1 生まれた場所
七月十日。
期末テストの最終日で、答案を出した瞬間に、教室じゅうが解き放たれたみたいに騒がしくなった。
「ましろー、生きてる?」
千早が、机に突っ伏したわたしの背中をばしばし叩いた。
「生きてない」
「古文どうだった」
「……助動詞は、たぶん」
「たぶん?」
「たぶん」
千早は「まあ、ましろがたぶんって言うときは八十点だから」と言って、笑った。
この二週間、わたしは一度も学校を休まなかった。
朝五時から七時まで倉庫で訓練して、それから登校して、夕方また倉庫へ行く。
慣れるものだな、と思う。人間は、たいていのことに慣れる。
慣れないのは、夜鷹さんの顔色だけだった。
*
「あのさ」
帰り道、土手の上で、千早が立ち止まった。
通学路の、桜並木の下だ。
七月の桜は花なんてひとつもなくて、ただ緑がもさもさしているだけだった。蝉が鳴きはじめていた。
「八月の頭に、花火あるじゃん。河川敷の」
「うん」
「行こうよ」
わたしは、少し黙った。
「……行けるか、分からない」
「じゃあ聞きかた変える」
千早はこちらを向いて、まっすぐにわたしを指さした。
「行きたい?」
不意打ちだった。
行けるか、ではなく、行きたいか。
この子は、たまにこういう、ずるい訊きかたをする。
「……行きたい」
「はい決まり」
「決まってない」
「決まったの」
千早は、勝手にスマホを出して、なにか打ちはじめた。
わたしのポケットで、ぶ、と震えた。
『八月二日 午後六時 土手の上 ぜったい』
「ぜったいって」
「ぜったい」
千早は蝉の声に負けない大きさで言った。
「ましろ、最近さ、遠くなるから」
心臓が、ひやりとした。
「遠くなってない」
「なってる」
千早は笑っていた。
笑っていたけれど、目は笑っていなかった。
「だから、約束しとくの。約束しとけば、戻ってこなきゃいけないでしょ」
*
この二週間で、卵は五センチ浮くようになった。
十センチも、二十センチも浮いた。
割らずに、天井まで届かせることもできた。
「次」
夜鷹さんは、倉庫の床に、コップを二つ並べた。
片方に、水を入れる。
「右のコップの重さを、左に渡しなさい」
「渡す?」
「動かすんじゃない。移すの」
わたしは、二つのコップを見た。
右、三百二十グラム。
左、百八十グラム。
「右を軽くして、左を重くするんですか」
「そう。ただし、合計は変えてはいけない」
「……なんで」
「変えたら、余りが出るからよ」
夜鷹さんは、腕を組んだ。
「余った重さは、行き場を失う。行き場を失った重さは、いちばん近いものに落ちる。あなたか、私か、床」
わたしは、生唾を飲んだ。
*
四日かかった。
五日目に、できた。
右のコップが、空の紙コップみたいに軽くなって。
左のコップが、その分だけ、みしりと机を軋ませた。
合計、五百グラム。
一グラムも、余らなかった。
「――受け渡しよ」
夜鷹さんは言った。
「これができるようになれば、あなたはもう、うっかり誰かを潰さない。重さには、いつも受け取り手が要る。それを決めるのが、あなたの仕事」
「受け取り手が、いなかったら」
「いないことはないわ」
彼女は、床を指した。
「地面がある。地面は、たいていのものを受け取ってくれる」
「地面が受け取れないくらい、重かったら」
夜鷹さんは、少しだけ黙った。
「そのときは」
そして、言った。
「諦めなさい」
*
その日、夜鷹さんは、一度も手本を見せなかった。
見せられなかったのだ。
わたしは気づいていた。
コップに手を伸ばしたとき、彼女の指が、コップの縁をすり抜けたことに。
ほんの一瞬。
まばたきくらいの時間だった。
彼女はすぐに手を引いて、なんでもない顔で「やってごらんなさい」と言った。
わたしも、なんでもない顔で、うなずいた。
二人とも、気づいていないふりが上手になっていた。
*
その夜、雨が降った。
七時に若葉園の前まで行くと、坂の下に、見慣れない車が停まっていた。
黒い、古いセダンだった。
運転席の窓が下りて、夜鷹さんが顔を出した。
「乗りなさい」
「……車、持ってたんですか」
「借り物よ」
「誰から」
「乗りなさい」
助手席のドアを開けると、車内はひどく無機質だった。
芳香剤も、ぬいぐるみも、ゴミも、なにもない。
ただ、床に、鉄くずが散らばっていた。
