4 剪定バサミ
六月二十六日。
その日の朝練は、雨だった。
倉庫の屋根はところどころ穴が空いていて、床に水たまりができる。わたしはその水たまりを避けながら、卵を四センチまで浮かせていた。
あと一センチ。
「集中が切れてる」
「切れてません」
「切れてる。左の肩が上がってる」
「――なんで肩で分かるんですか」
「私も、そこが上がる癖があったから」
手のなかの卵が、ぱき、と割れた。
「……え」
「もういいわ。次」
「いま、なんて」
「次、と言ったの」
夜鷹さんは、いつもの冷たい顔に戻っていた。
戻るのが、少しだけ、遅かった。
*
最初に気づいたのは、におい、だった。
雨のにおいのなかに、油と、金属の匂いが混じった。
そして、重さ。
倉庫の入り口あたりに、知らない重さが二つあった。
六十二キロと、五十一キロ。
「――夜鷹さん」
「分かってる」
彼女はすでに、シャッターのほうを向いていた。
がら、と音がして、錆びた扉がひらいた。
雨のなかから、二人が入ってきた。
若い男と、若い女。
どちらも作業着を着ていた。首にタオル。腰のベルトに、荷札の束。
鳴海さんと同じだ。
違うのは、道具だった。
手に持っているのは、片手用の剪定バサミだった。
小さい。庭木の枝を落とすくらいの、ごく普通の大きさの。
ただ、刃だけが、あの黒だった。
「おはようございます」
女のほうが、会釈をした。
明るい声だった。挨拶だけなら、コンビニのバイトみたいだった。
「剪定会の下働きです。上から、様子を見てこいと言われてまして」
「様子だけ?」
夜鷹さんが、つまらなさそうに言った。
「見たら帰るの?」
「いやあ」
男のほうが、頭をかいた。
「せっかく来たんで。ちょっとだけ、枝先を落として帰ろうかと」
*
次の瞬間、わたしの視界から、二人が消えた。
いや、速い。
倉庫の床を蹴って、一直線に。
男がこっちに来た。
夜鷹さんではなく、わたしのほうに。
「――っ」
逃げられなかった。
腰のベルトから抜かれた荷札が、ばら、と宙に撒かれる。
白い札が、わたしのまわりの床に落ちた。
その一枚一枚が触れた場所から、重さの感覚が消えていく。
ぽっかりと、丸い穴が空くみたいに。
(見えない)
(足元が、見えない)
つんのめった。
そこへ、黒い刃が来た。
「首から行きます。楽ですから」
*
間に合ったのは、夜鷹さんだった。
彼女は、指を一本、下に振った。
それだけだった。
男の体が、床に叩きつけられた。
音が、ものすごかった。
肉と骨とコンクリートが、いっぺんに鳴った。
男の作業着の背中が、見えない何かに踏まれて、べったりと平たくなる。
「が――ッ」
「五トン」
夜鷹さんは、退屈そうに言った。
「あなたの背中に、いま五トン乗ってる。呼吸できないでしょう」
男の指が、床を掻いた。
爪が割れて、白いコンクリートに赤い筋を引いた。
「やめ、」
わたしは叫んだ。
「やめてください、死にます、その人」
「死ぬわね」
「やめて!」
「なぜ?」
夜鷹さんは、こちらを見もしなかった。
「この男は、今あなたの首を切ろうとした。三秒前の話よ」
「でも、」
「でも?」
「――でも、死んだら終わりです!」
*
そのとき、女のほうが動いた。
夜鷹さんの死角。
右から、低く。
黒い刃が、夜鷹さんの脇腹を狙った。
わたしは、考える前に動いた。
「――だめっ!」
手を伸ばした。
触れた。
女の腕に、わたしの指が、触れてしまった。
*
音は、覚えている。
ばき、という音ではなかった。
もっと鈍い、湿った、ぐしゃ、という音だった。
女の左腕が、肘のあたりで、ありえない角度に折れた。
彼女は声も出さなかった。
出せなかったのだと思う。
剪定バサミが床に落ちて、からん、と場違いに軽い音を立てた。
わたしの手は、まだ宙に浮いていた。
自分の指が、震えているのが見えた。
(また)
(また、やった)
二年前の駅のホーム。
同じ音。
同じ感触。
同じ、わたし。
*
「――ぁ」
膝から力が抜けた。
床に手をついて、わたしは吐いた。
胃の中身が、油じみたコンクリートにぶちまけられる。
喉が焼けた。
耳の奥で、さっきの音が、何度も再生された。
ぐしゃ。ぐしゃ。ぐしゃ。
「立ちなさい」
頭の上から、冷たい声が降ってきた。
「立てません」
「立ちなさい」
「――立てないって言ってるでしょう!」
わたしは顔を上げて、叫んだ。
涙と鼻水と吐いたもので、顔じゅうがぐちゃぐちゃだった。
「わたし、人を! また、人を!」
夜鷹さんは、床に転がった二人を、ちらりと見た。
男は失神していた。女は腕を押さえて、うずくまって呻いていた。
「生きてるじゃない」
「そういうことじゃ!」
「じゃあ、どういうこと?」
彼女は、しゃがんで、わたしと目の高さを合わせた。
「あなたは、私を庇ったの。庇わなければ、私が切られていた。切られていたら、次はあなたが死んでいた」
「――」
「あなたの手は、正しく動いた。結果、腕が一本折れた。それだけよ」
「それだけって」
「それだけ」
言い切られた。
「腕は治るわ。三ヶ月もすれば」
「治らない」
わたしは、首を振った。
「治らないんです。わたしが折った腕は、治らないんです」
二年前の、あの人の顔が浮かんだ。
いまも箸が持てない。年賀状は代筆。
わたしが知らないところで、その人の三年が、ずっと少しずつ削られている。
「――だから、わたしは、触っちゃいけないんです」
*
夜鷹さんは、しばらく黙っていた。
雨が、屋根の穴から落ちてくる音がした。
「……あのね」
やがて、彼女は言った。
その声は、いつもより低かった。
「優しさっていうのはね。誰かに肩代わりさせるものなのよ」
「え」
「あなたが今日、その手をきれいなままにしておきたかったら、私がこの二人を殺していた。あなたが手を汚さなければ、必ず誰かが代わりに汚す。いつもそう。例外はない」
彼女は、わたしの震えている手を見た。
そして、ほんの一瞬だけ、手を伸ばしかけた。
触れる寸前で、その手は止まった。
引っ込められた。
「受け入れなさい」
彼女は言った。
「人を傷つける力と、傷つけたくない優しさ。その両方を抱えて立つの」
「捨てられないの。どっちも。私は――」
そこで、言葉が切れた。
「私は?」
わたしは訊いた。
「なんでもないわ」
夜鷹さんは立ち上がった。
夜鷹さんは、倒れている二人のほうへ歩いていった。
女のほうが、腕を抱えたまま、後ずさった。
「ひ、」
「伝言をお願いしたいの」
夜鷹さんは、しゃがんだ。
「上に、こう伝えて。その株には、値がついていない。摘みたければ、まず私を刈りなさい、と」
女は、何度もうなずいた。
「それと」
夜鷹さんは、落ちていた黒い剪定バサミを拾い上げた。
指先で、軽くひねる。
刃が、飴みたいにねじれて、ぐしゃりと丸まった。
「次に下働きを寄越したら、送り返さない」
*
二人が這うようにして出ていったあと、倉庫には雨の音だけが残った。
わたしは、まだ床に座り込んでいた。
「帰りなさい。学校があるでしょう」




