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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
第一章 潰れる夜

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3/50

3 雨と、鋏の音

 若葉園までの帰り道には、京成線の高架をくぐる場所がある。


 線路が川を渡るあたりで、太いコンクリートの橋脚が、等間隔にずらりと並んでいる。夜になると街灯が少なく、雨の日はなおさら暗い。ふだんは遠回りをするけれど、その日は濡れていて、早く帰りたかった。


 高架の下に入ると、ふっと雨の音が止んだ。


 正確には、遠くなった。


 頭上の鉄骨に雨が当たって、ぼたぼたと、大きな粒になって落ちてくる。コンクリートのにおいと、鉄錆のにおい。橋脚の根元には、誰かが捨てた自転車が半分つぶれて転がっている。


 わたしは傘を閉じた。


 かん、かん、かん。


 どこかで、金属を叩く音がした。


 工事だろうか。こんな時間に。


 そう思って顔を上げたとき、()()()は、もう三本目の橋脚の前に立っていた。



 作業服の上に、半透明のレインコートを着ていた。


 首にはタオル。頭には、つばの短い作業帽。


 背はそれほど高くない。四十代くらいだろうか。肩がなだらかで、姿勢がいい。道路工事の人だと言われたら、百人中百人が信じる格好だった。


 ただ、手に持っているものが、おかしかった。


 鋏だ。


 柄の長さが、一メートル半はある。両手で持つタイプの、剪定鋏。造園業の人が、高いところの枝を落とすのに使うような。


 けれどその刃は、金属の色をしていなかった。


 濡れた黒だった。光を、一滴も返さない黒。


 そして、腰のベルト。


 そこには、束になった荷札がぶら下がっていた。


 小さな紙の札が、何十枚も。雨に濡れて、ぺたぺたと張りついて、風もないのに、かすかに揺れている。


 一枚一枚に、何かが書いてあった。


 数字と、たぶん、名前。


「――おや」


 男の人が、顔を上げた。


「こんばんは。おつかれさまです」


 とても、ふつうの挨拶だった。


 そのふつうさが、わたしの背筋を、下から順に凍らせていった。


「……こんばんは」


 わたしは会釈をして、そのまま横を通り抜けようとした。


 通り抜けられなかった。


 一歩踏み出したところで、男の人が、ひょい、と鋏の柄をこちらに傾けたからだ。


 柄の先が、わたしの行く手を、ふさぐように。


「あ、すみません。ちょっとだけ」


 彼は腰の荷札をつまんで、めくりはじめた。


 ぺら、ぺら、ぺら。


「ええと……あった。はい」


 一枚を指で挟んで、目の高さに持ち上げる。


()()()()()()()()()()ですね」


 心臓が、止まった。


「……なんの、話ですか」


「いやあ、探しましたよ」


 彼は帽子のつばを持ち上げて、にこりと笑った。


 人の好さそうな、目尻に皺の寄る笑いかただった。


「三年、ですからね。よく伸びました。ほんとうに、よく伸びた」


「なんの――」


()の話です」


 じゃり、と、彼の靴がコンクリートを噛んだ。


 一歩、近づいてくる。


「わたくし、剪定会の鳴海と申します」


 彼は、片手で作業帽を取って、律儀に頭を下げた。


「伸びすぎた枝を落として、実を収穫するのが仕事です。造園と、まあ、だいたい同じですよ」


「……意味が、わかりません」


「わからなくていいんです」


 鳴海さんは、優しい声で言った。


「枝は、意味なんてわからなくていいんです。ただ伸びて、切られるだけですから」



 逃げなければ、と思った。


 思ったのに、足が動かなかった。


 胸の底のものが、ゆっくりと目を覚まし始めていたからだ。


 ()()


 ()()()()()


 わたしは自分の腕を、思いきり握りしめた。爪が食い込む。痛みで、意識を胸から引き剥がす。


「おや。堪えてますね」


 鳴海さんが、感心したように言った。


「えらいなあ。ふつうはね、ここで撒き散らすんですよ。みなさん。パニックになって、周りのものを全部めちゃくちゃにして、それでこっちが後始末する」


 彼は、ゆっくり鋏を持ち上げた。


「あなた、ずいぶん我慢してきたでしょう」


 ――やめて。


「三年ぶん、ぜんぶ、内側に押し込んで」


 ――やめて。


「そういうの、いちばん()()()()んですよ」


 鳴海さんは、空いている手を、わたしのほうに伸ばしてきた。


 指のあいだに、荷札が一枚。


 避けようとした。避けられなかった。


 札の細い針金が、わたしの左手首に、するりと巻きついた。


 冷たかった。


 氷ではなく、()()みたいな冷たさだった。


 手首から先の感覚が、すうっと薄れていく。


 痛みではない。


 ()()()()()()()()()()()


 いままで一度も途切れたことのない、あの感覚。世界じゅうのものの重さが、色みたいに見えていた、あの感覚。


 左手のまわりだけ、それが()()()()()


 真っ白だった。


 何も見えない、何も分からない、平らな白。


「ひっ」


 喉から、自分のものではないような音が出た。


「あ、痛くはないでしょう」


 鳴海さんは、荷札の端を指ではじいた。


「枝は痛がりませんから」



 わたしは、後ろに下がった。


 一歩、二歩。


 黄色い傘が、手から落ちて、水たまりに転がった。


「どちらへ?」


 鳴海さんは追ってこなかった。


 そのかわり、ゆっくりと鋏を構えた。


 両手で、柄を握る。


 刃をひらく。


 じ、と、かすかな音がした。


 刃と刃のあいだの、その黒い隙間から、()()()()が吹いてくるような気がした。


「ああ、ひとつだけ、お伝えしておきますね」


 彼は、まるで玄関先で回覧板を渡すような調子で言った。


()()()()()()()()()()()()()()()()


「――え」


 わたしの喉が、勝手に音を出した。


「持ち主、って」


「あなたの」


 鳴海さんは、こともなげに言った。


「あなたの、持ち主です」


 じょき。


 鋏が、閉じた。

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