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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
第二章 黒衣の魔女

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8/50

2 三つのルールを破りなさい

 四時四十分に目が覚めた。


 目覚ましより早かった。緊張していたのだと思う。


 若葉園を出るとき、玄関の鍵を静かに開けた。ひなたの寝息が、廊下の奥から聞こえていた。


 坂の下に、黒いコートが立っていた。


 朝の五時の、薄い水色の光のなかで、その黒は、切り抜いた穴みたいに見えた。


「四分遅刻」


「え」


「五時ちょうどに、ここ。四分遅れた」


「……すみません」


「行くわよ」



 電車に乗って、三十分。


 連れていかれたのは、運河沿いの、解体を待っている倉庫だった。


 錆びた鉄の扉。割れたガラス。床のコンクリートに、油のしみが地図みたいに広がっている。天井が高い。梁が剥き出しで、そこから切れたワイヤーが何本も垂れ下がっていた。


 鉄骨の切れ端や、使い道のわからない機械の残骸が、あちこちに積み上げられている。


 重い。


 見渡すかぎり、重いものばかりだ。


 わたしはその重さの一つ一つが、()()()()()


「――ここ」


 わたしは倉庫の奥の、シャッターの隙間から外を見た。


 運河の向こうに、コンテナヤードのクレーンが並んでいる。朝日を浴びて、オレンジ色に光っていた。


 見覚えがあった。


「ここ、わたしが」


「三年前に拾われた埠頭。目と鼻の先ね」


 夜鷹さんは、なんでもないことのように言った。


「ちょうどいいと思って」


「……なんで」


「さあ」


 彼女は答えなかった。


 けれどわたしには、その「ちょうどいい」が、偶然ではないことだけは分かった。



「じゃあ、始めましょうか」


 夜鷹さんは、床から何かを拾い上げた。


 小さな、鉄のボルトだった。親指の先くらいの。


 それを、わたしの手のひらに落とす。


 十二グラム。


「浮かせなさい」


「……はい?」


「手のひらから、五センチ。それだけでいい」


 わたしは、ボルトを見た。


 冗談じゃない、と思った。


「無理です」


「やってから言いなさい」


「やらなくても分かります。わたしは、()()()()()()()()()()んです」


 言ってしまってから、喉の奥が熱くなった。


 三年間、誰にも言えなかった言葉だった。


「へえ」


 夜鷹さんは、まるで興味がなさそうに言った。


「誰がそう決めたの」


「決めたって」


「あなたが潰してきたものを、数えてごらんなさい。筆箱、コップ、洗濯機、机の脚、階段の手すり。ぜんぶ、あなたが()()()()壊したものでしょう」


 心臓が、跳ねた。


 なぜ知っている。


「うっかりできることは、わざとでもできる。逆はないけれど、それはできる」


 彼女は指を一本立てた。


「あなたは、三年かけて『力を出さない』練習だけをした。出しかたの練習を一度もしなかった。だから下手なのよ。()()()()()()()()()()()()()()()


「サボりって」


「ほかに言いかたある?」


 かっと、頭に血が上った。


 わたしがどれだけ我慢してきたか、この人は知らない。


 触れないようにして、走らないようにして、笑うときですら加減して。


「わたしは――」


「怒りなさい」


「え」


「そう、その顔。もっと怒りなさい」


 夜鷹さんは、初めて、わずかに口の端を上げた。


 笑顔ではなかった。


「あなたのルール、三つあったわね」


 ぞわり、と、うなじが冷えた。


「どうして、それを」


「走らないこと。怒らないこと。誰にも触れないこと」


 彼女は、一つずつ指を折った。


 そして、その手を、ぱっとひらいた。


()()()()()()()



「走りなさい。倒れるまで走って、自分の体がどれだけ重いか覚えなさい」


「怒りなさい。怒っている自分を見て、それでも壊さずにいられる場所を探しなさい」


「触れなさい。壊す力で触れて、壊さずに触れられるようになりなさい」


 夜鷹さんの声は、朝の倉庫にやけによく響いた。


「あなたがやってきたのは、蓋をすることよ。蓋は、いつか外れる。おとといみたいにね」


「……でも」


「でも、なに」


「触れて、間違えたら」


 わたしの声は、情けないくらい細かった。


「間違えたら、誰か、死ぬかもしれない」


 夜鷹さんは、しばらく黙っていた。


 割れた窓から風が入って、垂れたワイヤーが、かちん、と鳴った。


「死ぬわよ」


「……え」


「あなたが間違えれば、人は死ぬ。それが、あなたの持っているものよ」


 彼女は、まっすぐにわたしを見た。


 黒い目だった。底のない、井戸みたいな目。


「だからね」


「――受け入れなさい」


「人を傷つける力と、傷つけたくない優しさ。()()()()()()()()()()()


