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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
第一章 潰れる夜

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1 息をひそめる教室

 わたしには、三つのルールがある。


 ひとつ、走らないこと。


 ふたつ、怒らないこと。


 みっつ、誰にも触れないこと。


 この三つさえ守っていれば、世界はだいたい平和だ。守れなかった日のことは、ノートに書くことにしている。日付と、場所と、壊したものの名前。それだけを書く。理由は書かない。理由を書き出すと、言い訳になってしまう気がするから。


 六月の教室は、水槽の底みたいだった。


 梅雨に入ってから一週間、窓の外はずっと灰色で、廊下の壁は汗をかいたみたいに湿っている。天井の扇風機が気だるく首を振るたび、生ぬるい空気がゆっくりかき混ぜられていく。誰かの制汗剤のにおいと、雨に濡れた上履きのにおい。


 五時間目、古文。黒板の前で先生の声が続いている。


 わたしは窓際のいちばん後ろの席で、ノートの隅に小さな数字を書いていた。


(シャープペンシル、十グラム。消しゴム、十五グラム。筆箱、百二十グラム。机、五・八キロ)


 癖だった。目に入ったものの重さを、片っ端から見積もってしまう。たぶん正確だ。体重計よりも。


 重さは、わたしにとって色みたいなものだった。見れば分かる。触らなくても分かる。教室の床がどこで軋むかも、廊下のどのロッカーに何が詰まっているかも、目をつぶっていても当てられる。


 便利でしょう、と言われたことはない。誰にも言ったことがないから。


 言ったところで、たぶん伝わらない。


 みんなは、重さを「持ったときに分かるもの」だと思っている。わたしにとっては違う。重さは、最初からそこにある。机の角が光るのと同じくらい、当たり前に、見えている。


 そして――見えるということは、()()()()ということだった。


 たとえば、この机。


 五・八キロ。


 その数字に、心のなかで指をかけて、ほんの少し、下へ押す。


 それだけで、机の脚は床にめり込む。


 木の板が、自分の重さで、内側から潰れる。


 やったことはない。一度も。


 やったらどうなるかが、()()()()()()()から、やらない。


 分からないほうが幸せだったな、と思うことが、たまにある。


「――ましろ」


 背中を、こつんと小突かれた。


 前の席の男子が、伸びをした拍子に肘を当てたのだ。悪気はない。ほんとうに、これっぽっちも悪気はない。


 けれど、わたしの心臓は一拍ぶん、床に落ちた。


 息を止める。


 奥歯を噛む。


 胸の底にあるものが、ぐらりと傾くのを、両手で押さえつけるみたいにして。


 ことん、と音がした。


 机の上の筆箱が、静かにへこんでいた。プラスチックの蓋の真ん中が、親指で押したみたいに、ゆっくりと沈んでいる。パキ、と乾いた音を立てて、蓋のヒンジが割れた。


「……ごめんね」


 わたしは筆箱に向かって、小さく謝った。


 前の席の男子は、すでに前を向いて船を漕いでいる。誰もこちらを見ていない。よかった。ほんとうによかった。


 今日のぶんを、あとでノートに書かなければならない。


 日付、六月十一日。場所、二年三組の教室。壊したもの、筆箱。


 三行。それだけ。



 わたしの名前は、湊真白という。


 私立の、そんなに偏差値の高くない高校の、二年生。十七歳。ということになっている。


「ましろー、放課後どうする? 図書室? それともわたしんち?」


 昼休み、机に頬杖をついて訊いてきたのは、津久見千早だった。


 千早はわたしの、唯一の友達だ。


 唯一、というのは謙遜でも卑下でもない。数えるとそうなる、というだけの話だった。わたしは人に近づかない。近づかれても、半歩ぶんだけ下がる。たいていの人は、二回それをやられると、三回目からは近づいてこなくなる。


 千早は、五十回くらい近づいてきた。


「今日は、いい。当番だから」


「掃除当番?」


「ううん、施設の」


「あー、お風呂掃除のやつか」


 千早はあっさり頷いた。


 わたしが児童養護施設から通っていることを、千早は知っている。知っていて、何も言わない。かわいそうとも、大変だねとも、一度も言われたことがない。かわりに、たまに「うちのおかん、揚げ物作りすぎるんだけど」と言って、タッパーを押しつけてくる。


