6 一度も
夜鷹さんの部屋は、駅から歩いて十五分の、古いマンションの最上階だった。
七階建ての、七階。
エレベーターはあったけれど、動いていなかった。
「歩きなさい。いい訓練になる」
そう言われて、わたしは階段を上った。
倉庫からここまで、彼女は一言も喋らなかった。
*
部屋を見て、わたしは言葉を失った。
何もなかった。
2DKくらいの間取りだった。
けれど、家具が、ほとんど何もない。
テーブルがない。テレビがない。ベッドがない。本棚がない。
台所には、コップが一つと、やかんが一つ。
リビングの真ん中に、木の椅子が一脚。
窓際に、古い電気スタンドが一つ。
それだけだった。
カーテンすらなかった。
窓の外には、東京の夜が広がっていた。
赤と白の光が、地平線まで続いていた。
「……ここに、住んでるんですか」
「寝てるだけよ」
「どこで」
「床で」
わたしは、フローリングを見た。
部屋の隅に、薄い毛布が一枚、畳んで置いてあった。
それだけだった。
「なんで、こんな」
「物は、重いから」
夜鷹さんは、椅子に腰を下ろした。
いつもより、深く、体を預けるようにして。
「持っていると、疲れる」
*
彼女は、やかんで湯を沸かして、コップに注いだ。
コップは一つしかなかったから、それはわたしに渡された。
白湯だった。
お茶っ葉もなかったのだ、たぶん。
「座りなさい」
「椅子が」
「床でいいでしょう」
わたしは、窓際に座った。
コップは、あたたかかった。
百八十グラム。
*
「その持ちかたはやめなさい」
いきなり、彼女が言った。
「え」
「親指。縁にかけない。熱いでしょう」
わたしは、自分の手を見た。
たしかに、親指がコップの縁にかかっていた。子どものころ――と言っても三年前からの記憶しかないけれど――ずっとこの持ちかたをしている。佐伯さんにも何度か注意された。
「なんで知ってるんですか」
夜鷹さんの動きが、止まった。
「……何が」
「わたしが、この持ちかたをするって」
「見れば分かるでしょう。今、目の前でやってるんだから」
理屈は通っていた。
通っていたけれど、彼女の声は、明らかに早口になっていた。
*
「ねえ、夜鷹さん」
「なに」
「重さは、分けられないって言いましたよね」
「言ったわ」
「分けたつもりでも、最後は誰か一人が持つことになるって」
「そう」
わたしは、コップの湯気を見ていた。
「あの高架、元に戻しましたよね。桁も、橋脚も」
「……」
「あれ、何トンですか」
夜鷹さんは、答えなかった。
「あなたが、持ったんですね」
「――」
「誰にも渡さないで。地面にも、空気にも、わたしにも。全部、あなたが」
わたしは顔を上げた。
椅子の上の彼女は、逆光になっていた。
窓の外の東京の光が、その輪郭を、細く、頼りなく縁取っていた。
細い、と思った。
初めて会った夜も細いと思ったけれど、それは美しさの話だった。
いま思ったのは、違う。
この人は、減っている。
「だから、体が」
「黙りなさい」
「だから、浮くんですね。重さがなくなって」
「黙れと言っている」
「わたしのせいですか」
部屋が、しんと静まった。
夜鷹さんは、答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
*
わたしは、立ち上がった。
膝が震えていた。
けれど、訊かなければいけないことがあった。
十日間、ずっと喉につかえていたことだった。
「わたしたち、会ったことがありますか」
夜鷹さんは、わたしを見た。
黒い目が、わたしを映していた。
そして、ひどく静かに、彼女は言った。
「いいえ」
「――」
「一度も」
彼女は、一語ずつ区切るようにして、繰り返した。
「一度も、私はあなたに会っていない」
*
嘘だ、とわたしは思った。
そう思ったのに、口には出せなかった。
なぜなら、彼女の目が、まったく揺れていなかったからだ。
嘘をつく人の目ではなかった。
事実を述べる人の目だった。
そのくせ、その事実は、この人自身を内側から噛んでいるようだった。
「……分かりました」
わたしは、コップを台所に置いた。
洗おうとしたら、「置いていきなさい」と言われた。
玄関で靴を履いているとき、ふと、窓際が目に入った。
電気スタンドの横。
小さな赤いものが、一つ、置いてあった。
いちごのキャンディだった。
包み紙のまま。
食べずに、そこに置いてあった。
わたしは、何も言わずに、部屋を出た。
*
階段を下りながら、わたしは考えていた。
あの人は、嘘をついていない。
でも、本当のことも言っていない。
一度も会っていない。
でも、わたしの癖を知っている。
わたしの三つのルールを知っている。
わたしの子守唄を知っている。
わたしが夢に見る背中を、背負っている。
――会わずに、知る方法が、この世にあるのだろうか。
三階まで下りたところで、足が止まった。
ある。
一つだけ、ある。
思いついた瞬間、全身の産毛が逆立った。
それはあまりにばかげていて、あまりに気持ちが悪くて、わたしはすぐに、その考えを頭から追い出した。
追い出したのに、心臓は、鳴りやまなかった。
*
外に出ると、雨は上がっていた。
雲の切れ目から、月が出ていた。
わたしはマンションを振り返って、七階を見上げた。
明かりが、一つだけ点いていた。
あの、頼りない電気スタンドの明かりだ。
その窓に、影が映っていた。
椅子に座ったまま、動かない影。
わたしはしばらく、それを見上げていた。
そして、歩き出した。
――このとき、わたしは一つだけ、間違えていた。
『一度も会っていない』という言葉を、嘘だと思ったことだ。
あれは、嘘ではなかった。
あの人は、正確に、事実だけを言っていた。
それを知るのは、二週間後。
首都高湾岸線の、雨のなかでのことになる。




