5 三年前の仕事
「――やめなさい」
背後から、夜鷹さんの声がした。
いつのまにか、すぐ後ろに立っていた。
右手を、左手で隠すようにして。
「その女から離れなさい。何も聞かなくていい」
「なんでですか」
「話は、私がする」
「じゃあ、してください」
わたしは、立ち上がって、振り返った。
「今、ここで」
「――真白」
「二週間、待ちました。今夜、全部話すって言ったのは、あなたです」
雨の音が、やけに大きかった。
夜鷹さんは、口をひらいて、閉じた。
そして、また、ひらいた。
何も出てこなかった。
あの人が、言葉に詰まるところを、わたしは初めて見た。
*
「……知らないんですか」
柏木さんが、地面に座ったまま、ぽつりと言った。
「あんた、自分が何なのか、聞かされてないんですか」
「柏木」
夜鷹さんの声が、鋭くなった。
「黙りなさい」
「――ああ、なるほど」
柏木さんは、ギプスの腕を抱えて、乾いた笑いをもらした。
「そういうことか。だから『値がついてない』なんて言えるんだ」
「黙れと言っている」
「あんた、言ってないんですね」
*
夜鷹さんが、手を上げた。
わたしは、その腕を掴んだ。
初めて、自分から、この人に触れた。
冷たかった。
そして、驚くほど軽かった。
人間の腕の重さが、していなかった。
「夜鷹さん」
「離しなさい」
「言わせてください」
「真白」
「お願いします」
わたしは、彼女の目を見た。
夜鷹さんの黒い目が、揺れていた。
初めて見る揺れかただった。
そして、彼女は、腕を下ろした。
*
「――三年前の、七月です」
柏木さんは、話しはじめた。
「うちに、依頼が来ました。自分の異能を切り出してほしい、っていう」
雨が、彼女の声を、半分くらい流していった。
「珍しいんですよ、そういうの。ふつう、こっちが刈りに行くんです。自分から持ってくる人なんて、まずいない」
「……」
「依頼人は、女の人でした」
柏木さんは、夜鷹さんのほうを、ちらりと見た。
「その力で、人を傷つけたそうです」
わたしの心臓が、一度、大きく鳴った。
「詳しいことは、下っ端のわたしには分かりません。でも、上の人が言ってました。取り返しがつかないやつだったって」
「――」
「その人は言ったそうです。『この力を、私から切り離してください。二度と戻らないように』って」
*
「そもそも、うちが何なのかって話ですけど」
柏木さんは、ギプスの腕を抱え直した。
濡れた前髪が、目にかかっていた。
「剪定会は、農家なんですよ」
「農家?」
「異能持ちを、うちでは『株』って呼びます。株が実らせたものが、『実』。うちはそれを刈って、集めて、欲しがる人に売る。それだけの商売です」
「……売る」
「買う人がいるんですよ。世の中には」
彼女は、自嘲するように笑った。
「圃場っていうのは、その作業場です。第一から第六まであります。第四は、大物専用でした」
「大物」
「切り出すのに、三日かかる株です」
*
「依頼人のときのこと、先輩から聞きました」
柏木さんは続けた。
「ずぶ濡れで来たそうです。夜中に。傘も差さずに」
わたしは、息を詰めた。
「何があったのかは、一切喋らなかったって。名前も言わなかった。ただ、『全部、切ってください』って」
「全部」
「うちの人が訊いたそうです。『全部とは?』って。異能っていうのは、どこまでが異能で、どこからが本人なのか、はっきりしないことがあるんです。木の枝と幹の境目みたいなもんで」
彼女は、雨に濡れた顔を上げた。
「そしたら、その人、こう言ったそうです」
「『これも、一緒に』って」
「……これ、って」
「分かりません」
柏木さんは、首を振った。
「何を指さしたのかは、記録に残ってません。ただ、うちの人も、そのときはよく分からないまま、言われたとおりにしたって」
わたしは、夜鷹さんのほうを見た。
彼女は、雨のなかで、石みたいに動かなかった。
*
「切り出しは、湾岸の第四圃場でやりました」
圃場。
わたしは、その言葉を知らなかった。
あとで調べて、畑のことだと知った。
「白い部屋です。窓がなくて、壁も床も天井も真っ白の」
心臓が、止まった。
「異能っていうのは、背骨に沿って通ってるんです。木でいう、幹の芯みたいなところに」
柏木さんは、自分の背中を、指でなぞった。
うなじから、腰まで。
まっすぐに。
「だから、背中から開きます」
*
わたしの視界の端が、暗くなった。
夢だ。
三年間、何十回も見た夢。
白い部屋。
誰かの、細い、白い背中。
まっすぐな、赤い線。
そして。
「――じょき、って」
わたしの唇が、勝手に動いた。
柏木さんが、びくりとした。
「音がするんです。大鋏が、湿ったものを切る音」
「……なんで」
柏木さんの顔から、血の気が引いていった。
「なんで、あんたがそれを知ってるんですか」
*
「切り出した異能は、ふつう、実みたいなものになります」
柏木さんの声は、震えていた。
「動かない。喋らない。ただの、収穫物です。うちはそれを保管して、売る。それが仕事です」
「……」
「でも、三年前のは、違った」
「違った?」
「動いたんです」
彼女は、雨に濡れた顔を上げて、わたしを見た。
「切り出された力が、そのまま、立ち上がった」
「――」
「保管庫のなかで、形を作りはじめて。手ができて、足ができて、顔ができて。そして、扉を開けて、自分の足で、出ていった」
「うちは総出で探しました。監視カメラの記録も、全部消しました。手違いが表に出たら、まずいですから」
「でも、見つからなかった」
「三年間、ずっと」
*
柏木さんは、わたしを見ていた。
まっすぐに。
「あんたですよ」
「――」
「湊真白さん。あんたが、あのとき逃げた力です」
*
雨の音が、遠くなった。
わたしは、自分が立っているのかどうか、分からなくなった。
「記憶がないとか、そういう話じゃないんです」
柏木さんは言った。
たぶん、残酷にするつもりは、なかったのだと思う。
彼女はただ、事実を言っていた。
「失くしたんじゃない」
「最初から、無いんですよ」
*
――埠頭で見つかった。
――裸足で、白いワンピース一枚で。
――どの防犯カメラにも映っていなかった。
――行方不明者届は、どこにもなかった。
――名前は、三年前に、家庭裁判所が作った。
全部、つながった。
わたしを探している人が、この世に一人もいなかったのは、当たり前のことだった。
わたしには、その前が、なかったのだから。