 そういうところが、わたしは好きだった。


「じゃあさ、土曜」


 千早が指を一本立てた。


「うちで勉強しよ。期末やばいでしょ、ましろ古文」


「……やばい」


「でしょ」


「でも」


「でも、なし」


 千早はわたしの言葉を、ぱたんと閉じた。


「ましろってさ、遊びに来たことないじゃん、一回も」


 胸の底が、しんと冷たくなった。


 そうだ。行ったことがない。誰の家にも。


 狭い場所が怖いのではない。人の家には、壊れたら取り返しのつかないものが多すぎる。写真立てとか、誰かの湯呑みとか、思い出とか。それが怖い。


 わたしが黙っていると、千早は身を乗り出して、わたしの目をのぞきこんだ。


「なんかあったら、割れたら、うちのおかんが怒鳴るだけだから。大丈夫」


「……そういう問題じゃ」


「そういう問題」


 言い切られてしまった。


 千早の目は、まっすぐで、まぶしいくらいに素直だ。その目に見られると、わたしの中の「やめておいたほうがいい」が、どんどん小さくなっていく。


「――わかった」


 気づいたら、そう答えていた。


 千早がぱっと笑った。


 そのとき、わたしの胸の底のものは、いつもと違う揺れかたをした。危ない揺れかたではなかった。ただ、あたたかい方向に、少しだけ傾いだ。


 こういう揺れもあるのだと、わたしはまだ、うまく飲み込めていない。



 事件は、放課後に起きた。


 雨で体育が中止になった日の階段は、いつも危ない。上履きの裏が濡れて、踊り場のタイルが滑る。


 わたしと千早が三階から下りようとしたとき、二段先を歩いていた一年生の女の子が、ふっと沈んだ。


 分かった。


 沈む、という感覚は、わたしにはいちばん見慣れたものだ。彼女の重心が、かかとの外側へ抜けた。その瞬間、彼女の体の重さが、五十二キロぶんまるごと、後ろに投げ出される。


 手を伸ばせば届く。


 わたしの右手は、すでに動いていた。指先が、彼女の制服のリボンに触れる寸前まで。


 ――やめて。


 頭のなかで、誰かが叫んだ。たぶんわたしだ。


 触れたら、どうなる?


 あのときみたいに、なったら?


 わたしの手は、空中で止まった。


 ぴたりと、糸で吊られたみたいに。


 女の子は落ちた。三段。悲鳴。鞄が跳ねて、上履きが片方飛んで、彼女は踊り場に尻もちをついた。


「うわっ、大丈夫っ!?」


 千早が駆け下りる。


 わたしは一拍遅れて、階段を下りた。走らずに。走らないというルールを、こんなときですら、わたしは守った。


「……いたた。すみません、ありがとうございます」


 女の子は笑っていた。膝が擦り剥けて、血が滲んでいる。


 わたしはポケットからハンカチを出して、差し出した。


 彼女の手には触れないように、ハンカチの端だけを持って。


「使って」


「え、でも汚れちゃ」


「いいの。使って」


 女の子は恐縮しながら受け取って、何度も頭を下げて、保健室のほうへ歩いていった。


 わたしは、その背中が見えなくなるまで、立っていた。


 膝の擦り傷。あれは、わたしが作ったものだ。


 正確には、わたしが()()()()()()()()が、作ったものだ。


「ましろ」


 千早が、階段の手すりに寄りかかってわたしを見ていた。


「手、伸びてたよね。途中まで」


 心臓が、ひとつ、跳ねた。


「……見て、た?」


「見てた」


 千早は、責める顔をしていなかった。ただ、ちょっとだけ首をかしげていた。


「なんで、途中でやめたの」


 言えるわけがなかった。


 触れたら、あの子の腕が折れたかもしれない。背骨が潰れたかもしれない。踊り場のタイルが、クレーターみたいにへこんだかもしれない。


 わたしが口を開けずにいると、千早は「ふーん」と言って、それ以上は訊かなかった。


 かわりに、こう言った。


「ましろってさ。いっつも、なんか我慢してるよね」


 ――ああ。


 見られている、と思った。


 友達というのは、こういうものなのか。こんなに、めくれてしまうものなのか。


「そんなこと、ないよ」


 わたしは笑った。たぶん、下手な笑いかただった。


 千早は「そ」と言って、わたしの鞄を勝手に持ち上げた。


「重っ。なにこれ、辞書入ってんの」


「入ってる」


「ましろ、まじめか」


 千早が笑う。


 わたしも笑った。今度は、少しだけうまくいった。


 その日ノートに書いた行は、二つになった。


 六月十一日、二年三組、筆箱。


 六月十一日、東階段の踊り場、一年生の膝。


 壊したものの名前を書く欄に、わたしは「膝」と書いて、それから、書き直した。


 ()()()()()、と。

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