3 雨と、鋏の音
若葉園までの帰り道には、京成線の高架をくぐる場所がある。
線路が川を渡るあたりで、太いコンクリートの橋脚が、等間隔にずらりと並んでいる。夜になると街灯が少なく、雨の日はなおさら暗い。ふだんは遠回りをするけれど、その日は濡れていて、早く帰りたかった。
高架の下に入ると、ふっと雨の音が止んだ。
正確には、遠くなった。
頭上の鉄骨に雨が当たって、ぼたぼたと、大きな粒になって落ちてくる。コンクリートのにおいと、鉄錆のにおい。橋脚の根元には、誰かが捨てた自転車が半分つぶれて転がっている。
わたしは傘を閉じた。
かん、かん、かん。
どこかで、金属を叩く音がした。
工事だろうか。こんな時間に。
そう思って顔を上げたとき、その人は、もう三本目の橋脚の前に立っていた。
*
作業服の上に、半透明のレインコートを着ていた。
首にはタオル。頭には、つばの短い作業帽。
背はそれほど高くない。四十代くらいだろうか。肩がなだらかで、姿勢がいい。道路工事の人だと言われたら、百人中百人が信じる格好だった。
ただ、手に持っているものが、おかしかった。
鋏だ。
柄の長さが、一メートル半はある。両手で持つタイプの、剪定鋏。造園業の人が、高いところの枝を落とすのに使うような。
けれどその刃は、金属の色をしていなかった。
濡れた黒だった。光を、一滴も返さない黒。
そして、腰のベルト。
そこには、束になった荷札がぶら下がっていた。
小さな紙の札が、何十枚も。雨に濡れて、ぺたぺたと張りついて、風もないのに、かすかに揺れている。
一枚一枚に、何かが書いてあった。
数字と、たぶん、名前。
「――おや」
男の人が、顔を上げた。
「こんばんは。おつかれさまです」
とても、ふつうの挨拶だった。
そのふつうさが、わたしの背筋を、下から順に凍らせていった。
「……こんばんは」
わたしは会釈をして、そのまま横を通り抜けようとした。
通り抜けられなかった。
一歩踏み出したところで、男の人が、ひょい、と鋏の柄をこちらに傾けたからだ。
柄の先が、わたしの行く手を、ふさぐように。
「あ、すみません。ちょっとだけ」
彼は腰の荷札をつまんで、めくりはじめた。
ぺら、ぺら、ぺら。
「ええと……あった。はい」
一枚を指で挟んで、目の高さに持ち上げる。
「三年前の、取りこぼし分ですね」
心臓が、止まった。
「……なんの、話ですか」
「いやあ、探しましたよ」
彼は帽子のつばを持ち上げて、にこりと笑った。
人の好さそうな、目尻に皺の寄る笑いかただった。
「三年、ですからね。よく伸びました。ほんとうに、よく伸びた」
「なんの――」
「枝の話です」
じゃり、と、彼の靴がコンクリートを噛んだ。
一歩、近づいてくる。
「わたくし、剪定会の鳴海と申します」
彼は、片手で作業帽を取って、律儀に頭を下げた。
「伸びすぎた枝を落として、実を収穫するのが仕事です。造園と、まあ、だいたい同じですよ」
「……意味が、わかりません」
「わからなくていいんです」
鳴海さんは、優しい声で言った。
「枝は、意味なんてわからなくていいんです。ただ伸びて、切られるだけですから」
*
逃げなければ、と思った。
思ったのに、足が動かなかった。
胸の底のものが、ゆっくりと目を覚まし始めていたからだ。
だめ。
起きないで。
わたしは自分の腕を、思いきり握りしめた。爪が食い込む。痛みで、意識を胸から引き剥がす。
「おや。堪えてますね」
鳴海さんが、感心したように言った。
「えらいなあ。ふつうはね、ここで撒き散らすんですよ。みなさん。パニックになって、周りのものを全部めちゃくちゃにして、それでこっちが後始末する」
彼は、ゆっくり鋏を持ち上げた。
「あなた、ずいぶん我慢してきたでしょう」
――やめて。
「三年ぶん、ぜんぶ、内側に押し込んで」
――やめて。
「そういうの、いちばんよく育つんですよ」
鳴海さんは、空いている手を、わたしのほうに伸ばしてきた。
指のあいだに、荷札が一枚。
避けようとした。避けられなかった。
札の細い針金が、わたしの左手首に、するりと巻きついた。
冷たかった。
氷ではなく、麻酔みたいな冷たさだった。
手首から先の感覚が、すうっと薄れていく。
痛みではない。
重さが、わからなくなった。
いままで一度も途切れたことのない、あの感覚。世界じゅうのものの重さが、色みたいに見えていた、あの感覚。
左手のまわりだけ、それが消えていた。
真っ白だった。
何も見えない、何も分からない、平らな白。
「ひっ」
喉から、自分のものではないような音が出た。
「あ、痛くはないでしょう」
鳴海さんは、荷札の端を指ではじいた。
「枝は痛がりませんから」
*
わたしは、後ろに下がった。
一歩、二歩。
黄色い傘が、手から落ちて、水たまりに転がった。
「どちらへ?」
鳴海さんは追ってこなかった。
そのかわり、ゆっくりと鋏を構えた。
両手で、柄を握る。
刃をひらく。
じ、と、かすかな音がした。
刃と刃のあいだの、その黒い隙間から、冷たい風が吹いてくるような気がした。
「ああ、ひとつだけ、お伝えしておきますね」
彼は、まるで玄関先で回覧板を渡すような調子で言った。
「持ち主のかたが、探しておられますよ」
「――え」
わたしの喉が、勝手に音を出した。
「持ち主、って」
「あなたの」
鳴海さんは、こともなげに言った。
「あなたの、持ち主です」
じょき。
鋏が、閉じた。




