2 三つのルールを破りなさい
四時四十分に目が覚めた。
目覚ましより早かった。緊張していたのだと思う。
若葉園を出るとき、玄関の鍵を静かに開けた。ひなたの寝息が、廊下の奥から聞こえていた。
坂の下に、黒いコートが立っていた。
朝の五時の、薄い水色の光のなかで、その黒は、切り抜いた穴みたいに見えた。
「四分遅刻」
「え」
「五時ちょうどに、ここ。四分遅れた」
「……すみません」
「行くわよ」
*
電車に乗って、三十分。
連れていかれたのは、運河沿いの、解体を待っている倉庫だった。
錆びた鉄の扉。割れたガラス。床のコンクリートに、油のしみが地図みたいに広がっている。天井が高い。梁が剥き出しで、そこから切れたワイヤーが何本も垂れ下がっていた。
鉄骨の切れ端や、使い道のわからない機械の残骸が、あちこちに積み上げられている。
重い。
見渡すかぎり、重いものばかりだ。
わたしはその重さの一つ一つが、見えていた。
「――ここ」
わたしは倉庫の奥の、シャッターの隙間から外を見た。
運河の向こうに、コンテナヤードのクレーンが並んでいる。朝日を浴びて、オレンジ色に光っていた。
見覚えがあった。
「ここ、わたしが」
「三年前に拾われた埠頭。目と鼻の先ね」
夜鷹さんは、なんでもないことのように言った。
「ちょうどいいと思って」
「……なんで」
「さあ」
彼女は答えなかった。
けれどわたしには、その「ちょうどいい」が、偶然ではないことだけは分かった。
*
「じゃあ、始めましょうか」
夜鷹さんは、床から何かを拾い上げた。
小さな、鉄のボルトだった。親指の先くらいの。
それを、わたしの手のひらに落とす。
十二グラム。
「浮かせなさい」
「……はい?」
「手のひらから、五センチ。それだけでいい」
わたしは、ボルトを見た。
冗談じゃない、と思った。
「無理です」
「やってから言いなさい」
「やらなくても分かります。わたしは、潰すことしかできないんです」
言ってしまってから、喉の奥が熱くなった。
三年間、誰にも言えなかった言葉だった。
「へえ」
夜鷹さんは、まるで興味がなさそうに言った。
「誰がそう決めたの」
「決めたって」
「あなたが潰してきたものを、数えてごらんなさい。筆箱、コップ、洗濯機、机の脚、階段の手すり。ぜんぶ、あなたがうっかり壊したものでしょう」
心臓が、跳ねた。
なぜ知っている。
「うっかりできることは、わざとでもできる。逆はないけれど、それはできる」
彼女は指を一本立てた。
「あなたは、三年かけて『力を出さない』練習だけをした。出しかたの練習を一度もしなかった。だから下手なのよ。才能の問題じゃない。ただのサボり」
「サボりって」
「ほかに言いかたある?」
かっと、頭に血が上った。
わたしがどれだけ我慢してきたか、この人は知らない。
触れないようにして、走らないようにして、笑うときですら加減して。
「わたしは――」
「怒りなさい」
「え」
「そう、その顔。もっと怒りなさい」
夜鷹さんは、初めて、わずかに口の端を上げた。
笑顔ではなかった。
「あなたのルール、三つあったわね」
ぞわり、と、うなじが冷えた。
「どうして、それを」
「走らないこと。怒らないこと。誰にも触れないこと」
彼女は、一つずつ指を折った。
そして、その手を、ぱっとひらいた。
「全部、破りなさい」
*
「走りなさい。倒れるまで走って、自分の体がどれだけ重いか覚えなさい」
「怒りなさい。怒っている自分を見て、それでも壊さずにいられる場所を探しなさい」
「触れなさい。壊す力で触れて、壊さずに触れられるようになりなさい」
夜鷹さんの声は、朝の倉庫にやけによく響いた。
「あなたがやってきたのは、蓋をすることよ。蓋は、いつか外れる。おとといみたいにね」
「……でも」
「でも、なに」
「触れて、間違えたら」
わたしの声は、情けないくらい細かった。
「間違えたら、誰か、死ぬかもしれない」
夜鷹さんは、しばらく黙っていた。
割れた窓から風が入って、垂れたワイヤーが、かちん、と鳴った。
「死ぬわよ」
「……え」
