2 湾岸線
最初にぶつかってきたのは、左後方の一台だった。
どん、と車体が跳ねた。
セダンが横滑りして、わたしの肩がドアに叩きつけられた。
「うっ」
「舌を噛まないで」
夜鷹さんは、ほとんど姿勢を崩していなかった。
片手でハンドルを握ったまま、もう片方の手を、窓の外へ向けて、軽く払った。
それだけだった。
*
左後方のワンボックスが、アスファルトに沈んだ。
時速八十キロで走っていた二トンの車が、いきなり十倍の重さになったのだ。
サスペンションが潰れた。タイヤがバーストした。車体の底が路面を削って、火花が扇みたいに広がった。
車は、そのまま横を向いて、防音壁に突っ込んで止まった。
わたしは振り返って、それを見ていた。
「――生きてますか、あの人たち」
「知らないわ」
「夜鷹さん」
「殺してはいない」
彼女は、ちらりとミラーを見た。
「シートベルトを締めていればね」
*
残りの三台が、散った。
一台が前に出る。二台が左右につく。
挟むつもりだ。
右の窓の向こうに、作業服の男が見えた。
窓から身を乗り出して、長い棒のようなものを構えている。
高枝切り鋏だった。
柄が三メートル近くある、庭木の高いところを切るやつ。
その先端の刃だけが、あの、光を吸う黒だった。
「――伏せて!」
刃が伸びた。
こちらの窓を突き抜けて。
いや、突き抜けなかった。
ガラスは割れなかった。
かわりに、その刃が通った線に沿って、わたしの視界から窓ガラスが消えた。
正確には、ガラスの「重さ」が消えた。
そこに何もない、という感覚だけが、ぽっかりと空いた。
同時に、雨が入ってきた。
物理的にはガラスが切られていたのだ。音もなく、綺麗に。
風が、わたしの髪をめちゃくちゃにした。
「!」
二撃目が来た。
今度は、わたしの首を狙っていた。
*
わたしは、体が動く前に、手が動いていた。
助手席の足元。
鉄くず。
あの、夜鷹さんが錘に積んでいた金属の塊。
三キロ足らずのボルトの束を、わたしは掴んで――
軽くした。
そして、窓の外へ放った。
三キロのものが、ぽん、と気の抜けた動きで飛び出して。
外気に触れた瞬間、わたしはそれを戻した。
三キロが、三キロに戻る。
時速八十キロで、向かい風のなかを。
ボルトの束は、隣の車のフロントガラスを、粉々にした。
「ぐあっ」
高枝切り鋏が、路上に落ちた。
火花を上げて、後方へ流れていく。
「――やった」
「いま何をしたの」
夜鷹さんが、前を向いたまま訊いた。
「軽くして、投げて、戻しました」
「教えてないわ、そんなこと」
「卵を浮かせる練習を、六十回やったので」
彼女は、ふ、と息を吐いた。
笑ったのかもしれなかった。
「悪くないわね」
二週間で、初めての言葉だった。
*
残りの二台が、距離を取った。
前の一台が、急にスピードを落とす。
ぶつけるつもりか、と思った。
違った。
後部のハッチが、上に開いた。
荷室に、人が三人。
その手に、バケツのようなものが抱えられていた。
なかに、白い紙の束が山盛りに入っている。
「――荷札!」
彼らは、それを、ばらまいた。
白い紙吹雪が、雨のなかに炸裂した。
何百枚、いや、何千枚。
風に乗って、わたしたちの車に降りかかる。
フロントガラスに。ボンネットに。切られた窓から、車内に。
一枚が、わたしの膝に落ちた。
その瞬間、膝から下が消えた。
痛くはない。動く。
けれど、自分の脚が何キロなのか、分からなくなった。
二枚目が、肩に。
三枚目が、ダッシュボードに。
世界に、白い穴が、ぼこぼこと空いていく。
*
「夜鷹さん、これ」
「分かってる」
彼女の声が、初めて、切迫していた。
わたしは気づいた。
荷札は、わたしだけを狙っているのではない。
車そのものに貼りついていた。
タイヤに。サスペンションに。エンジンに。
夜鷹さんが操作しようとしても、重さが「見えない」ものは、動かせない。
「――降りるわよ」
「え!?」
「五秒後に、この車は死ぬ」
夜鷹さんは、ハンドルを右に切った。
セダンが、非常駐車帯に突っ込んだ。
同時に、彼女が手を振り上げた。
車の天井が消し飛んだ。
上向きに、軽く。




