあいだだけ。


 彼女は、()()()()()


 うまく笑えない人が、無理に笑ったみたいな、ぎこちない形で。


 それから、すぐに元に戻った。


「五センチって言ったでしょう。二センチじゃ話にならない」


「いま笑いました?」


「笑ってない」


「笑いました」


「集中しなさい」


 卵が落ちて、床で割れた。



 その帰り道のことだった。


 倉庫の裏の、細い道。


 夜鷹さんが、前を歩いていた。


 そして、口ずさんでいた。


 ゆっくりした、三拍子の、短い旋律。


 最後だけ、ふしぎな下がりかたをする歌。


 わたしの足が、止まった。


 アスファルトに、靴底が貼りついたみたいだった。


「その歌」


 夜鷹さんの背中が、止まった。


 止まりかたが、おかしかった。


 つんのめるみたいに、一瞬、バランスを崩した。


 あの人が、バランスを崩すところを、わたしは初めて見た。


「なんの歌ですか、それ」


「……」


「わたし、その歌、知ってます」


「知らないわ」


「知ってます」


「知らない」


()()()()()()()()()()()


 わたしは、一歩踏み出した。


「三年前、保護された最初の晩から、わたしはその歌をうたってました。誰に教わったのかも分からないのに。施設の子を寝かしつけるときに、いまでもうたいます。その歌です。同じ歌です。なんで、あなたが」


 夜鷹さんは、振り返らなかった。


 長い、長い沈黙があった。


 運河のほうで、船のエンジンの音がした。


「――うたうのはやめなさい」


 やがて、彼女は言った。


 声が、少しかすれていた。


「どうして」


「二度と、うたわないで」


「どうしてですか」


()()()()()()?()


 そのとき、彼女は振り返った。


 わたしはぎょっとした。


 怒っているのだと思った。


 違った。


 夜鷹さんの顔からは、いつもの高圧的なものが、全部抜け落ちていた。


 かわりにそこにあったのは、もっと簡単な感情だった。


 ()()()()()



 翌日、彼女は若葉園に現れた。


 夕方、洗濯物を取り込んでいたら、玄関のほうで佐伯さんの声がした。


「まあまあ、わざわざご丁寧に」


 嫌な予感がした。


 走っていくと、玄関の三和土に、黒いコートが立っていた。


「はじめまして。真白さんの、就籍の件で以前かかわった者です」


 夜鷹さんは、佐伯さんに向かって、すらすらと嘘をついていた。


 家庭裁判所がどうとか、当時の関係者がどうとか、進路の相談がどうとか。


 驚いたのは、彼女が分厚い書類を出したことだ。


 封筒も、判子も、書式も、本物にしか見えなかった。


(あんなもの、どこから)


 佐伯さんは、すっかり感心していた。


「いやあ、あの頃はほんとに大変でね。あたしら、なんにもしてやれなくて」


「そんなことは」


「あの子ね、来た日の晩、ずーっと歌うたってたんですよ。子守唄みたいなの」


 夜鷹さんの指が、書類の端を、かすかに握りしめた。


 わたしは、それを見ていた。


「……そう、ですか」


「知らない歌だって言うんですよ。知らないのに、うたえるって。不思議な子でしょ」


「不思議ですね」


 嘘つき、と、わたしは心のなかで言った。



 そのとき、廊下の奥から、たたた、と小さな足音がした。


「ましろねえー」


 ひなただった。


 夜鷹さんを見て、ぴたりと止まる。


 四歳の子は、ときどき、大人より正確に空気を読む。


(怖がる)


 そう思った。


 ひなたは、とことこと夜鷹さんの前まで歩いていった。


 そして、握りしめていた手を開いた。


 いちごのキャンディが一つ、載っていた。


「あげる」


 夜鷹さんは、動かなかった。


 本当に、()()()()動かなかった。


 差し出された小さな手のひらを、まるで見たことのない生き物みたいに見下ろしていた。


「……いいの?」


「いいよ。ふたつあるから」


 長い数秒のあと、彼女は、ぎこちなく手を伸ばした。


 指先で、つまむように、キャンディを受け取る。


 まるで、壊れ物みたいに。


「ありがとう」


 その言い方は、ひどく不器用だった。


 「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だった。


 ひなたは満足そうに笑って、走っていった。


 夜鷹さんは、キャンディを握ったまま立っていた。


 食べなかった。


 そのまま、コートのポケットに入れた。


 わたしはそれを、ずっと見ていた。

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