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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
第一章 潰れる夜

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4 逃げる

 最初に切れたのは、光だった。


 三本目の橋脚のわきに立っていた街灯の明かりが、()()()消えた。


 電球が割れたのではない。


 光そのものが、定規で線を引いたみたいに、途中でぷつりと途切れたのだ。上半分だけが明るく、下半分が闇になった。


 つぎに切れたのは、雨だった。


 高架の隙間から落ちてきていた雨の筋が、幅一メートルほど、途中から()()()()()


 上からは落ちてきているのに、地面には届かない。


 その帯のなかだけ、世界に雨が存在していない。


「――ぁ」


 わたしは走った。


 走らないこと。ルールのひとつめを、三年ぶりに破った。


 上履きではなくスニーカーでよかった。水たまりを蹴散らして、橋脚のあいだを縫って、河川敷に続く細い道へ飛び込む。


 背後から、のんびりした声が追ってきた。


「走ると危ないですよ。刃物持ってますので」


 じょき。


 右の耳のそばで、空気が()()()


 走りながら、わたしは自分の右側を見た。


 伸びていたはずの、金網のフェンス。


 その上端が、三メートルぶん、ごっそりと消えていた。


 切り口は、鏡のように平らだった。



 胸の底のものが、内側から蓋を殴っている。


 どん。どん。どん。


(つかえ)


(つかえば、たすかる)


(あの人の骨なんて、あなたなら、紙みたいに――)


「いや」


 わたしは走りながら、首を振った。


「いや、いや、いやだ」


 覚えている。


 二年前の、駅のホーム。


 終電間際で、酔った男の人がわたしの腕を掴んだ。ただそれだけだった。怒鳴られたわけでも、殴られたわけでもない。ただ、掴まれた。


 その瞬間、わたしの喉が、ひゅ、と鳴って。


 ()()()()


 生木を折るような。濡れた紙を破るような。


 男の人の両腕が、肘から先で、ありえない方向に曲がっていた。


 悲鳴が、ホームじゅうに響いた。


 佐伯さんは「正当防衛よ」と言った。警察も、そう処理した。周りの人が、男が絡んでいたと証言してくれたから。


 でも、わたしは知っている。


 ()()()()()()()()()()()()


 いまでも、雨の日には痛むらしい。


 年賀状も、代筆だった。



 河川敷に出た。


 雨が正面から叩きつけてくる。


 視界が悪い。土手の草が、足首に絡む。


(どこへ逃げる?)


(人のいるところへ?)


 ――だめだ。


 人のいるところへ行ったら、あの鋏は、たぶん人のいるところで振られる。


 それに、わたしがもし、あそこで()()したら。


 わたしは方向を変えた。


 人のいない方へ。


 暗い方へ。


 高架の、いちばん奥へ。



 走りながら、左手を握ったりひらいたりした。


 感覚が、戻らない。


 いや、()()()()。痛覚もある。ただ、「重さが見えない」。


 たとえるなら、片目を潰されたようなものだった。


 わたしは自分が思っていたよりずっと、あの感覚に頼って生きていた。地面の固さも、自分の足の踏み出しかたも、全部それで測っていた。


 土手の下に、工事の資材置き場があった。


 ブルーシートをかぶせた鉄板の山。積み上げられた土管。傾いたパイロン。


 わたしは土管のひとつに、頭から潜り込んだ。


 内側は、冷たくて、かび臭くて、雨の音が反響して、自分の心臓の音と区別がつかなかった。


 口を、両手でふさぐ。


(息を、止めて)


(音を、立てないで)


(重さを、出さないで)


 じゃり。


 じゃり。


 足音が、近づいてくる。


 歩いている。


 急いでいない。


 そして――鼻歌をうたっていた。


 のんびりした、間の抜けた、聞き覚えのない歌。仕事中の職人さんが、手を動かしながらうたうような、そういう歌だった。


 その、なんでもなさが、いちばん怖かった。


 足音が、土管の前で止まった。


 わたしは息を止めた。心臓が三回鳴った。


「――そちらは、冷えますよ」


 声が、真横から降ってきた。


「風邪をひきます」


 ひゅっ、と喉が鳴った。


「あ、隠れてくださって結構ですよ。こちらも仕事ですから、探すのは慣れてます」


 じゃり、と靴が動く。


「ただですね、ひとつだけ」


 ばら、と、何かがばらまかれる音がした。


 雨のなかに、白いものが舞った。


 ()()だ。


 何十枚もの荷札が、土管のまわりの地面に、水たまりに、鉄板の山に、ぱらぱらと降り積もっていく。


 一枚が、わたしの足首のそばに落ちた。


 ――消えた。


 その荷札が触れた地面の重さが、ぷつりと消えた。


 一枚。また一枚。


 わたしの「見えている世界」から、丸い穴が、いくつも空いていく。


 黒いインクを垂らした水槽みたいに、白い空白が、じわじわと広がってくる。


()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 わたしは、飛び出した。


 反対側の口から、泥を蹴って、転がるように。


 背後で、じょき、と音がした。


 振り返った。


 わたしが入っていた土管が、()()()()()()()()()()()()


 切り口は、鏡だった。


 厚さ十センチのコンクリートが、紙を裁ったみたいに、なめらかに割れていた。


 その向こう側に、鳴海さんが立っていた。


 鋏を構え直しながら、ちょっと申し訳なさそうに、こう言った。


「すみません。当てるつもりはなかったんですけど、当たったら当たったで、それはそれで」



 走った。


 鉄板の山を回り込んで、パイロンを蹴倒して、土手の斜面を這い上がる。


 上まで出れば、道路がある。信号がある。コンビニの明かりがある。


(人のいるところは、だめ)


(でも、このままじゃ)


 土手のてっぺんに、手をかけた。


 顔を出した。


 ――()()()()()()()()()()


「お待たせしました」


 背後にいたはずの人が、そこにいた。


 息も切らしていない。帽子の角度すら、さっきと同じだった。


 わたしは声も出せずに、斜面を転げ落ちた。



 ()()()()()()()()()()()()()


 ()()()()()()()()()()()()()


 わたしが走った方向は、全部、彼が「切り残しておいた場所」だった。


 わたしは追われていたのではなく、()()()()()()()


 畑の畝を歩かせるみたいに。


 収穫しやすい場所まで。



 つまずいた。


 派手に転んだ。


 泥のなかを、二メートルほど滑った。


「あらら」


 すぐ後ろに、声があった。


 いつのまに。


 わたしは仰向けのまま、後ずさった。


 鳴海さんは、走っていなかった。


 濡れた作業帽のつばから水を滴らせながら、ただ、歩いてきていた。


 ゆっくりと。


 まるで、収穫の時間は決まっていて、急ぐ必要などない、というふうに。


「あのですね」


 彼は鋏を肩に担いで、言った。


「わたくし、あなたに恨みはないんですよ。ぜんぜん」


「……来ないで」


「むしろ、申し訳ないと思ってます。三年も外に出しっぱなしにして」


「来ないでっ」


「外は、寒かったでしょう」


 その言葉は、なぜか、鋏よりも深いところに刺さった。


 わたしの目から、勝手に涙が出た。


 雨と混ざって、どっちがどっちだか分からなくなった。


「――何なんですか」


 わたしは叫んだ。


「わたしが、何だっていうんですか!」


 鳴海さんは、少しだけ、悲しそうな顔をした。


 ほんとうに、少しだけ。


()です」


 彼は言った。


「三年前に、ひと株ぶん、取りこぼしたんですよ。わたくしどもの不手際です。ですから」


 鋏が、ひらいた。


()()()()()()()()

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