4 逃げる
最初に切れたのは、光だった。
三本目の橋脚のわきに立っていた街灯の明かりが、斜めに消えた。
電球が割れたのではない。
光そのものが、定規で線を引いたみたいに、途中でぷつりと途切れたのだ。上半分だけが明るく、下半分が闇になった。
つぎに切れたのは、雨だった。
高架の隙間から落ちてきていた雨の筋が、幅一メートルほど、途中からなくなった。
上からは落ちてきているのに、地面には届かない。
その帯のなかだけ、世界に雨が存在していない。
「――ぁ」
わたしは走った。
走らないこと。ルールのひとつめを、三年ぶりに破った。
上履きではなくスニーカーでよかった。水たまりを蹴散らして、橋脚のあいだを縫って、河川敷に続く細い道へ飛び込む。
背後から、のんびりした声が追ってきた。
「走ると危ないですよ。刃物持ってますので」
じょき。
右の耳のそばで、空気が裂けた。
走りながら、わたしは自分の右側を見た。
伸びていたはずの、金網のフェンス。
その上端が、三メートルぶん、ごっそりと消えていた。
切り口は、鏡のように平らだった。
*
胸の底のものが、内側から蓋を殴っている。
どん。どん。どん。
(つかえ)
(つかえば、たすかる)
(あの人の骨なんて、あなたなら、紙みたいに――)
「いや」
わたしは走りながら、首を振った。
「いや、いや、いやだ」
覚えている。
二年前の、駅のホーム。
終電間際で、酔った男の人がわたしの腕を掴んだ。ただそれだけだった。怒鳴られたわけでも、殴られたわけでもない。ただ、掴まれた。
その瞬間、わたしの喉が、ひゅ、と鳴って。
音がした。
生木を折るような。濡れた紙を破るような。
男の人の両腕が、肘から先で、ありえない方向に曲がっていた。
悲鳴が、ホームじゅうに響いた。
佐伯さんは「正当防衛よ」と言った。警察も、そう処理した。周りの人が、男が絡んでいたと証言してくれたから。
でも、わたしは知っている。
あの人は、まだ箸が持てない。
いまでも、雨の日には痛むらしい。
年賀状も、代筆だった。
*
河川敷に出た。
雨が正面から叩きつけてくる。
視界が悪い。土手の草が、足首に絡む。
(どこへ逃げる?)
(人のいるところへ?)
――だめだ。
人のいるところへ行ったら、あの鋏は、たぶん人のいるところで振られる。
それに、わたしがもし、あそこで破裂したら。
わたしは方向を変えた。
人のいない方へ。
暗い方へ。
高架の、いちばん奥へ。
*
走りながら、左手を握ったりひらいたりした。
感覚が、戻らない。
いや、指は動く。痛覚もある。ただ、「重さが見えない」。
たとえるなら、片目を潰されたようなものだった。
わたしは自分が思っていたよりずっと、あの感覚に頼って生きていた。地面の固さも、自分の足の踏み出しかたも、全部それで測っていた。
土手の下に、工事の資材置き場があった。
ブルーシートをかぶせた鉄板の山。積み上げられた土管。傾いたパイロン。
わたしは土管のひとつに、頭から潜り込んだ。
内側は、冷たくて、かび臭くて、雨の音が反響して、自分の心臓の音と区別がつかなかった。
口を、両手でふさぐ。
(息を、止めて)
(音を、立てないで)
(重さを、出さないで)
じゃり。
じゃり。
足音が、近づいてくる。
歩いている。
急いでいない。
そして――鼻歌をうたっていた。
のんびりした、間の抜けた、聞き覚えのない歌。仕事中の職人さんが、手を動かしながらうたうような、そういう歌だった。
その、なんでもなさが、いちばん怖かった。
足音が、土管の前で止まった。
わたしは息を止めた。心臓が三回鳴った。
「――そちらは、冷えますよ」
声が、真横から降ってきた。
「風邪をひきます」
ひゅっ、と喉が鳴った。
「あ、隠れてくださって結構ですよ。こちらも仕事ですから、探すのは慣れてます」
じゃり、と靴が動く。
「ただですね、ひとつだけ」
ばら、と、何かがばらまかれる音がした。
雨のなかに、白いものが舞った。
荷札だ。
何十枚もの荷札が、土管のまわりの地面に、水たまりに、鉄板の山に、ぱらぱらと降り積もっていく。
一枚が、わたしの足首のそばに落ちた。
――消えた。
その荷札が触れた地面の重さが、ぷつりと消えた。
一枚。また一枚。
わたしの「見えている世界」から、丸い穴が、いくつも空いていく。
黒いインクを垂らした水槽みたいに、白い空白が、じわじわと広がってくる。
「逃げ場のほうを、先に切らせていただきます」
わたしは、飛び出した。
反対側の口から、泥を蹴って、転がるように。
背後で、じょき、と音がした。
振り返った。
わたしが入っていた土管が、斜めに、ふたつになっていた。
切り口は、鏡だった。
厚さ十センチのコンクリートが、紙を裁ったみたいに、なめらかに割れていた。
その向こう側に、鳴海さんが立っていた。
鋏を構え直しながら、ちょっと申し訳なさそうに、こう言った。
「すみません。当てるつもりはなかったんですけど、当たったら当たったで、それはそれで」
*
走った。
鉄板の山を回り込んで、パイロンを蹴倒して、土手の斜面を這い上がる。
上まで出れば、道路がある。信号がある。コンビニの明かりがある。
(人のいるところは、だめ)
(でも、このままじゃ)
土手のてっぺんに、手をかけた。
顔を出した。
――鳴海さんが、立っていた。
「お待たせしました」
背後にいたはずの人が、そこにいた。
息も切らしていない。帽子の角度すら、さっきと同じだった。
わたしは声も出せずに、斜面を転げ落ちた。
*
追いつかれているのではない。
最初から、逃がされていたのだ。
わたしが走った方向は、全部、彼が「切り残しておいた場所」だった。
わたしは追われていたのではなく、誘導されていた。
畑の畝を歩かせるみたいに。
収穫しやすい場所まで。
*
つまずいた。
派手に転んだ。
泥のなかを、二メートルほど滑った。
「あらら」
すぐ後ろに、声があった。
いつのまに。
わたしは仰向けのまま、後ずさった。
鳴海さんは、走っていなかった。
濡れた作業帽のつばから水を滴らせながら、ただ、歩いてきていた。
ゆっくりと。
まるで、収穫の時間は決まっていて、急ぐ必要などない、というふうに。
「あのですね」
彼は鋏を肩に担いで、言った。
「わたくし、あなたに恨みはないんですよ。ぜんぜん」
「……来ないで」
「むしろ、申し訳ないと思ってます。三年も外に出しっぱなしにして」
「来ないでっ」
「外は、寒かったでしょう」
その言葉は、なぜか、鋏よりも深いところに刺さった。
わたしの目から、勝手に涙が出た。
雨と混ざって、どっちがどっちだか分からなくなった。
「――何なんですか」
わたしは叫んだ。
「わたしが、何だっていうんですか!」
鳴海さんは、少しだけ、悲しそうな顔をした。
ほんとうに、少しだけ。
「株です」
彼は言った。
「三年前に、ひと株ぶん、取りこぼしたんですよ。わたくしどもの不手際です。ですから」
鋏が、ひらいた。
「根ごと、回収します」




