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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
第三章 切り出されたもの

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13/50

1 生まれた場所

 七月十日。


 期末テストの最終日で、答案を出した瞬間に、教室じゅうが解き放たれたみたいに騒がしくなった。


「ましろー、生きてる?」


 千早が、机に突っ伏したわたしの背中をばしばし叩いた。


「生きてない」


「古文どうだった」


「……助動詞は、たぶん」


「たぶん?」


「たぶん」


 千早は「まあ、ましろがたぶんって言うときは八十点だから」と言って、笑った。


 この二週間、わたしは一度も学校を休まなかった。


 朝五時から七時まで倉庫で訓練して、それから登校して、夕方また倉庫へ行く。


 慣れるものだな、と思う。人間は、たいていのことに慣れる。


 慣れないのは、夜鷹さんの顔色だけだった。



「あのさ」


 帰り道、土手の上で、千早が立ち止まった。


 通学路の、桜並木の下だ。


 七月の桜は花なんてひとつもなくて、ただ緑がもさもさしているだけだった。蝉が鳴きはじめていた。


「八月の頭に、花火あるじゃん。河川敷の」


「うん」


「行こうよ」


 わたしは、少し黙った。


「……行けるか、分からない」


「じゃあ聞きかた変える」


 千早はこちらを向いて、まっすぐにわたしを指さした。


()()()()?」


 不意打ちだった。


 行けるか、ではなく、行きたいか。


 この子は、たまにこういう、ずるい訊きかたをする。


「……行きたい」


「はい決まり」


「決まってない」


「決まったの」


 千早は、勝手にスマホを出して、なにか打ちはじめた。


 わたしのポケットで、ぶ、と震えた。


『八月二日 午後六時 土手の上 ぜったい』


「ぜったいって」


「ぜったい」


 千早は蝉の声に負けない大きさで言った。


「ましろ、最近さ、遠くなるから」


 心臓が、ひやりとした。


「遠くなってない」


「なってる」


 千早は笑っていた。


 笑っていたけれど、目は笑っていなかった。


「だから、約束しとくの。約束しとけば、戻ってこなきゃいけないでしょ」



 この二週間で、卵は五センチ浮くようになった。


 十センチも、二十センチも浮いた。


 割らずに、天井まで届かせることもできた。


「次」


 夜鷹さんは、倉庫の床に、コップを二つ並べた。


 片方に、水を入れる。


「右のコップの重さを、左に渡しなさい」


「渡す?」


「動かすんじゃない。()()の」


 わたしは、二つのコップを見た。


 右、三百二十グラム。


 左、百八十グラム。


「右を軽くして、左を重くするんですか」


「そう。ただし、()()()()()()()()()()()


「……なんで」


「変えたら、余りが出るからよ」


 夜鷹さんは、腕を組んだ。


「余った重さは、行き場を失う。行き場を失った重さは、いちばん近いものに落ちる。()()()()()()()


 わたしは、生唾を飲んだ。



 四日かかった。


 五日目に、できた。


 右のコップが、空の紙コップみたいに軽くなって。


 左のコップが、その分だけ、みしりと机を軋ませた。


 合計、五百グラム。


 一グラムも、余らなかった。


「――()()()()よ」


 夜鷹さんは言った。


「これができるようになれば、あなたはもう、うっかり誰かを潰さない。重さには、いつも()()()()()が要る。それを決めるのが、あなたの仕事」


「受け取り手が、いなかったら」


「いないことはないわ」


 彼女は、床を指した。


「地面がある。地面は、たいていのものを受け取ってくれる」


「地面が受け取れないくらい、重かったら」


 夜鷹さんは、少しだけ黙った。


「そのときは」


 そして、言った。


()()()()()



 その日、夜鷹さんは、一度も手本を見せなかった。


 見せられなかったのだ。


 わたしは気づいていた。


 コップに手を伸ばしたとき、彼女の指が、コップの縁をすり抜けたことに。


 ほんの一瞬。


 まばたきくらいの時間だった。


 彼女はすぐに手を引いて、なんでもない顔で「やってごらんなさい」と言った。


 わたしも、なんでもない顔で、うなずいた。


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()



