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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
第三章 切り出されたもの

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4 柏木さんの名前

 シートベルトが外れなくて、その人は、逆さまのまま暴れていた。


 わたしは駆け寄って、ドアをこじ開けた。


 ――こじ開ける、というか、()()()()()()()()()()()()()


「っ、う」


 女の人が、転がり落ちてきた。


 作業服。首のタオル。腰の荷札。


 そして。


 ()()()()()()


 わたしは、息を呑んだ。


 見覚えがあった。


 忘れるわけがなかった。


 二週間前、運河沿いの倉庫で、わたしがこの手で折った腕だった。



 彼女も、わたしに気づいた。


 顔が、恐怖で歪んだ。


「ひ、」


 後ずさろうとして、路面で足を滑らせて、尻もちをついた。


「来ないで」


「あの」


「来ないでください、お願いします、来ないで」


 その声は、完全に子どもの声だった。


 わたしは、足を止めた。


 両手を、下げた。


「――ごめんなさい」


 言葉が、勝手に出た。


「腕、ごめんなさい」


 女の人が、動きを止めた。


 雨が、二人のあいだに降っていた。


「……は?」


「あのとき、わたしが折りました。まだ、痛いですか」


 彼女は、目をまん丸にして、わたしを見ていた。


 まるで、猫が喋ったのを見たみたいな顔だった。



「――何なんですか、あんた」


 やがて、彼女は言った。


 震えた声で。


「こっちは、殺しに来てるんですよ」


「知ってます」


「なんで謝るんですか」


「折ったからです」


「だから殺しに来てるんですってば!」


 彼女は、めちゃくちゃなことを叫んだ。


 それから、ぐしゃりと顔を歪めて、うずくまった。


 泣いていた。


「もう、いやだ。もう、いやだ、こんなの」



 わたしは、彼女の隣に、しゃがんだ。


 触れなかった。


 ただ、隣に座った。


 三年間、ひなたを泣きやませるときに、ずっとやってきたやりかただった。


「名前、聞いていいですか」


「……は?」


「わたし、あなたの名前を知らないんです」


 彼女は、濡れた顔を上げた。


「二週間前から、ずっと気になってて。名前も知らない人の腕を折ったんだって思ったら、なんか、ものすごく」


 わたしは、うまく言葉が見つからなかった。


「……ものすごく、失礼だなって」


 長い沈黙があった。


 雨が、彼女のギプスを濡らしていた。


「――柏木」


「え」


「柏木、です」


「柏木さん」


 わたしは、その名前を、口のなかで繰り返した。


 ()()()()


 三年間のノートに、初めて書き込むことになる、人の名前だった。

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