3 知らないはずの歌
それから、わたしの生活は真っ二つに割れた。
朝五時から七時まで、運河沿いの倉庫。
八時半から三時半まで、学校。
夕方から夜まで、また倉庫。
戻って、風呂掃除をして、寝る。
四日目で、五時間目の古文中に意識が飛んだ。
「湊ー、寝るな」
先生の声で起きたら、ノートに「あ」だけが二十文字くらい並んでいた。
*
「ましろ、痩せた?」
昼休み、千早が眉を寄せてわたしの顔をのぞきこんだ。
「痩せてない」
「痩せてる。顔ちっちゃくなってる。てか目の下」
「寝不足なだけ」
「なんで寝不足なの」
「……勉強」
千早の目が、すっと細くなった。
嘘は、この子の前ではだいたい失敗する。
「ましろさあ」
「なに」
「土曜、だめって言ったじゃん」
「……ごめん」
「日曜も、平日も、ぜんぶだめじゃん」
千早は、わたしの机に置かれた弁当箱を指でつついた。
「わたしさ、しつこいって思われるの、いやなんだよね」
胸が、ぎゅっと縮んだ。
「思ってない」
「じゃあ、なんで」
言えなかった。
言えるわけがなかった。
夜明け前の倉庫でボルトを潰していますなんて、言えるわけがない。
言ったら、この子はきっと信じる。
信じてしまうから、言えない。
信じたら、千早はきっと、わたしの近くに来ようとする。
近くには、来てほしくなかった。
「――家のこと、いろいろあって」
わたしは、いちばんずるい嘘をついた。
施設の子がその言いかたをすると、たいていの人は、そこで引き下がる。
千早は、引き下がらなかった。
じっとわたしを見て、それから、はあ、と大きなため息をついた。
「あのさ、ましろ」
「うん」
「わたし、ばかだけど、そこまでばかじゃないから」
「……」
「言いたくないなら、いいよ。でも、嘘つくのはやめて」
千早は立ち上がって、自分の席に戻っていった。
わたしは、蓋を開けたままの弁当箱を見ていた。
卵焼きが一つ、転がっていた。
千早のお母さんが作った、甘いやつだ。たまに、こうして勝手に入っている。
わたしは、それを食べられなかった。
*
その日の夕方、駅前で、千早に見られた。
改札を出たところで、夜鷹さんが待っていたのだ。黒いコート、黒い服。梅雨の夕方に、汗ひとつかかずに。
人混みのなかで、そこだけ照明が落ちたみたいに見えた。
「誰、あの人」
背中から、千早の声がした。
心臓が止まりかけた。
「……親戚」
「親戚」
「うん」
「ましろ、親戚いないって言ってなかった?」
「――最近、見つかった」
われながら、ひどい嘘だった。
千早は何も言わなかった。
ただ、夜鷹さんのほうを、じっと見ていた。
夜鷹さんも、千早を見ていた。
一瞬だけ、二人の視線が交わった。
そして夜鷹さんは、わたしに向かって、あごをしゃくった。
来い、という意味だ。
わたしは、千早に手を振って、逃げるように歩き出した。
背中に視線が刺さっていた。
*
「あの子」
倉庫に着いてすぐ、夜鷹さんが言った。
「友達?」
「……はい」
「一人?」
「一人です」
「そう」
彼女は、それきり黙った。
けれど、その「そう」には、妙な間があった。
*
次の日、下駄箱にメモが入っていた。
千早の字だった。丸くて、大きくて、勢いがありすぎて、はみ出している。
『卵焼き、食べなかったでしょ。
うちのおかんが、味が濃かったかなって気にしてるから、
明日ちゃんと食べて感想言って。
以上。』
それだけだった。
責める言葉も、心配する言葉も、どこにも書いていなかった。
わたしはそのメモを、三回読んだ。
四回目を読もうとして、目の奥が熱くなったので、やめた。
折りたたんで、定期入れに挟んだ。
翌日、わたしは卵焼きを食べた。
甘かった。
「濃くないよ。おいしかった」
そう言ったら、千早は「そ」とだけ言って、自分の箸で、もう一つ押しつけてきた。
それきり、千早は何も訊かなかった。
訊かないでいてくれるということが、こんなに苦しいものだとは知らなかった。
*
九日目に、卵が割れなかった。
生卵だ。スーパーで買ってきたやつを、夜鷹さんがパックごと持ってきた。
「割らずに、五センチ浮かせなさい」
ボルトから卵に変わっただけで、地獄の難易度は変わらなかった。
初日は六個割った。三日目は四個。
そして九日目。
手のひらから、卵が離れた。
一センチ。二センチ。ゆっくり、ゆっくり。
殻が、鳴かなかった。
ひび一つ、入らなかった。
「……あ」
わたしは息を止めていた。
