3 四十六キロの少女
雨のなかに、放り出された。
正確には、夜鷹さんがわたしの襟を掴んで、屋根のなくなった車から引きずり出した。
三秒後、セダンは非常駐車帯の壁に激突して、ひしゃげた。
わたしたちは、首都高の路肩に立っていた。
地上二十メートル。
高架の上。
眼下には、黒い東京湾。
雨が、真横から吹きつけてきた。
*
車が停まる。
ドアが開く。
作業服の男女が、次々と降りてきた。
六人。
それぞれの手に、黒い刃。
そして、その後ろから。
「――お待たせしました」
聞き覚えのある、のんびりした声がした。
前方に停まっていた大型トレーラーの、コンテナの上。
鳴海さんが立っていた。
半透明のレインコートを着て、作業帽をかぶって、あの一メートル半の大鋏を肩に担いで。
「湊さん。お元気そうで」
「――」
「二週間ぶりですね。ずいぶん顔つきが変わりましたよ。いい枝ぶりです」
彼は帽子を取って、律儀に一礼した。
その動作だけが、この雨と鉄と血のにおいのなかで、ひどく場違いだった。
*
夜鷹さんが、一歩前に出た。
わたしを、背中に隠すようにして。
「伝言は届いたはずよ」
「届きました。値がついていない、と」
鳴海さんはうなずいた。
「ですので、本日は、値をつけに参りました」
「意味が分からないわね」
「簡単な話ですよ」
彼は、コンテナの上から、こちらを見下ろした。
「三年前、うちは一度しくじっている。しくじった仕事を、三年も放置している。それは、うちの看板に傷がつくんです」
「――」
「ですから、これはもう、金の話じゃない。始末の話です」
*
夜鷹さんが、手を上げた。
わたしには、それが見えた。
彼女のまわりの空気が、沈む。
六人の刺客のうち、三人が、いきなり片膝をついた。
肩に、見えない重さが乗ったのだ。
「ぐ、」
「っ、重――」
一人が、そのまま路面に伏せた。
アスファルトが、その周りで、蜘蛛の巣みたいにひび割れた。
すごい、と思った。
同時に、おかしい、と思った。
二週間前なら、六人ともまとめて潰していたはずだ。
「夜鷹さん」
「黙って」
彼女の右手が、震えていた。
そして、その指先が。
透けていた。
雨粒が、その指をすり抜けて落ちていった。
*
「ああ、やっぱり」
鳴海さんの声が、ほんの少しだけ、変わった。
同情、みたいなものが混ざっていた。
「そちらのかた、空っぽになりかけてますね」
「――」
「三年もつなら上等だと、上は言っていましたが。……ご無理をされたんでしょう」
彼は、大鋏を構え直した。
「お気の毒です。本当に」
そして、言った。
「今夜、まとめて片付けます」
*
そこから先は、めちゃくちゃだった。
刺客たちが散った。
夜鷹さんが二人を路面に叩き伏せる。わたしは荷札をよけながら、金属の破片を軽くしては投げ、投げては戻す。
鳴海さんが跳んだ。
コンテナの上から、二十メートルを、一歩で。
大鋏が振り下ろされる。
夜鷹さんがそれを逸らした。
刃の軌道の重さを捻じ曲げて、アスファルトへ叩き落とす。
刃が路面に食い込んで、そこから半径三メートルの舗装が、綺麗に消えた。
「ちっ」
「まだ動けますか。大したものだ」
「――黙りなさい」
*
わたしの周りにも、二人来ていた。
男と、女。
どちらも荷札を掴んでいる。
「湊さん、じっとしててください。すぐ済みますから」
札が、ばらまかれた。
視界に、白い穴がいくつも空く。
足元が消える。右手が消える。背中が消える。
(見えない)
(また、見えない)
――でも。
わたしは、目を閉じた。
*
二週間、毎朝五時から、卵を浮かせていた。
卵は、見なくても浮かせられた。
手のひらの上の十七グラムは、目をつぶっても、そこにあった。
(重さが見えないなら)
(見なくていいものを、使えばいい)
わたしは、足の裏に意識を集めた。
四十六キロ。
自分の重さ。
これだけは、荷札にも消せない。
なぜなら、それは、わたしそのものだから。
*
右から刃が来た。
風の動きで分かった。
わたしは、自分の四十六キロを、左足だけに移した。
受け渡し。
右半身が、羽根みたいに軽くなる。
体が、ふわ、と傾いだ。
刃が、空を切った。
「な――」
戻す。
左足の四十六キロを、両足へ。