 その夜、雨が降った。


 七時に若葉園の前まで行くと、坂の下に、見慣れない車が停まっていた。


 黒い、古いセダンだった。


 運転席の窓が下りて、夜鷹さんが顔を出した。


「乗りなさい」


「……車、持ってたんですか」


「借り物よ」


「誰から」


「乗りなさい」


 助手席のドアを開けると、車内はひどく無機質だった。


 芳香剤も、ぬいぐるみも、ゴミも、なにもない。


 ただ、床に、鉄くずが散らばっていた。


 倉庫に積んであった、ボルトや鉄片や、名前の分からない金属の塊。


 助手席の足元にも、後部座席にも。


「なんですか、これ」


「錘よ」


 夜鷹さんはハンドルを握ったまま、前を見ていた。


「浮くから」


 わたしは、その横顔を見た。


 この二週間で、この人は、目に見えて軽くなっていた。


 コートの裾が、風もないのに、ときどき揺れる。


 歩くとき、ときどき、一歩が長くなる。


 階段を下りるとき、手すりを掴む癖がついた。


 そして今日は、コートのポケットが、両方ともぱんぱんに膨らんでいた。


 ()()()()


「夜鷹さん」


「なに」


「病院に」


「行ってどうするの」


 彼女は、かすかに笑った。


「レントゲンに何が映ると思う? 骨も内臓も、なんの問題もないわよ」


「でも」


「私は()()()()()()の」


 車が、走り出した。


「私は、()()()()だけ」



「どこに行くんですか」


「湾岸」


「湾岸のどこ」


 雨がフロントガラスを叩いていた。


 ワイパーが、単調に、左右に動いていた。


 夜鷹さんは、しばらく答えなかった。


 赤信号で止まって、それから、言った。


「あなたが()()()()()()


 わたしは、彼女の横顔を見た。


「……見つかった場所、じゃなくて?」


「――」


「いま、生まれたって言いました」


 信号が青になった。


 夜鷹さんは、アクセルを踏んだ。


「今夜、全部話すわ」


 雨のなかで、その声は、妙に平坦だった。


「あなたが何なのか。私が誰なのか。三年前に何があったのか。()()


「なんで、今日なんですか」


「時間がないから」


 さらりと言われた。


 あまりにさらりと言われたので、わたしはうまく反応できなかった。


「――誰の」


「私の」


 彼女は前を向いたまま、続けた。


「たぶん、あとひと月。もつかどうか」



 信号待ちのあいだ、わたしは、彼女のコートのポケットを見ていた。


 鉄くずで、ぱんぱんに膨らんだポケット。


 その口から、赤いものが、ちらりと覗いていた。


 いちごのキャンディだった。


 包み紙のまま。


「……まだ持ってるんですね」


「なにを」


「ひなたの、それ」


 夜鷹さんは、前を向いたまま、ポケットを押し込んだ。


「錘よ」


「三グラムもないですよ、それ」


「……」


「錘には、なりません」


 信号が青になった。


 彼女は、しばらく何も言わなかった。


 それから、ぽつりと言った。


()()()()()()()()()()()



 湾岸線に乗るまで、わたしたちは一言も喋らなかった。


 ETCのバーが上がって、車が高速に入った。


 雨の夜の首都高は、赤いテールランプの列が、川みたいに流れていた。


 その向こうに、東京湾があった。


 黒い水面に、対岸の工場の明かりが、ぐにゃぐにゃに揺れて映っていた。


「夜鷹さん」


「なに」


「怒らないで聞いてくれますか」


「内容による」


「……夜鷹さんのこと、わたし、たぶん、嫌いじゃないです」


 ハンドルを握る手が、ほんの少しだけ動いた。


「二週間、毎日会って、毎日怒鳴られて。卵を六十個くらい割って。()()()()()()()()()()()()()()()


「褒めるようなことをしないからでしょう」


「でも、あなたは、わたしを殺さなかった」


 わたしは、膝の上で手を組んだ。


「鳴海さんは、わたしを刈るって言いました。株だって。あなたも最初、それは私のものだって言った。持ち物みたいに」


「……」


「でも、持ち物には、走りなさいとか、怒りなさいとか、言わないでしょう」


 雨の音だけが、しばらく車内を満たした。


 夜鷹さんは、答えなかった。


 かわりに、こう言った。


「――真白」


 わたしは、息を止めた。


 ()()()()()()


 この人がわたしの名前を呼んだのは、その夜が、初めてだった。


「はい」


「あとで、私を殴りたくなったら、殴っていいわ」


「……なんですか、それ」


「本気で言っているの」


 そのとき。


 バックミラーが、白く光った。



「――伏せなさい」


 夜鷹さんの声が、変わった。


 後ろから、ヘッドライトが迫ってきていた。


 一台ではなかった。


 二台、三台、四台。


 黒いワンボックスの列が、左右の車線をふさぎながら、こちらへ寄せてくる。


 雨のなかで、そのフロントガラスの向こうに、作業帽が見えた。


 首に巻いたタオルが見えた。


 ()()()()が見えた。


「剪定会」


 わたしの喉が、勝手にその名前を吐き出した。


「シートベルト、締めてる?」


「締めてます」


「よろしい」


 夜鷹さんは、ギアを落とした。


()()()()()()()

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