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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
第二章 黒衣の魔女

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5 白い背中

 その日、わたしは学校を休んだ。


 初めてだった。三年間、皆勤だったのに。


 昼過ぎまで布団のなかにいて、それから、引き出しからノートを出した。


 三冊目。


 ペンを持った。


 日付。六月二十六日。


 場所。運河沿いの倉庫。


 壊したもの。


 ――()、と書きかけて、手が止まった。


 違う。


 そうじゃない。


 わたしは、その二文字を線で消した。


 そして、その下に書こうとして、気づいた。


 ()()()()()()()()()()()


 聞いていなかった。


 わたしが腕を折った人の名前を、わたしは一つも知らない。


 二年前の駅の人の名前も、知らない。


 わたしは三年間、ノートに「筆箱」「コップ」「洗濯機」と書いてきた。


 物の名前は、全部書いてきた。


 なのに、人の名前を、一度も書いたことがなかった。


 ノートを閉じた。


 その日、その行は、空白のままになった。



 三時に起きて、また倉庫へ行った。


 行かない、という選択肢は、なぜか浮かばなかった。


 倉庫に着いたら、床はきれいになっていた。


 わたしが吐いたものも、血の筋も、剪定バサミも、荷札も、全部消えていた。


 夜鷹さんが、片付けたのだ。


 一人で。


「遅い」


「……はい」


「卵、持ってきたわよ」



 その夕方の彼女は、明らかにおかしかった。


 動きが鈍かった。


 言葉も少なかった。


 そして、二回、咳をした。


 わたしが夜鷹さんの咳を聞いたのは、それが初めてだった。


「夜鷹さん」


「なに」


「顔色が」


「うるさい」


「でも」


「うるさい、と言ったの」


 彼女はシャッターのほうへ歩いていった。


 そして、三歩目で、ぐらりと傾いだ。


「――夜鷹さん!」


 わたしは駆け寄った。


 そして、見た。



 ()()()()()()()()()()


 長い黒髪が、水のなかにあるみたいに、ゆっくりと広がっていた。


 コートの裾も。袖口も。


 重力が、彼女を忘れていた。


「あ、ぁ」


 夜鷹さんは、あわてて柱にしがみついた。


 指が白くなるほど強く。


 そうしていないと、()()()()()()から。


「見るな」


「なに、これ」


「見るなと言っている」


「夜鷹さん、体が――」


()()()!()


 倉庫の空気が、びりっと震えた。


 積んであった鉄骨の山が、がしゃん、と崩れた。


 わたしは、それでも動かなかった。


 動けなかった、が正しい。


 彼女はやがて、ゆっくりと床に足をつけた。


 髪が、重さを取り戻して、肩に落ちた。


 肩で息をしていた。


 コートが、雨でもないのに、べったりと汗で背中に貼りついていた。


 そのとき。


 貼りついた薄い布ごしに、それが、透けて見えた。



 白い背中だった。


 骨が浮いていた。


 その真ん中に、()()()()()()が、縦に、一本。


 うなじの下から、腰のあたりまで。


 古い傷だった。


 盛り上がって、白く引きつれて、けれど、まっすぐだった。


 事故でできる傷ではない。


 刃物で、()()()()()()()傷だった。


 ――そして、閉じられた傷だった。



 わたしの喉から、ひゅっ、と息が漏れた。


 知っている。


 ()()()()()()()()()()()()()()


 三年間、何十回も見た。


 白い部屋。窓のない部屋。


 誰かの背中。


 まっすぐな赤い線。


 そして、じょき、という音。


「……夢で」


 わたしは、口が勝手に動くのを感じていた。


「夢で、見たことがあります」


 夜鷹さんの背中が、凍りついた。


「白い部屋です。窓がなくて、壁も床も天井も白くて。そこに、誰かの背中があって。まっすぐな、赤い線が」


「やめて」


「鋏の音がするんです。じょき、って」


()()()()()


「あの背中は、あなたですか」


 夜鷹さんは、振り返らなかった。


 けれど、その肩が、はっきりと震えていた。


「なぜ」


 彼女の声は、聞いたことのない声だった。


「なぜ、()()()()()()()()()()()()()


「……え」


「あなたが、それを覚えているはずが、ない」


「どういう」


「ないのよ」


 彼女は、自分に言い聞かせるように、もう一度言った。


「あるはずが、ない」

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