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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
第二章 黒衣の魔女

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4 剪定バサミ

 六月二十六日。


 その日の朝練は、雨だった。


 倉庫の屋根はところどころ穴が空いていて、床に水たまりができる。わたしはその水たまりを避けながら、卵を四センチまで浮かせていた。


 あと一センチ。


「集中が切れてる」


「切れてません」


「切れてる。左の肩が上がってる」


「――なんで肩で分かるんですか」


()()()()()()()()()()()()()から」


 手のなかの卵が、ぱき、と割れた。


「……え」


「もういいわ。次」


「いま、なんて」


「次、と言ったの」


 夜鷹さんは、いつもの冷たい顔に戻っていた。


 戻るのが、少しだけ、遅かった。



 最初に気づいたのは、におい、だった。


 雨のにおいのなかに、()()()()()()()が混じった。


 そして、重さ。


 倉庫の入り口あたりに、()()()()()()()()()あった。


 六十二キロと、五十一キロ。


「――夜鷹さん」


「分かってる」


 彼女はすでに、シャッターのほうを向いていた。


 がら、と音がして、錆びた扉がひらいた。


 雨のなかから、二人が入ってきた。


 若い男と、若い女。


 どちらも作業着を着ていた。首にタオル。腰のベルトに、荷札の束。


 鳴海さんと同じだ。


 違うのは、道具だった。


 手に持っているのは、片手用の剪定バサミだった。


 小さい。庭木の枝を落とすくらいの、ごく普通の大きさの。


 ただ、刃だけが、あの黒だった。


「おはようございます」


 女のほうが、会釈をした。


 明るい声だった。挨拶だけなら、コンビニのバイトみたいだった。


「剪定会の下働きです。上から、()()()()()()()と言われてまして」


「様子だけ?」


 夜鷹さんが、つまらなさそうに言った。


「見たら帰るの?」


「いやあ」


 男のほうが、頭をかいた。


「せっかく来たんで。ちょっとだけ、()()を落として帰ろうかと」



 次の瞬間、わたしの視界から、二人が消えた。


 いや、()()


 倉庫の床を蹴って、一直線に。


 男がこっちに来た。


 夜鷹さんではなく、()()()()()()()


「――っ」


 逃げられなかった。


 腰のベルトから抜かれた荷札が、ばら、と宙に撒かれる。


 白い札が、わたしのまわりの床に落ちた。


 その一枚一枚が触れた場所から、重さの感覚が消えていく。


 ぽっかりと、丸い穴が空くみたいに。


(見えない)


(足元が、見えない)


 つんのめった。


 そこへ、黒い刃が来た。


「首から行きます。楽ですから」



 間に合ったのは、夜鷹さんだった。


 彼女は、指を一本、下に振った。


 それだけだった。


 男の体が、()()()()()()()()()


 音が、ものすごかった。


 肉と骨とコンクリートが、いっぺんに鳴った。


 男の作業着の背中が、見えない何かに踏まれて、べったりと平たくなる。


「が――ッ」


「五トン」


 夜鷹さんは、退屈そうに言った。


「あなたの背中に、いま五トン乗ってる。呼吸できないでしょう」


 男の指が、床を掻いた。


 爪が割れて、白いコンクリートに赤い筋を引いた。


「やめ、」


 わたしは叫んだ。


「やめてください、死にます、その人」


「死ぬわね」


「やめて!」


「なぜ?」


 夜鷹さんは、こちらを見もしなかった。


「この男は、今あなたの首を切ろうとした。三秒前の話よ」


「でも、」


「でも?」


「――でも、()()()()()()()()()!」



 そのとき、女のほうが動いた。


 夜鷹さんの死角。


 右から、低く。


 黒い刃が、夜鷹さんの脇腹を狙った。


 わたしは、考える前に動いた。


「――だめっ!」


 手を伸ばした。


 触れた。


 女の腕に、わたしの指が、触れてしまった。



 音は、覚えている。


 ばき、という音ではなかった。


 もっと鈍い、湿った、()()()、という音だった。


 女の左腕が、肘のあたりで、ありえない角度に折れた。


 彼女は声も出さなかった。


 出せなかったのだと思う。


 剪定バサミが床に落ちて、からん、と場違いに軽い音を立てた。


 わたしの手は、まだ宙に浮いていた。


 自分の指が、震えているのが見えた。


(また)