倉庫に積んであった、ボルトや鉄片や、名前の分からない金属の塊。
助手席の足元にも、後部座席にも。
「なんですか、これ」
「錘よ」
夜鷹さんはハンドルを握ったまま、前を見ていた。
「浮くから」
わたしは、その横顔を見た。
この二週間で、この人は、目に見えて軽くなっていた。
コートの裾が、風もないのに、ときどき揺れる。
歩くとき、ときどき、一歩が長くなる。
階段を下りるとき、手すりを掴む癖がついた。
そして今日は、コートのポケットが、両方ともぱんぱんに膨らんでいた。
鉄くずで。
「夜鷹さん」
「なに」
「病院に」
「行ってどうするの」
彼女は、かすかに笑った。
「レントゲンに何が映ると思う? 骨も内臓も、なんの問題もないわよ」
「でも」
「私は病気じゃないの」
車が、走り出した。
「私は、足りないだけ」
*
「どこに行くんですか」
「湾岸」
「湾岸のどこ」
雨がフロントガラスを叩いていた。
ワイパーが、単調に、左右に動いていた。
夜鷹さんは、しばらく答えなかった。
赤信号で止まって、それから、言った。
「あなたが生まれた場所」
わたしは、彼女の横顔を見た。
「……見つかった場所、じゃなくて?」
「――」
「いま、生まれたって言いました」
信号が青になった。
夜鷹さんは、アクセルを踏んだ。
「今夜、全部話すわ」
雨のなかで、その声は、妙に平坦だった。
「あなたが何なのか。私が誰なのか。三年前に何があったのか。全部」
「なんで、今日なんですか」
「時間がないから」
さらりと言われた。
あまりにさらりと言われたので、わたしはうまく反応できなかった。
「――誰の」
「私の」
彼女は前を向いたまま、続けた。
「たぶん、あとひと月。もつかどうか」
*
信号待ちのあいだ、わたしは、彼女のコートのポケットを見ていた。
鉄くずで、ぱんぱんに膨らんだポケット。
その口から、赤いものが、ちらりと覗いていた。
いちごのキャンディだった。
包み紙のまま。
「……まだ持ってるんですね」
「なにを」
「ひなたの、それ」
夜鷹さんは、前を向いたまま、ポケットを押し込んだ。
「錘よ」
「三グラムもないですよ、それ」
「……」
「錘には、なりません」
信号が青になった。
彼女は、しばらく何も言わなかった。
それから、ぽつりと言った。
「捨てかたが、分からないの」
*
湾岸線に乗るまで、わたしたちは一言も喋らなかった。
ETCのバーが上がって、車が高速に入った。
雨の夜の首都高は、赤いテールランプの列が、川みたいに流れていた。
その向こうに、東京湾があった。
黒い水面に、対岸の工場の明かりが、ぐにゃぐにゃに揺れて映っていた。
「夜鷹さん」
「なに」
「怒らないで聞いてくれますか」
「内容による」
「……夜鷹さんのこと、わたし、たぶん、嫌いじゃないです」
ハンドルを握る手が、ほんの少しだけ動いた。
「二週間、毎日会って、毎日怒鳴られて。卵を六十個くらい割って。一度も、褒められてないんですけど」
「褒めるようなことをしないからでしょう」
「でも、あなたは、わたしを殺さなかった」
わたしは、膝の上で手を組んだ。
「鳴海さんは、わたしを刈るって言いました。株だって。あなたも最初、それは私のものだって言った。持ち物みたいに」
「……」
「でも、持ち物には、走りなさいとか、怒りなさいとか、言わないでしょう」
雨の音だけが、しばらく車内を満たした。
夜鷹さんは、答えなかった。
かわりに、こう言った。
「――真白」
わたしは、息を止めた。
初めてだった。
この人がわたしの名前を呼んだのは、その夜が、初めてだった。
「はい」
「あとで、私を殴りたくなったら、殴っていいわ」
「……なんですか、それ」
「本気で言っているの」
そのとき。
バックミラーが、白く光った。
*
「――伏せなさい」
夜鷹さんの声が、変わった。
後ろから、ヘッドライトが迫ってきていた。
一台ではなかった。
二台、三台、四台。
黒いワンボックスの列が、左右の車線をふさぎながら、こちらへ寄せてくる。
雨のなかで、そのフロントガラスの向こうに、作業帽が見えた。
首に巻いたタオルが見えた。
荷札の束が見えた。
「剪定会」
わたしの喉が、勝手にその名前を吐き出した。
「シートベルト、締めてる?」
「締めてます」
「よろしい」
夜鷹さんは、ギアを落とした。
「掴まってなさい」




