6 私の一部
どれくらい、そうしていたのか分からない。
たぶん、十秒くらいだったのだと思う。
わたしには、一時間くらいに感じられた。
*
「――夜鷹さん」
わたしは、振り返った。
彼女は、そこに立っていた。
雨に打たれて。
右手を、左手で握って。
逃げずに、立っていた。
その一点だけは、認めなければならないと思った。
この人は、逃げなかった。
「本当ですか」
「……」
「本当ですか、って、訊いてるんです」
夜鷹さんは、目を閉じた。
そして、開けた。
「――本当よ」
*
わたしは、うなずいた。
不思議なくらい、冷静だった。
たぶん、頭のどこかが、もう壊れていたのだと思う。
「じゃあ、確認させてください」
「……ええ」
「あの子守唄は」
「私が、よくうたっていたものよ。あなたには、それが染みていた」
「わたしのコップの持ちかたは」
「私の癖よ。あなたのじゃない」
「肩が上がる癖も」
「私のもの」
「三つのルールは」
「――私が、そうやって生きていたから」
*
一つずつ、剥がされていく感じがした。
わたしがわたしだと思っていたものが、全部、この人のお下がりだった。
「夜が怖いのも?」
「私が怖かった」
「人参が嫌いなのも?」
「私が嫌い」
「――優しいのも?」
そこで、夜鷹さんは、初めて言葉に詰まった。
雨が、彼女の睫毛から、ぽたぽたと落ちていた。
「……それは」
「それは?」
「それは、私のものじゃない」
彼女は、小さく言った。
「それだけは、どこから来たのか、私にも分からない」
*
「最後に、一つだけ」
わたしは、言った。
声が、自分でも驚くほど平坦だった。
「あなたは、わたしを、なんだと思ってるんですか」
夜鷹さんは、答えなかった。
わたしは、もう一度、訊いた。
「わたしは、あなたの、何ですか」
雨が降っていた。
高架の下で、車のクラクションが鳴っていた。
遠くで、サイレンが近づいてきていた。
そして、彼女は、言った。
ひどく静かに。
隠しようもなく。
「――あなたは、私の一部よ」
*
そうか、と思った。
それだけだった。
怒りは、来なかった。
悲しみも、来なかった。
かわりに来たのは、からっぽだった。
『一度も、私はあなたに会っていない』
あの夜の言葉が、頭のなかで再生された。
嘘じゃなかった。
会えるわけがなかった。
自分の心臓に「はじめまして」と言う人は、いない。
*
ポケットで、スマホが震えた。
わたしは、ぼんやりと、それを取り出した。
画面に、通知が出ていた。
『ましろ、テストおつかれ!
花火、浴衣あるからね。うちのおかんのやつ借りるから。
八月二日。ぜったい。』
千早だった。
わたしは、その文字を、雨のなかで、しばらく見ていた。
画面に雨粒が落ちて、文字が滲んだ。
――この約束をしたのは、誰だろう。
湊真白という人間が、したのだろうか。
湊真白という人間は、いるのだろうか。
三年前に、家庭裁判所が作った名前。
埠頭の「湊」と、ワンピースの「真白」。
中身に、なにか入っていただろうか。
*
*
サイレンが、少しずつ近づいてきていた。
わたしは、柏木さんのほうを見た。
彼女は、まだ路面に座り込んでいた。
ギプスの腕を抱えて、わたしと夜鷹さんを、交互に見ていた。
「――行っていいですよ」
「え」
「警察、来ます。捕まっちゃう」
柏木さんは、ぽかんとした顔をした。
「いや、あの、わたし」
「立てますか」
「立てますけど、そうじゃなくて」
彼女は、混乱していた。
「あんた、わたしが喋ったせいで、いま、その」
「そうですね」
わたしはうなずいた。
「たぶん、人生でいちばん、ひどい夜です」
