5 白い背中
その日、わたしは学校を休んだ。
初めてだった。三年間、皆勤だったのに。
昼過ぎまで布団のなかにいて、それから、引き出しからノートを出した。
三冊目。
ペンを持った。
日付。六月二十六日。
場所。運河沿いの倉庫。
壊したもの。
――腕、と書きかけて、手が止まった。
違う。
そうじゃない。
わたしは、その二文字を線で消した。
そして、その下に書こうとして、気づいた。
あの人の名前を、知らない。
聞いていなかった。
わたしが腕を折った人の名前を、わたしは一つも知らない。
二年前の駅の人の名前も、知らない。
わたしは三年間、ノートに「筆箱」「コップ」「洗濯機」と書いてきた。
物の名前は、全部書いてきた。
なのに、人の名前を、一度も書いたことがなかった。
ノートを閉じた。
その日、その行は、空白のままになった。
*
三時に起きて、また倉庫へ行った。
行かない、という選択肢は、なぜか浮かばなかった。
倉庫に着いたら、床はきれいになっていた。
わたしが吐いたものも、血の筋も、剪定バサミも、荷札も、全部消えていた。
夜鷹さんが、片付けたのだ。
一人で。
「遅い」
「……はい」
「卵、持ってきたわよ」
*
その夕方の彼女は、明らかにおかしかった。
動きが鈍かった。
言葉も少なかった。
そして、二回、咳をした。
わたしが夜鷹さんの咳を聞いたのは、それが初めてだった。
「夜鷹さん」
「なに」
「顔色が」
「うるさい」
「でも」
「うるさい、と言ったの」
彼女はシャッターのほうへ歩いていった。
そして、三歩目で、ぐらりと傾いだ。
「――夜鷹さん!」
わたしは駆け寄った。
そして、見た。
*
彼女の髪が、浮いていた。
長い黒髪が、水のなかにあるみたいに、ゆっくりと広がっていた。
コートの裾も。袖口も。
重力が、彼女を忘れていた。
「あ、ぁ」
夜鷹さんは、あわてて柱にしがみついた。
指が白くなるほど強く。
そうしていないと、浮いてしまうから。
「見るな」
「なに、これ」
「見るなと言っている」
「夜鷹さん、体が――」
「見るな!」
倉庫の空気が、びりっと震えた。
積んであった鉄骨の山が、がしゃん、と崩れた。
わたしは、それでも動かなかった。
動けなかった、が正しい。
彼女はやがて、ゆっくりと床に足をつけた。
髪が、重さを取り戻して、肩に落ちた。
肩で息をしていた。
コートが、雨でもないのに、べったりと汗で背中に貼りついていた。
そのとき。
貼りついた薄い布ごしに、それが、透けて見えた。
*
白い背中だった。
骨が浮いていた。
その真ん中に、まっすぐな線が、縦に、一本。
うなじの下から、腰のあたりまで。
古い傷だった。
盛り上がって、白く引きつれて、けれど、まっすぐだった。
事故でできる傷ではない。
刃物で、丁寧に、開かれた傷だった。
――そして、閉じられた傷だった。
*
わたしの喉から、ひゅっ、と息が漏れた。
知っている。
わたしは、この背中を知っている。
三年間、何十回も見た。
白い部屋。窓のない部屋。
誰かの背中。
まっすぐな赤い線。
そして、じょき、という音。
「……夢で」
わたしは、口が勝手に動くのを感じていた。
「夢で、見たことがあります」
夜鷹さんの背中が、凍りついた。
「白い部屋です。窓がなくて、壁も床も天井も白くて。そこに、誰かの背中があって。まっすぐな、赤い線が」
「やめて」
「鋏の音がするんです。じょき、って」
「やめなさい」
「あの背中は、あなたですか」
夜鷹さんは、振り返らなかった。
けれど、その肩が、はっきりと震えていた。
「なぜ」
彼女の声は、聞いたことのない声だった。
「なぜ、あなたがそれを覚えているの」
「……え」
「あなたが、それを覚えているはずが、ない」
「どういう」
「ないのよ」
彼女は、自分に言い聞かせるように、もう一度言った。
「あるはずが、ない」