「あなたが間違えれば、人は死ぬ。それが、あなたの持っているものよ」
彼女は、まっすぐにわたしを見た。
黒い目だった。底のない、井戸みたいな目。
「だからね」
「――受け入れなさい」
「人を傷つける力と、傷つけたくない優しさ。その両方を抱えて立つの」
「どちらか一つを捨てられたら、どんなに楽でしょうね。でも、あなたはもう捨てられない。捨てようとして、三年かけて失敗したでしょう」
「それが、あなたよ」
*
その日、わたしは三時間、ボルトを浮かせようとして、失敗しつづけた。
十七回、ボルトを潰した。
手のひらの上で、鉄の塊が飴玉みたいにひしゃげるたび、わたしは小さく「ごめんね」と言った。
そのたびに夜鷹さんが、「物に謝るのはやめなさい。気持ち悪い」と言った。
十八回目の失敗のあと、彼女は床から別のボルトを拾って、投げてよこした。
「――重さっていうのはね」
シャッターにもたれて、彼女は外を見ていた。
「なくならないの。どこにも」
「どういう意味ですか」
「あなたが何かを軽くしたら、その重さは消えるんじゃない。どこかへ行くのよ。必ず」
彼女は指先で、宙に小さく弧を描いた。
「軽くしたいなら、その重さを誰かに背負わせなさい。地面か、空気か、隣に立っている人間か。とにかく、誰かが持つの」
「……誰かが、持つ」
「そう。だからこれは、呪いなのよ」
呪い。
その言葉を、彼女はひどく慣れた調子で使った。
何千回も口にしたことがあるみたいに。
わたしは、手のなかのボルトを見た。
十二グラム。
軽くすれば、この十二グラムは、どこかへ行く。
――みんなで少しずつ持てば、いいんじゃないだろうか。
ふと、そんなことを思った。
一人で十二グラムは重くても、十二人なら一グラムずつだ。一万人なら、ほとんど何も持っていないのと同じになる。
「無理よ」
顔も上げずに、夜鷹さんが言った。
「え」
「今、くだらないことを考えたでしょう。目に書いてあった」
「……」
「重さは分けられない。分けたつもりでも、最後は誰か一人が持つことになるの。世界は、そういうふうにできている」
彼女は立ち上がった。
「七時よ。学校に行きなさい」
*
翌朝は、走らされた。
運河沿いの、誰もいない道を。
「どこまで走ればいいんですか」
「倒れるまで」
「……あの」
「三十分で戻ってきたら、もう一周」
本当に、そうだった。
わたしは走った。
三年間、走らなかった脚で。
五分で脇腹が痛くなった。十分で喉が鉄の味になった。十五分で、自分がなぜこんなことをしているのか分からなくなった。
二十分を過ぎたあたりで、脚が、自分のものでなくなった。
前に出そうとすると、遅れて出る。
膝が、地面に置いた石みたいに重い。
(重い)
(わたしって、こんなに重かったのか)
倒れた。
正確には、膝からくずおれて、そのまま、濡れたアスファルトに転がった。
空が白かった。
水たまりのなかに、耳が半分沈んでいた。
*
「四十六キロ」
いつのまにか、夜鷹さんが立っていた。
見下ろしながら、彼女は言った。
「あなたの体重よ」
「……知って、ます」
「知らないわ。あなたは、机やコップの重さは分かるくせに、自分の重さだけは一度も感じたことがない」
わたしは、答えられなかった。
そのとおりだった。
わたしは世界じゅうの重さが見える。
見えないのは、わたしだけだった。
「ずっと、自分の外側にあるものばかり見ていたのね。自分が触れたら壊れるかもしれないものを、必死に数えて」
彼女は、しゃがんだ。
「今、脚が痛いでしょう」
「……痛いです」
「それが、あなたの重さ。四十六キロ。あなたが一生持って歩く荷物の重さよ」
「……重いです」
「そうね」
夜鷹さんは、少しだけ、目を細めた。
「でも、あなたはそれを、生まれてからずっと持って歩いてきた。落とさずに」
わたしは、水たまりのなかで、まばたきをした。
その言いかたは、なんだか、少しだけ、褒められているみたいに聞こえた。
たぶん、気のせいだった。
「あと一周」
「えっ」
「立ちなさい」
やっぱり、気のせいだった。