「どちらか一つを捨てられたら、どんなに楽でしょうね。でも、あなたはもう捨てられない。捨てようとして、三年かけて失敗したでしょう」


「それが、あなたよ」



 その日、わたしは三時間、ボルトを浮かせようとして、失敗しつづけた。


 十七回、ボルトを潰した。


 手のひらの上で、鉄の塊が飴玉みたいにひしゃげるたび、わたしは小さく「ごめんね」と言った。


 そのたびに夜鷹さんが、「物に謝るのはやめなさい。気持ち悪い」と言った。


 十八回目の失敗のあと、彼女は床から別のボルトを拾って、投げてよこした。


「――重さっていうのはね」


 シャッターにもたれて、彼女は外を見ていた。


「なくならないの。どこにも」


「どういう意味ですか」


「あなたが何かを軽くしたら、その重さは消えるんじゃない。()()()()()()のよ。必ず」


 彼女は指先で、宙に小さく弧を描いた。


「軽くしたいなら、その重さを誰かに背負わせなさい。地面か、空気か、隣に立っている人間か。とにかく、誰かが持つの」


「……誰かが、持つ」


「そう。だからこれは、()()なのよ」


 呪い。


 その言葉を、彼女はひどく慣れた調子で使った。


 何千回も口にしたことがあるみたいに。


 わたしは、手のなかのボルトを見た。


 十二グラム。


 軽くすれば、この十二グラムは、どこかへ行く。


 ――みんなで少しずつ持てば、いいんじゃないだろうか。


 ふと、そんなことを思った。


 一人で十二グラムは重くても、十二人なら一グラムずつだ。一万人なら、ほとんど何も持っていないのと同じになる。


「無理よ」


 顔も上げずに、夜鷹さんが言った。


「え」


「今、くだらないことを考えたでしょう。目に書いてあった」


「……」


「重さは分けられない。分けたつもりでも、最後は誰か一人が持つことになるの。()()()()()()()()()()()()()()()


 彼女は立ち上がった。


「七時よ。学校に行きなさい」



 翌朝は、走らされた。


 運河沿いの、誰もいない道を。


「どこまで走ればいいんですか」


「倒れるまで」


「……あの」


「三十分で戻ってきたら、もう一周」


 本当に、そうだった。


 わたしは走った。


 三年間、走らなかった脚で。


 五分で脇腹が痛くなった。十分で喉が鉄の味になった。十五分で、自分がなぜこんなことをしているのか分からなくなった。


 二十分を過ぎたあたりで、脚が、自分のものでなくなった。


 前に出そうとすると、遅れて出る。


 膝が、地面に置いた石みたいに重い。


(重い)


(わたしって、こんなに重かったのか)


 倒れた。


 正確には、膝からくずおれて、そのまま、濡れたアスファルトに転がった。


 空が白かった。


 水たまりのなかに、耳が半分沈んでいた。



「四十六キロ」


 いつのまにか、夜鷹さんが立っていた。


 見下ろしながら、彼女は言った。


「あなたの体重よ」


「……知って、ます」


「知らないわ。あなたは、机やコップの重さは分かるくせに、自分の重さだけは一度も感じたことがない」


 わたしは、答えられなかった。


 そのとおりだった。


 わたしは世界じゅうの重さが見える。


 見えないのは、()()()()()だった。


「ずっと、自分の外側にあるものばかり見ていたのね。自分が触れたら壊れるかもしれないものを、必死に数えて」


 彼女は、しゃがんだ。


「今、脚が痛いでしょう」


「……痛いです」


「それが、あなたの重さ。四十六キロ。あなたが一生持って歩く荷物の重さよ」


「……重いです」


「そうね」


 夜鷹さんは、少しだけ、目を細めた。


「でも、あなたはそれを、生まれてからずっと持って歩いてきた。()()()()()


 わたしは、水たまりのなかで、まばたきをした。


 その言いかたは、なんだか、少しだけ、褒められているみたいに聞こえた。


 たぶん、気のせいだった。


「あと一周」


「えっ」


「立ちなさい」


 やっぱり、気のせいだった。

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