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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
第二章 黒衣の魔女

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12/50

6 一度も

 夜鷹さんの部屋は、駅から歩いて十五分の、古いマンションの最上階だった。


 七階建ての、七階。


 エレベーターはあったけれど、動いていなかった。


「歩きなさい。いい訓練になる」


 そう言われて、わたしは階段を上った。


 倉庫からここまで、彼女は一言も喋らなかった。



 部屋を見て、わたしは言葉を失った。


 ()()()()()()


 2DKくらいの間取りだった。


 けれど、家具が、ほとんど何もない。


 テーブルがない。テレビがない。ベッドがない。本棚がない。


 台所には、コップが一つと、やかんが一つ。


 リビングの真ん中に、木の椅子が一脚。


 窓際に、古い電気スタンドが一つ。


 それだけだった。


 カーテンすらなかった。


 窓の外には、東京の夜が広がっていた。


 赤と白の光が、地平線まで続いていた。


「……ここに、住んでるんですか」


「寝てるだけよ」


「どこで」


「床で」


 わたしは、フローリングを見た。


 部屋の隅に、薄い毛布が一枚、畳んで置いてあった。


 それだけだった。


「なんで、こんな」


「物は、重いから」


 夜鷹さんは、椅子に腰を下ろした。


 いつもより、深く、体を預けるようにして。


「持っていると、疲れる」



 彼女は、やかんで湯を沸かして、コップに注いだ。


 コップは一つしかなかったから、それはわたしに渡された。


 白湯だった。


 お茶っ葉もなかったのだ、たぶん。


「座りなさい」


「椅子が」


「床でいいでしょう」


 わたしは、窓際に座った。


 コップは、あたたかかった。


 百八十グラム。



「その持ちかたはやめなさい」


 いきなり、彼女が言った。


「え」


「親指。縁にかけない。熱いでしょう」


 わたしは、自分の手を見た。


 たしかに、親指がコップの縁にかかっていた。子どものころ――と言っても三年前からの記憶しかないけれど――ずっとこの持ちかたをしている。佐伯さんにも何度か注意された。


「なんで知ってるんですか」


 夜鷹さんの動きが、止まった。


「……何が」


「わたしが、この持ちかたをするって」


「見れば分かるでしょう。今、目の前でやってるんだから」


 理屈は通っていた。


 通っていたけれど、彼女の声は、明らかに早口になっていた。



「ねえ、夜鷹さん」


「なに」


「重さは、分けられないって言いましたよね」


「言ったわ」


「分けたつもりでも、最後は誰か一人が持つことになるって」


「そう」


 わたしは、コップの湯気を見ていた。


「あの高架、元に戻しましたよね。桁も、橋脚も」


「……」


「あれ、何トンですか」


 夜鷹さんは、答えなかった。


()()()()()()()()()()()


「――」


「誰にも渡さないで。地面にも、空気にも、わたしにも。全部、あなたが」


 わたしは顔を上げた。


 椅子の上の彼女は、逆光になっていた。


 窓の外の東京の光が、その輪郭を、細く、頼りなく縁取っていた。


 ()()()()()()


 初めて会った夜も細いと思ったけれど、それは美しさの話だった。


 いま思ったのは、違う。


 ()()()()()()()()()


「だから、体が」


「黙りなさい」


「だから、浮くんですね。重さがなくなって」


「黙れと言っている」


()()()()()()()()()


 部屋が、しんと静まった。


 夜鷹さんは、答えなかった。


 その沈黙が、答えだった。



 わたしは、立ち上がった。


 膝が震えていた。


 けれど、訊かなければいけないことがあった。


 十日間、ずっと喉につかえていたことだった。


「わたしたち、会ったことがありますか」


 夜鷹さんは、わたしを見た。


 黒い目が、わたしを映していた。


 そして、ひどく静かに、彼女は言った。


「いいえ」


「――」


「一度も」


 彼女は、一語ずつ区切るようにして、繰り返した。


()()()()()()()()()()()()()()()



 嘘だ、とわたしは思った。


 そう思ったのに、口には出せなかった。


 なぜなら、彼女の目が、まったく揺れていなかったからだ。


 嘘をつく人の目ではなかった。


 事実を述べる人の目だった。


 そのくせ、その事実は、この人自身を内側から()()()()()ようだった。


「……分かりました」


 わたしは、コップを台所に置いた。


 洗おうとしたら、「置いていきなさい」と言われた。


 玄関で靴を履いているとき、ふと、窓際が目に入った。


 電気スタンドの横。


 小さな赤いものが、一つ、置いてあった。


 ()()()()()()()()()だった。


 包み紙のまま。


 食べずに、そこに置いてあった。


 わたしは、何も言わずに、部屋を出た。



 階段を下りながら、わたしは考えていた。


 あの人は、嘘をついていない。


 でも、本当のことも言っていない。


 一度も会っていない。


 でも、わたしの癖を知っている。


 わたしの三つのルールを知っている。


 わたしの子守唄を知っている。


 わたしが夢に見る背中を、背負っている。


 ――()()()()()()()()が、この世にあるのだろうか。


 三階まで下りたところで、足が止まった。


 ある。


 一つだけ、ある。


 思いついた瞬間、全身の産毛が逆立った。


 それはあまりにばかげていて、あまりに気持ちが悪くて、わたしはすぐに、その考えを頭から追い出した。


 追い出したのに、心臓は、鳴りやまなかった。



 外に出ると、雨は上がっていた。


 雲の切れ目から、月が出ていた。


 わたしはマンションを振り返って、七階を見上げた。


 明かりが、一つだけ点いていた。


 あの、頼りない電気スタンドの明かりだ。


 その窓に、影が映っていた。


 椅子に座ったまま、動かない影。


 わたしはしばらく、それを見上げていた。


 そして、歩き出した。


 ――このとき、わたしは一つだけ、間違えていた。


『一度も会っていない』という言葉を、嘘だと思ったことだ。


 あれは、嘘ではなかった。


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()


 それを知るのは、二週間後。


 首都高湾岸線の、雨のなかでのことになる。

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