4 柏木さんの名前
シートベルトが外れなくて、その人は、逆さまのまま暴れていた。
わたしは駆け寄って、ドアをこじ開けた。
――こじ開ける、というか、ドアの重さを抜いて、剥がした。
「っ、う」
女の人が、転がり落ちてきた。
作業服。首のタオル。腰の荷札。
そして。
左腕に、ギプス。
わたしは、息を呑んだ。
見覚えがあった。
忘れるわけがなかった。
二週間前、運河沿いの倉庫で、わたしがこの手で折った腕だった。
*
彼女も、わたしに気づいた。
顔が、恐怖で歪んだ。
「ひ、」
後ずさろうとして、路面で足を滑らせて、尻もちをついた。
「来ないで」
「あの」
「来ないでください、お願いします、来ないで」
その声は、完全に子どもの声だった。
わたしは、足を止めた。
両手を、下げた。
「――ごめんなさい」
言葉が、勝手に出た。
「腕、ごめんなさい」
女の人が、動きを止めた。
雨が、二人のあいだに降っていた。
「……は?」
「あのとき、わたしが折りました。まだ、痛いですか」
彼女は、目をまん丸にして、わたしを見ていた。
まるで、猫が喋ったのを見たみたいな顔だった。
*
「――何なんですか、あんた」
やがて、彼女は言った。
震えた声で。
「こっちは、殺しに来てるんですよ」
「知ってます」
「なんで謝るんですか」
「折ったからです」
「だから殺しに来てるんですってば!」
彼女は、めちゃくちゃなことを叫んだ。
それから、ぐしゃりと顔を歪めて、うずくまった。
泣いていた。
「もう、いやだ。もう、いやだ、こんなの」
*
わたしは、彼女の隣に、しゃがんだ。
触れなかった。
ただ、隣に座った。
三年間、ひなたを泣きやませるときに、ずっとやってきたやりかただった。
「名前、聞いていいですか」
「……は?」
「わたし、あなたの名前を知らないんです」
彼女は、濡れた顔を上げた。
「二週間前から、ずっと気になってて。名前も知らない人の腕を折ったんだって思ったら、なんか、ものすごく」
わたしは、うまく言葉が見つからなかった。
「……ものすごく、失礼だなって」
長い沈黙があった。
雨が、彼女のギプスを濡らしていた。
「――柏木」
「え」
「柏木、です」
「柏木さん」
わたしは、その名前を、口のなかで繰り返した。
柏木さん。
三年間のノートに、初めて書き込むことになる、人の名前だった。




