6 黒衣
ごぅん、と、空気が鳴った。
数十トンの鉄の塊が、地上十メートルの高さで、ぴたりと静止していた。
たわんだ桁が、見えない手で下から支えられたみたいに、ゆっくりと、持ち上がっていく。
ミシ、ミシ、ミシ。
さっきと同じ軋みの音が、逆回しに鳴った。
曲がった鉄が、まっすぐに戻っていく。
砕けた橋脚の破片が、宙で集まって、パズルのように組み直されていく。
そして、高架は、何ごともなかったように、そこにあった。
がたん、ごとん。
電車が、真上を通り過ぎていった。
明るい窓が、何枚も、何枚も。
誰も、何も、気づかないまま。
*
わたしは、泥のなかに座ったまま、それを見ていた。
雨は、まだ空中で止まっていた。
数え切れないほどの水の粒が、じっと動かずに、夜の空気に散らばっている。
その粒のあいだを、誰かが歩いてきた。
黒だった。
長い、黒いコート。黒い服。黒い靴。
背が高く、細い。ぞっとするほど細いのに、折れそうな感じがまったくしない。
黒い髪が、濡れてもいないのに重たげに揺れて、白い喉のあたりで影を作っていた。
片手に、閉じたままの傘を提げている。
差していなかった。
差す必要がなかったからだ。
彼女の周りでは、雨粒が、彼女を避けて浮いていた。
「……っ」
鳴海さんが、鋏を構え直した。
その構えは、さっきまでの、収穫作業の手つきではなかった。
「――ああ」
けれど彼は、一拍おいて、構えを解いた。
帽子を取り、雨を含んだ布を絞るように握って、深く、礼をした。
「おや。これは、失礼をいたしました」
女の人は、答えなかった。
視線すら向けなかった。
鳴海さんは、それでも丁寧に言葉を続けた。
「持ち主のかたでしたか」
わたしの背筋が、ぞわりと逆立った。
「でしたら、こちらの手違いです。本日のところは、引かせていただきます」
彼は、わたしのほうを見た。
そして、ほんの少しだけ、目を細めた。
その目は、やっぱり、悪い人の目には見えなかった。
だからこそ、いちばん怖かった。
「では、湊さん。またお伺いします」
「あ――」
わたしが何か言うより早く、鳴海さんは高架の暗がりへ歩いていった。
三歩目で、その姿は、ふつうに、闇に溶けた。
*
静かになった。
雨は、まだ止まっている。
止まったままの雨の下で、黒い服の女の人が、わたしの前に立った。
近くで見ると、ぞっとするほど整った顔をしていた。
美しい、という言葉が、こんなに冷たい意味を持てるのだと、わたしはそのとき初めて知った。
目だけが、ひどく、疲れていた。
彼女は、泥だらけで座り込んでいるわたしを、上から見下ろした。
「ずいぶん下手に使うのね」
低い声だった。
呆れているようでもあり、うんざりしているようでもあり、そのくせ、どこかに別の色が混ざっていた。
何の色なのか、わたしには読めなかった。
「……あなた」
わたしの声は、みっともないくらい震えていた。
「あなた、誰、ですか」
彼女は答えなかった。
かわりに、細い指を持ち上げて、わたしの胸のまんなかを、まっすぐに指した。
つん、と、触れもせずに。
そして言った。
「それは私のものよ」
*
意味が、わからなかった。
「それ」が何を指しているのか、まるで見当がつかなかった。
胸のなか? この力? わたし?
わからないのに。
わからないはずなのに。
指をさされた場所が、ずくん、と疼いた。
呼ばれて、返事をしたみたいに。
わたしの中の何かが、この人を知っている。
「な、なに、を」
立ち上がろうとして、膝が笑って、わたしはまた座り込んだ。
女の人は、小さくため息をついた。
それから、手にした傘を、ぱさりとひらいた。
わたしの頭の上に。
自分ではなく、わたしのほうへ、大きく傾けて。
その仕草だけが、なぜか、ひどく手慣れていた。
「――帰るわよ」
「どこに」
「あなたの家に」
「なんで」
「明日から忙しくなるから」
彼女は前を向いたまま言った。
「教えてあげる。あなたが、何なのか」
*
女の人が指を鳴らした。
ぱちん、と乾いた音がして。
空中で止まっていた、何万粒の雨が、いっせいに落ちた。
ざあ、と世界が音を取り戻す。
濡れたアスファルト。濡れた草。濡れた黄色い傘。
わたしは顔を上げた。
雨のなかを歩いていく、黒い背中があった。
そして、聞こえた。
彼女が、低く、口ずさんでいる。
ゆっくりした、三拍子の、短い旋律。
最後だけ、ふしぎな下がりかたをする歌。
――わたしが、知らないはずの。
――わたしだけが、知っているはずの。
「……待って」
わたしは立ち上がった。
膝が震えていた。心臓がめちゃくちゃに鳴っていた。
それでも、わたしは走った。
走らないこと。
三年守ってきたルールを、その夜、わたしは二度、破った。




