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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
第二章 黒衣の魔女

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1 傘を持たない人

 十歩で、追いついた。


 正確には、向こうが止まってくれた。


 黒いコートの背中が、雨のなかで振り返る。


「息が上がりすぎ」


 開口一番、それだった。


「その程度で。よく三年も生きてたわね」


「……っ、はぁ、は」


 わたしは膝に手をついた。心臓が喉の裏側で暴れている。


 肺が痛い。走ったのなんて、何年ぶりだろう。


「手」


「え」


「左手を出しなさい」


 言われるまま、差し出した。


 手首には、まだ荷札が巻きついていた。細い針金と、雨でふやけた小さな紙。


 女の人は、それを二本の指でつまんだ。


 ぱき、と、乾いた音がした。


 冷たい木の枝を折るような音だった。


 荷札は、真ん中から折れて、そのまま――()()()()()


 いや、灰ですらなかった。ぼろぼろと崩れて、雨のなかに散って、消えた。


 その瞬間。


 わたしの左手に、世界が戻ってきた。


 指先から、肘へ、肩へ。ざあっと感覚が駆け上がる。


 雨粒の重さ。〇・〇三グラム。


 袖に染み込んだ水。百二十グラム。


 地面のアスファルト。その下の土。その下の、もっと下の。


「――あ」


 わたしは自分の左手を、まじまじと見た。


 見える。


 ()()()()()


 三年間、疎ましくてたまらなかったこの感覚が、戻ってきた瞬間に、わたしはほっとしていた。


 心の底から。


 そのことに、自分でぞっとした。


「泣くほどのこと?」


 女の人が、冷ややかに言った。


「泣いて、ません」


「そう」


 彼女はそれ以上何も言わず、閉じたままの傘を、ぱさりとひらいた。


 そして、わたしの頭の上に差しかけた。


 自分ではなく。


 彼女の周りでは、相変わらず雨粒が、彼女を避けるようにして流れていく。


 だから傘なんて、要らないはずなのに。


「帰るわよ」



 並んで歩いた。


 歩幅が合わなかった。


 彼女は背が高くて、脚が長くて、それなのに歩くのが妙に遅かった。


 ――たぶん、わたしに合わせている。


 そう気づいたとき、なぜか背中がざわりとした。


「あの」


「何」


「名前は」


「必要?」


「必要です」


 彼女は少し黙った。


 雨がアスファルトを叩く音だけが続いた。


「――夜鷹」


「よだか」


「そう呼びなさい」


 わたしは、その音を口のなかで転がした。


 夜鷹。ヨタカ。


 夜に飛ぶ鳥だ。国語の教科書で読んだことがある。醜いと言われて、みんなに嫌われて、最後は自分から燃えて、星になってしまう鳥の話。


「本名じゃ、ないですよね」


「そうね」


 あっさり認めた。


「じゃあ、本名は」


「必要?」


「……必要です」


「そう」


 それきり、彼女は答えなかった。



 若葉園の坂の下まで来て、夜鷹さんは足を止めた。


「ここでいいわ」


「あの、さっきのは、なんだったんですか。あの人は、剪定会って、それに、わたしのことを株って」


「明日」


「え」


「朝、五時。ここに来なさい」


「五時!?」


「聞こえなかった?」


「いや、聞こえましたけど、学校が」


「行けばいいでしょう。五時から七時。二時間あれば足りる」


 夜鷹さんは、傘をこちらへ押しつけた。


 わたしが反射的に受け取ると、彼女はもう背を向けていた。


「ちょっと、待ってください」


「なに」


「わたし、まだ何も」


「言うことを聞くか、死ぬか」


 振り返らずに、彼女は言った。


「二つに一つよ。選ばせてあげてるだけ、私は親切なほうだと思うけれど」


「そんなの、選択じゃ」


「選択は、()()()()()()()()()()()よ」


 黒い背中が、雨のなかを遠ざかっていく。


 わたしは、傘を持ったまま、そこに立っていた。


 雨は、傘の外で降っていた。


 傘の内側には、一滴も入ってこなかった。


 ――当たり前だ。傘なんだから。


 そう思おうとして、できなかった。


 わたしが持っているのは、()()()()()()()()()()()()()()()だった。


 夜鷹さんが差してくれていた黒い傘は、いつのまにか、どこにもなかった。



「ましろちゃん、あんた、どこで泥んこ遊びしてきたの!?」


 玄関で佐伯さんに捕まって、風呂場に放り込まれて、髪を三回洗われた。


「転んだの」


「どう転んだらそうなるのよ」


「派手に」


「派手ね、たしかに」


 佐伯さんは呆れ顔で、それ以上は追及しなかった。この人のそういうところに、わたしは三年間、何度も助けられている。


 部屋に戻って、髪も乾かさずに、わたしは引き出しからノートを出した。


 大学ノートの、三冊目。


 ペンを持った。


 日付。六月十三日。


 場所。京成線の高架下、および河川敷。


 壊したもの。


 ――手が、止まった。


 橋脚。フェンス。街灯。土管。自転車。土手の斜面。それから、高架の桁。


 書ききれない。


 行が、足りない。


 三年間、三行で足りていた。今日は、三十行あっても足りない。


 わたしはペンを置いた。


 そして、気づいた。


 ()()()()()()()()()()()


 あの高架は、いまも電車を通している。街灯は点いている。フェンスはまっすぐだ。


 夜鷹さんが、全部、元に戻した。


 三分もかけずに。息ひとつ乱さずに。


 ……いや。


 わたしは、彼女の目を思い出した。


 あの、ひどく疲れた目を。


 ノートには、結局、こう書いた。


『六月十三日 高架下 ――不明』


 不明、というのが、その日のわたしにできる、精一杯の正直さだった。

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