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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
第一章 潰れる夜

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6 黒衣

 ごぅん、と、空気が鳴った。


 数十トンの鉄の塊が、地上十メートルの高さで、ぴたりと静止していた。


 たわんだ桁が、見えない手で下から支えられたみたいに、ゆっくりと、()()()()()()()()


 ミシ、ミシ、ミシ。


 さっきと同じ軋みの音が、逆回しに鳴った。


 曲がった鉄が、まっすぐに戻っていく。


 砕けた橋脚の破片が、宙で集まって、パズルのように組み直されていく。


 そして、高架は、何ごともなかったように、そこにあった。


 がたん、ごとん。


 電車が、真上を通り過ぎていった。


 明るい窓が、何枚も、何枚も。


 誰も、何も、気づかないまま。



 わたしは、泥のなかに座ったまま、それを見ていた。


 雨は、まだ空中で止まっていた。


 数え切れないほどの水の粒が、じっと動かずに、夜の空気に散らばっている。


 その粒のあいだを、()()()()()()()()


 黒だった。


 長い、黒いコート。黒い服。黒い靴。


 背が高く、細い。ぞっとするほど細いのに、折れそうな感じがまったくしない。


 黒い髪が、濡れてもいないのに重たげに揺れて、白い喉のあたりで影を作っていた。


 片手に、閉じたままの傘を提げている。


 差していなかった。


 ()()()()()()()()()からだ。


 彼女の周りでは、雨粒が、彼女を避けて浮いていた。


「……っ」


 鳴海さんが、鋏を構え直した。


 その構えは、さっきまでの、収穫作業の手つきではなかった。


「――ああ」


 けれど彼は、一拍おいて、構えを解いた。


 帽子を取り、雨を含んだ布を絞るように握って、深く、礼をした。


「おや。これは、失礼をいたしました」


 女の人は、答えなかった。


 視線すら向けなかった。


 鳴海さんは、それでも丁寧に言葉を続けた。


()()()()()()でしたか」


 わたしの背筋が、ぞわりと逆立った。


「でしたら、こちらの手違いです。本日のところは、引かせていただきます」


 彼は、わたしのほうを見た。


 そして、ほんの少しだけ、目を細めた。


 その目は、やっぱり、悪い人の目には見えなかった。


 だからこそ、いちばん怖かった。


「では、湊さん。またお伺いします」


「あ――」


 わたしが何か言うより早く、鳴海さんは高架の暗がりへ歩いていった。


 三歩目で、その姿は、ふつうに、闇に溶けた。



 静かになった。


 雨は、まだ止まっている。


 止まったままの雨の下で、黒い服の女の人が、わたしの前に立った。


 近くで見ると、ぞっとするほど整った顔をしていた。


 美しい、という言葉が、こんなに冷たい意味を持てるのだと、わたしはそのとき初めて知った。


 目だけが、ひどく、疲れていた。


 彼女は、泥だらけで座り込んでいるわたしを、上から見下ろした。


「ずいぶん下手に使うのね」


 低い声だった。


 呆れているようでもあり、うんざりしているようでもあり、そのくせ、どこかに別の色が混ざっていた。


 何の色なのか、わたしには読めなかった。


「……あなた」


 わたしの声は、みっともないくらい震えていた。


「あなた、誰、ですか」


 彼女は答えなかった。


 かわりに、細い指を持ち上げて、わたしの胸のまんなかを、まっすぐに指した。


 つん、と、触れもせずに。


 そして言った。


()()()()()()()()



 意味が、わからなかった。


「それ」が何を指しているのか、まるで見当がつかなかった。


 胸のなか? この力? わたし?


 わからないのに。


 わからないはずなのに。


 指をさされた場所が、ずくん、と疼いた。


 呼ばれて、返事をしたみたいに。


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「な、なに、を」


 立ち上がろうとして、膝が笑って、わたしはまた座り込んだ。


 女の人は、小さくため息をついた。


 それから、手にした傘を、ぱさりとひらいた。


 わたしの頭の上に。


 自分ではなく、わたしのほうへ、大きく傾けて。


 その仕草だけが、なぜか、ひどく手慣れていた。


「――帰るわよ」


「どこに」


「あなたの家に」


「なんで」


「明日から忙しくなるから」


 彼女は前を向いたまま言った。


「教えてあげる。あなたが、何なのか」



 女の人が指を鳴らした。


 ぱちん、と乾いた音がして。


 空中で止まっていた、何万粒の雨が、いっせいに落ちた。


 ざあ、と世界が音を取り戻す。


 濡れたアスファルト。濡れた草。濡れた黄色い傘。


 わたしは顔を上げた。


 雨のなかを歩いていく、黒い背中があった。


 そして、聞こえた。


 彼女が、低く、口ずさんでいる。


 ゆっくりした、三拍子の、短い旋律。


 最後だけ、ふしぎな下がりかたをする歌。


 ――わたしが、知らないはずの。


 ――わたしだけが、知っているはずの。


「……待って」


 わたしは立ち上がった。


 膝が震えていた。心臓がめちゃくちゃに鳴っていた。


 それでも、わたしは走った。


 走らないこと。


 三年守ってきたルールを、その夜、わたしは二度、破った。

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