(また、やった)


 二年前の駅のホーム。


 同じ音。


 同じ感触。


 ()()()()()



「――ぁ」


 膝から力が抜けた。


 床に手をついて、わたしは吐いた。


 胃の中身が、油じみたコンクリートにぶちまけられる。


 喉が焼けた。


 耳の奥で、さっきの音が、何度も再生された。


 ぐしゃ。ぐしゃ。ぐしゃ。


「立ちなさい」


 頭の上から、冷たい声が降ってきた。


「立てません」


「立ちなさい」


「――立てないって言ってるでしょう!」


 わたしは顔を上げて、叫んだ。


 涙と鼻水と吐いたもので、顔じゅうがぐちゃぐちゃだった。


「わたし、人を! また、人を!」


 夜鷹さんは、床に転がった二人を、ちらりと見た。


 男は失神していた。女は腕を押さえて、うずくまって呻いていた。


「生きてるじゃない」


「そういうことじゃ!」


「じゃあ、どういうこと?」


 彼女は、しゃがんで、わたしと目の高さを合わせた。


「あなたは、私を庇ったの。庇わなければ、私が切られていた。切られていたら、次はあなたが死んでいた」


「――」


「あなたの手は、正しく動いた。()()()()()()()()()。それだけよ」


「それだけって」


「それだけ」


 言い切られた。


「腕は治るわ。三ヶ月もすれば」


「治らない」


 わたしは、首を振った。


「治らないんです。わたしが折った腕は、治らないんです」


 二年前の、あの人の顔が浮かんだ。


 いまも箸が持てない。年賀状は代筆。


 わたしが知らないところで、その人の三年が、ずっと少しずつ削られている。


「――だから、わたしは、触っちゃいけないんです」



 夜鷹さんは、しばらく黙っていた。


 雨が、屋根の穴から落ちてくる音がした。


「……あのね」


 やがて、彼女は言った。


 その声は、いつもより低かった。


「優しさっていうのはね。()()()()()()()()()()()()なのよ」


「え」


「あなたが今日、その手をきれいなままにしておきたかったら、私がこの二人を殺していた。あなたが手を汚さなければ、必ず誰かが代わりに汚す。いつもそう。()()()()()


 彼女は、わたしの震えている手を見た。


 そして、ほんの一瞬だけ、手を伸ばしかけた。


 触れる寸前で、その手は止まった。


 引っ込められた。


()()()()()()()


 彼女は言った。


「人を傷つける力と、傷つけたくない優しさ。その両方を抱えて立つの」


「捨てられないの。どっちも。私は――」


 そこで、言葉が切れた。


「私は?」


 わたしは訊いた。


「なんでもないわ」


 夜鷹さんは立ち上がった。


 夜鷹さんは、倒れている二人のほうへ歩いていった。


 女のほうが、腕を抱えたまま、後ずさった。


「ひ、」


「伝言をお願いしたいの」


 夜鷹さんは、しゃがんだ。


「上に、こう伝えて。()()()()()()()()()()()()()。摘みたければ、まず私を刈りなさい、と」


 女は、何度もうなずいた。


「それと」


 夜鷹さんは、落ちていた黒い剪定バサミを拾い上げた。


 指先で、軽くひねる。


 刃が、飴みたいにねじれて、ぐしゃりと丸まった。


「次に下働きを寄越したら、()()()()()()



 二人が這うようにして出ていったあと、倉庫には雨の音だけが残った。


 わたしは、まだ床に座り込んでいた。


「帰りなさい。学校があるでしょう」

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