5 蓋が外れる
その瞬間のことを、わたしはずっとあとになっても、うまく言葉にできない。
蓋が外れた、というのがいちばん近い。
三年間、両手で押さえつづけていた蓋。
もう指が白くなるくらい、爪が割れるくらい、押さえつづけていた蓋。
それが、外れた。
わたしが外したのではない。
内側から、蹴り開けられた。
*
いちばん最初に、雨が止んだ。
空から落ちてくるのをやめたのではない。
途中で止まった。
無数の雨粒が、地上二メートルのあたりで、いっせいに静止した。
黒い空気のなかに、ガラスのビーズを何万個もばらまいて、時間を止めたみたいだった。
つぎに、水たまりが平らになった。
波紋が消え、表面が張りつめて、鏡になった。
そこに、わたしの顔が映っていた。
泥だらけで、目を見ひらいて、口を半分あけて、知らない子みたいな顔をしていた。
「――おっと」
鳴海さんの声が、少し変わった。
初めて、彼の声から、のんびりした調子が抜けた。
「これは、ちょっと」
*
音がした。
ぐ、ぐぐ、と。
世界が、奥歯を噛みしめるような音。
三本目の橋脚が、へこんだ。
直径一メートル半のコンクリートの柱が、真ん中あたりで、アルミ缶みたいに、ぼこん、と内側に折れた。
鉄筋が、ぶちぶちと引きちぎれる音がした。
「ちょ、」
四本目も、へこんだ。
五本目も。
わたしの周囲、半径二十メートルの重さが、狂っていた。
あるものは、ありえないほど重くなり。
あるものは、ありえないほど軽くなり。
その境目で、世界がねじ切れていた。
河川敷の土が、めくれ上がった。芝が、束になって宙に浮いた。倒れていた自転車が、真上に飛んで、高架の裏にぶつかって、そのまま平べったく貼りついた。
「やめ」
わたしは自分の胸を掴んだ。
「やめて、やめてやめてやめて――」
止まらなかった。
自分のものなのに、言うことを聞かなかった。
三年間、一度も出してもらえなかったものが、外へ出たがっていた。
それは怒りに似ていた。
わたしのものではない、誰かの、古い、腐りかけた怒りに。
*
そのとき。
頭上で、鉄が、鳴いた。
きぃ、と。
か細い、鳥みたいな声で。
わたしは顔を上げた。
橋脚を失った高架の桁が、ゆっくりと、たわんでいた。
数十トンの鉄とコンクリートの塊が、ミシ、ミシ、と骨を軋ませながら、傾いでいく。
そして、その先。
暗い線路の向こうに。
光があった。
まるい、白い、ふたつの光。
近づいてくる。
――電車だ。
上りの、終電に近い列車。
雨のなかを、いつもどおりの速度で、いつもどおりの明るさで、こちらへ走ってくる。
車内の蛍光灯が見えた。窓が見えた。
人が、乗っていた。
吊革につかまっている人。座席で眠っている人。スマホを見ている人。
何人だろう。
五十人? 百人?
それが全員、ここへ落ちてくる。
*
「あ」
わたしの喉から出たのは、悲鳴ですらなかった。
もっと小さい、空気の漏れるような音だった。
千早の顔が、浮かんだ。
なぜだかわからない。
玄関で、黄色い壊れた傘を押しつけて、へへ、と笑った顔。
『ましろ、また来なよ』
『絶対来なよ』
『約束』
わたしは、両手を突き出した。
止めようとした。
生まれて初めて、わたしは自分の力を、使おうとした。
誰かを傷つけないために。
――届かなかった。
力は、わたしの手をすり抜けていった。
三年間押さえつけていたものは、押さえかたしか知らなかった。離しかたも、向けかたも、わたしは何ひとつ知らなかった。
桁が、落ちた。
支えを失った鉄骨が、二十メートルぶん、まとめて、夜のなかを落ちてきた。
その上を、電車が走ってくる。
わたしは目を閉じなかった。
閉じる資格がないと思った。
自分がこれから殺す人たちを、最後まで見ていなければいけないと思った。
*
だから、見えた。
落ちてくる鉄骨が、途中で止まるところが。




