2 わたしの名前は三年前にできた
若葉園は、大きな幹線道路から一本入った、坂の途中に建っている。
築三十年の、白い二階建て。壁のところどころに蔦が這っていて、夏になると玄関の前でカナブンがひっくり返って死んでいる。子どもは全部で十九人。いちばん下は四歳で、いちばん上はわたしだ。
わたしの部屋は、一階の、いちばん端。
二階の部屋が空いていても、わたしは一階から動かない。
万が一、床が抜けたときのことを考えたくないから。
「ましろちゃん、お風呂の栓、また直ってないのよ」
台所から、佐伯さんの声が飛んできた。
佐伯さんはここの職員で、五十代で、声が大きくて、笑うときに手を叩く。わたしがここへ来た日から、ずっといる人だ。
「うん、見とく」
「お願いねえ。あと、洗濯機の四番。あんた、また詰め込みすぎたでしょ」
「詰め込んでない」
「詰め込んでる。あの子、悲鳴あげてたわよ」
洗濯機は悲鳴をあげない。でも、佐伯さんの言い分もわかる。この家の家電は、わたしの近くで壊れる確率が、ほかの子より少しだけ高い。
正確には、少しどころではない。
*
わたしの机の引き出しには、大学ノートが三冊入っている。
表紙には何も書いていない。開くと、ぎっしりと三行ずつの記録が並んでいる。
三年ぶんだ。
一冊目のいちばん最初のページには、こう書いてある。
『四月二日 病院 ベッドの手すり』
それが、わたしの人生でいちばん古い記憶だった。
*
三年前の四月、わたしは東京湾の埠頭で見つかった。
夜明け前だった、と聞いている。
海釣りに来た人が、コンテナヤードの外れに立っている女の子を見つけて、通報した。裸足で、袖のない白いワンピース一枚で、雨に濡れて、海を見ていたそうだ。
名前がなかった。
記憶もなかった。
保護されたとき、わたしは自分の年齢も、生まれた場所も、親の顔も、何ひとつ答えられなかった。ただ、言葉だけは話せた。日本語を読めたし、書けたし、九九も言えた。カレンダーの読みかたも知っていた。なのに、自分については何ひとつ知らなかった。
警察は、当然、身元を探した。
行方不明者届。該当なし。
指紋。該当なし。
歯科記録。該当なし。
DNA。該当なし。
全国のどこにも、わたしを探している人はいなかった。
それだけならまだ、ある話なのだそうだ。事情があって届を出せない家もある。
けれど、わたしの場合は、その先が変だった。
わたしの写真は、どの防犯カメラにも映っていなかった。
埠頭に至るまでの道にも、最寄り駅にも、コンビニにも、高速のインターにも。半径三キロの、あらゆるカメラの記録が調べられて、そのどれにも、わたしらしき人影はなかった。
まるで、あの朝、あの場所に、いきなり置かれたみたいに。
結局、家庭裁判所の就籍許可審判というものを経て、わたしの戸籍は新しく作られた。
推定年齢、十四歳。
名前は、湊真白。
「湊」は、見つかった場所から。
「真白」は、着ていたワンピースの色から。
つまりわたしの名前は、わたしの三年前にできたもので、わたし自身とは、なんの関係もない。
*
夕食のあと、食堂でひなたが泣いていた。
四歳。若葉園でいちばん小さい子だ。廊下を走って、曲がり角で足を滑らせて、おでこを柱にぶつけたらしい。
「ましろねえ、だっこ」
両手を上げて、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔をこちらに向けてくる。
わたしはしゃがんだ。
しゃがんで、それ以上は近づかなかった。
「ごめんね。だっこは、できない」
「なんでぇ」
「腕が、痛いから」
嘘だった。
三年間、ここで何十回もついてきた嘘だった。
ひなたは、しゃくりあげながら、じっとわたしを見た。四歳の子は、嘘を見抜くのが上手だ。見抜いたうえで、たいてい許してくれる。
「じゃあ、となり」
「となり?」
「となり、すわって」
わたしは、床に座った。
ひなたが、ぴったりとくっついて座った。
触れていた。肩と肩が、薄い布ごしに。
心臓が、少しだけ速くなる。
胸の底のものは、静かだった。
大丈夫。
大丈夫。
「……歌、うたおうか」
「うたう」
わたしは、小さな声で、ゆっくりした歌をうたった。
三拍子の、短い旋律。最後だけ、ふしぎな下がりかたをする歌。
なんの歌かは知らない。
歌詞もない。
ただ、これをうたうと、どんな子でも泣きやむ。それだけは、三年かけて確かめてある。
ひなたは、五回目のくりかえしのあたりで、こてんとわたしの肩に頭をあずけて、寝息を立てはじめた。
わたしは動けなくなった。