そして、そのまま、踏み込んだ。
わたしの手が、男の作業服の胸を掴んだ。
(壊さない)
(壊さないで、運ぶ)
わたしは、男の重さを抜いた。
六十二キロが、三キロになった。
そして、放り投げた。
三キロの人間は、驚くほど簡単に飛んだ。
高架の防音壁にぶつかる直前で、わたしは重さを戻した。
――いや、戻しすぎないように、少しだけ残して。
男は、どさりと落ちて、それきり動かなかった。
「い、いま、何した」
もう一人が、後ずさった。
わたしは、自分の手を見た。
震えていなかった。
「……骨、折れてないと思います」
わたしは、その人に言った。
「たぶん」
「たぶんって!」
「たぶん、です」
女の人は、荷札を放り出して、逃げていった。
*
そのときだった。
わたしの視界の端で、何かが崩れた。
大型トレーラーだ。
刺客の一人が、逃げ場をなくしてトレーラーの運転席に飛び乗り、そのまま暴走させたのだ。
雨に濡れた路面。急ハンドル。
四十フィートのコンテナを積んだ車体が、ゆっくりと、傾いだ。
「あ」
倒れる。
高架の上で。
そして、その進行方向には。
一般車が、二台。
渋滞に巻き込まれて逃げ遅れた、ただの車だった。
一台は軽自動車で、後部座席にチャイルドシートが見えた。
*
コンテナが落ちてくる。
わたしは、重さを見ていた。
二十四トン。
夜鷹さんを見た。
彼女は、鳴海さんの刃を受け止めるので、手いっぱいだった。
顔が真っ白だった。
呼べば、たぶん、来てくれる。
来てくれて、そして、この人はもっと減る。
*
(――わたしが、やる)
わたしは走った。
走らないこと。
そんなルールは、もう、とっくに捨てていた。
コンテナの下に滑り込んで、両手を上に伸ばした。
「――っ」
触れた。
二十四トン。
軽く、しなければ。
でも、重さは消えない。
消えないなら、どこかへ行く。
どこへ?
地面? 割れる。
海? 遠い。
空気? 支えられない。
――考えている時間は、なかった。
だから、わたしは、自分に入れた。
*
その瞬間のことを、どう言えばいいのか分からない。
痛みではなかった。
世界に押し潰されるという言葉があるけれど、あれは比喩じゃなかった。
四十六キロのわたしのなかに、二十四トンが入ってきた。
膝が砕ける音がした。いや、しなかった。砕ける寸前で止まった。
肋骨が、内側から軋んだ。
肺が縮んだ。息が吸えない。
目の裏が、真っ白になった。
耳が、聞こえなくなった。
それでも、コンテナは浮いていた。
わたしの頭の上、三十センチのところで、二十四トンの鉄の箱が、ふわりと。
軽自動車が、その下を、通り抜けていく。
クラクションを鳴らしながら。
何が起きたのかも分からないまま。
(――よかった)
そう思った瞬間、わたしの膝が、折れた。
*
「この馬鹿!」
怒鳴られた。
こんなふうに怒鳴られたのは、初めてだった。
夜鷹さんが、わたしの肩を掴んでいた。
そして、わたしの体から、二十四トンを引き剥がした。
腕を引き抜くみたいに、乱暴に。
「が、は」
わたしの肺に、空気が戻ってきた。
咳が止まらなかった。口のなかが、鉄の味でいっぱいだった。
夜鷹さんは、片手を高架の外へ向けた。
コンテナが、雨のなかを、ゆっくりと横へ流れていった。
高架の手すりを越えて。
そして、落ちた。
十数秒あとに、東京湾から、どん、と腹に響く音がした。
*
「一人で持とうとするな、と」
夜鷹さんの声が、震えていた。
「言ったでしょう。重さは、誰かが持つと」
「……誰も、いなかったから」
「私がいたわ」
「――夜鷹さんは、もう、」
わたしは、彼女の右手を見た。
指の第二関節から先が、なかった。
透けているのではない。
雨のなかで、そこだけ、輪郭がぼやけて消えかけていた。
「……ああ」
夜鷹さんは、その手を見て、つまらなそうに言った。
「思ったより、早いわね」
*
刺客たちは、撤退していた。
いつのまにか。
鳴海さんの姿も、なかった。
後には、ひしゃげた車と、ひび割れたアスファルトと、路上に散らばった何千枚もの荷札だけが残っていた。
雨に濡れた白い紙が、ゆっくりと文字を滲ませながら、風に吹かれていた。
そして、横転したワンボックスの、運転席。
そこに、一人、残っていた。