卵は、朝の光のなかで、ふわりと静止していた。
まるで、そこに水があるみたいに。
「――浮いた」
声が震えた。
「浮きました、夜鷹さん、これ」
振り返った。
夜鷹さんは、シャッターにもたれたまま、こちらを見ていた。
その顔から、いつもの冷たさが、ほんの少しだけ剥がれていた。
一秒だけ。
まばたきのあいだだけ。
彼女は、笑っていた。
うまく笑えない人が、無理に笑ったみたいな、ぎこちない形で。
それから、すぐに元に戻った。
「五センチって言ったでしょう。二センチじゃ話にならない」
「いま笑いました?」
「笑ってない」
「笑いました」
「集中しなさい」
卵が落ちて、床で割れた。
*
その帰り道のことだった。
倉庫の裏の、細い道。
夜鷹さんが、前を歩いていた。
そして、口ずさんでいた。
ゆっくりした、三拍子の、短い旋律。
最後だけ、ふしぎな下がりかたをする歌。
わたしの足が、止まった。
アスファルトに、靴底が貼りついたみたいだった。
「その歌」
夜鷹さんの背中が、止まった。
止まりかたが、おかしかった。
つんのめるみたいに、一瞬、バランスを崩した。
あの人が、バランスを崩すところを、わたしは初めて見た。
「なんの歌ですか、それ」
「……」
「わたし、その歌、知ってます」
「知らないわ」
「知ってます」
「知らない」
「わたしが知ってるんです」
わたしは、一歩踏み出した。
「三年前、保護された最初の晩から、わたしはその歌をうたってました。誰に教わったのかも分からないのに。施設の子を寝かしつけるときに、いまでもうたいます。その歌です。同じ歌です。なんで、あなたが」
夜鷹さんは、振り返らなかった。
長い、長い沈黙があった。
運河のほうで、船のエンジンの音がした。
「――うたうのはやめなさい」
やがて、彼女は言った。
声が、少しかすれていた。
「どうして」
「二度と、うたわないで」
「どうしてですか」
「理由が要るの?」
そのとき、彼女は振り返った。
わたしはぎょっとした。
怒っているのだと思った。
違った。
夜鷹さんの顔からは、いつもの高圧的なものが、全部抜け落ちていた。
かわりにそこにあったのは、もっと簡単な感情だった。
怯えていた。
*
翌日、彼女は若葉園に現れた。
夕方、洗濯物を取り込んでいたら、玄関のほうで佐伯さんの声がした。
「まあまあ、わざわざご丁寧に」
嫌な予感がした。
走っていくと、玄関の三和土に、黒いコートが立っていた。
「はじめまして。真白さんの、就籍の件で以前かかわった者です」
夜鷹さんは、佐伯さんに向かって、すらすらと嘘をついていた。
家庭裁判所がどうとか、当時の関係者がどうとか、進路の相談がどうとか。
驚いたのは、彼女が分厚い書類を出したことだ。
封筒も、判子も、書式も、本物にしか見えなかった。
(あんなもの、どこから)
佐伯さんは、すっかり感心していた。
「いやあ、あの頃はほんとに大変でね。あたしら、なんにもしてやれなくて」
「そんなことは」
「あの子ね、来た日の晩、ずーっと歌うたってたんですよ。子守唄みたいなの」
夜鷹さんの指が、書類の端を、かすかに握りしめた。
わたしは、それを見ていた。
「……そう、ですか」
「知らない歌だって言うんですよ。知らないのに、うたえるって。不思議な子でしょ」
「不思議ですね」
嘘つき、と、わたしは心のなかで言った。
*
そのとき、廊下の奥から、たたた、と小さな足音がした。
「ましろねえー」
ひなただった。
夜鷹さんを見て、ぴたりと止まる。
四歳の子は、ときどき、大人より正確に空気を読む。
(怖がる)
そう思った。
ひなたは、とことこと夜鷹さんの前まで歩いていった。
そして、握りしめていた手を開いた。
いちごのキャンディが一つ、載っていた。
「あげる」
夜鷹さんは、動かなかった。
本当に、一ミリも動かなかった。
差し出された小さな手のひらを、まるで見たことのない生き物みたいに見下ろしていた。
「……いいの?」
「いいよ。ふたつあるから」
長い数秒のあと、彼女は、ぎこちなく手を伸ばした。
指先で、つまむように、キャンディを受け取る。
まるで、壊れ物みたいに。
「ありがとう」
その言い方は、ひどく不器用だった。
「ありがとう」を何年も言っていない人の言い方だった。
ひなたは満足そうに笑って、走っていった。
夜鷹さんは、キャンディを握ったまま立っていた。
食べなかった。
そのまま、コートのポケットに入れた。
わたしはそれを、ずっと見ていた。