動けないまま、しばらく、そのままでいた。
肩にかかった重さは、十四キロと少し。
指一本で、ばらばらにできる重さだ。
わたしは、息を殺して、それをただ、支えていた。
*
その夜、わたしは風呂場の栓を直して、洗濯機四番をなだめて、それから自分の部屋で膝を抱えていた。
窓の外では雨が降っている。
雨の音は好きだ。世界中の水が、同じ速さで、同じ方向に落ちていくから。
こんなに大量のものが、こんなに整然と、誰も傷つけずに落ちていく。すごいことだと思う。
わたしは、ひとつも落とせないのに。
気づくと、鼻歌をうたっていた。
ゆっくりした、三拍子の、短い旋律。
最後だけ、ふしぎな下がりかたをする歌。
「――ましろちゃん、それ」
ドアが半分開いて、佐伯さんが洗濯物の籠を抱えて立っていた。
「その歌、まだ覚えてるのねえ」
「……なんの歌か、知ってる?」
佐伯さんは首を横に振った。
「知らないわよ。あんたが来た最初の晩に、ずーっとうたってたの。子守唄みたいな。あたし、てっきりお母さんの歌かと思ったんだけど」
「知らない」
「知らないのにうたえるの?」
「うたえる」
わたしは膝に顎をのせた。
「知らないのに、知ってる」
佐伯さんは、少しのあいだ黙って、それからいつもの大きな声で笑った。
「まあ、そういうこともあるわよ。人間、わりと自分のこと知らないもんだから」
そう言って、籠を抱え直して出ていった。
*
その夜も、同じ夢を見た。
白い部屋にいる。
壁も、床も、天井も白い。窓がない。
わたしは、誰かの背中を見ている。
細い背中だ。白い。骨が浮いている。
その背中の真ん中に、まっすぐな赤い線が、縦に一本、走っている。
ひらいている、と夢のなかのわたしは思う。
ひらいて、なかから何かが、取り出されようとしている。
そして必ず、音がする。
じょき、と。
大きな鋏が、湿ったものを断ち切る音。
*
土曜日は、朝から雨だった。
千早の家は、駅の反対側の、細い路地の奥にあった。
古いアパートの二階で、玄関を開けたとたん、揚げ物のにおいと、テレビの音と、千早のお母さんの「いらっしゃーい!」という声が一度に襲ってきた。
「あんたが真白ちゃん? ちーちゃんから聞いてるわよ、うちの子より字がきれいな子でしょ」
「あ、えっと、はじめまして」
「細っ! ちょっと、なに食べてんのあんた。うち唐揚げしかないけど食べる?」
「お母さん、まだ三時だから」
「三時でも唐揚げは唐揚げでしょ」
千早の部屋は、六畳で、本と服が地層になっていた。
わたしたちは、こたつを片付け忘れたままのテーブルで、古文の助動詞を三時間やった。
二時間目で千早が力尽きて、三時間目はほとんどわたしが問題を解いて、千早はうつ伏せでスマホをいじっていた。
わたしは、ときどき手を止めて、部屋を見まわした。
壁に貼ってある、色あせた映画のポスター。
小さいころの家族写真。母親と、父親と、前歯の抜けた千早。
窓辺に並んだ、手作りらしい下手なミサンガ。
――全部、壊れたら二度と戻らないものだ。
わたしはゆっくり、深く呼吸をした。
胸の底のものは、静かだった。
眠っている、という感じがした。
大丈夫だ。
今日は、大丈夫。
「ましろ」
うつ伏せの千早が、顔だけこちらに向けた。
「なんか、楽しそうな顔してる」
「……してない」
「してる。にやけてる」
「してない」
「えー、うちの唐揚げそんな美味かった?」
「唐揚げは、まあ」
「まあ、って何」
千早が枕を投げてきた。
わたしはそれを、両手でそっと受け止めた。
そっと。
枕を潰さないくらい、そっと。
千早は気づかない。
わたしは枕を抱えたまま、しばらく、そこにいた。
*
九時を過ぎて、ようやく腰を上げた。
長居しすぎた。
嬉しかったから、時計を見なかった。そんなの、生まれて初めてだった。
「傘、これ持ってって」
玄関で千早が押しつけてきたのは、黄色いビニール傘だった。骨が一本折れていて、そこだけ内側にへこんでいる。
「これ、壊れてない?」
「壊れてる。でも差せる」
「壊れてるじゃん」
「壊れてても使えるんだから、えらいでしょ、この傘」
千早はそう言って、へへ、と笑った。
「ましろ、また来なよ」
「……うん」
「絶対来なよ」
「うん」
「約束」
「うん」
わたしは三回うなずいて、外に出た。
雨は少し強くなっていた。
黄色い傘をひらくと、折れた骨のところが、ぼこ、とへこんだまま持ち上がった。
その形が、なんだか妙におかしくて、わたしはひとりで笑った。
十分後に自分が死にかけるなんて、そのときのわたしは、これっぽっちも思っていなかった。