「……」
「でも、それはあなたのせいじゃないので」
*
柏木さんは、ゆっくりと立ち上がった。
よろけて、ワンボックスの側面に手をついた。
そして、しばらく、動かなかった。
「あのさ」
敬語が、外れていた。
「はい」
「わたし、この仕事、十九のときから七年やってて」
「はい」
「切られる側から、謝られたの、初めてなんだけど」
彼女は、こちらを見なかった。
雨に濡れたアスファルトを見ていた。
「……腕、あと二ヶ月で治るって」
「そうですか」
「だから、その」
言葉を探して、彼女は、結局見つけられなかったようだった。
「――じゃあ」
そう言って、柏木さんは、雨のなかへ歩いていった。
*
三歩で、彼女は立ち止まった。
そして、振り返らずに、言った。
「逃げなよ」
「え」
「あんた、逃げたほうがいい。あの人からも、うちからも」
「……どこに」
「知らない。でも、あんたはもう、自分の足で歩いてるじゃん」
柏木さんは、それきり振り返らなかった。
ギプスの腕を抱えたまま、雨の高架を、遠ざかっていった。
*
わたしは、その背中を見送って、それから、夜鷹さんのほうを向いた。
「真白」
夜鷹さんが、一歩、近づいてきた。
「聞きなさい。私は、あなたに」
「――近寄らないで」
わたしの声は、思ったより、大きかった。
そして、路面のアスファルトが、わたしの足元で、ぐしゃりとへこんだ。
半径三メートル。
ひび割れが、蜘蛛の巣みたいに広がった。
散らばっていた荷札が、いっせいに、宙に浮いた。
何千枚の白い紙が、雨のなかで、止まった。
夜鷹さんの足が、止まった。
柏木さんが、悲鳴を上げた。
*
わたしは、自分の手を見た。
震えていた。
(ああ)
(また、壊す)
(いつもそうだ)
(わたしは、壊すためにできている)
――いや、違う。
わたしは、気づいてしまった。
もっと、ひどいことに。
(わたしは、壊すためにできているんじゃない)
(わたしが、壊すものそのものなんだ)
この力は、わたしが持っているものじゃない。
この力が、わたしだった。
*
浮いていた荷札が、いっせいに落ちた。
わたしは、走り出した。
夜鷹さんが何か叫んだ。
聞こえなかった。
高架の非常階段を駆け下りて、雨の湾岸道路を、めちゃくちゃに走った。
工場の明かりが、流れていった。
コンテナヤードのクレーンが、黒い骨みたいに立っていた。
三年前、わたしが「見つかった」場所だ。
いや。
わたしが、出てきた場所だ。
*
どれくらい走ったか分からない。
気づくと、海沿いのフェンスの前で、膝をついていた。
肺が痛かった。
さっきコンテナを持ったときに、たぶん、どこかが折れていた。
黒い水面が、すぐそこにあった。
雨が、その表面に、無数の穴を開けていた。
わたしは、自分の顔を探した。
水面には、映らなかった。
暗すぎて、波が立ちすぎていて、何も映らなかった。
ただの、黒い水だった。
*
膝を抱えて、わたしは、考えた。
考えたくなかったけれど、勝手に、考えてしまった。
――ひなたを寝かしつけたのは、誰だろう。
あの子は「ましろねえ」と呼ぶ。歌をうたうと、五回目のくりかえしで眠る。
けれど、あの歌は、わたしの歌じゃなかった。
あの子が安心して寄りかかっていた肩は、誰の肩だったんだろう。
――佐伯さんが「あんたは変な子だねえ」と笑うとき。
――風呂の栓を直して、洗濯機四番をなだめるとき。
――階段で転んだ一年生に、ハンカチを差し出したとき。
あれは、誰がやったんだろう。
*
そして。
『ましろってさ、いっつも、なんか我慢してるよね』
『わたし、ばかだけど、そこまでばかじゃないから』
『ましろ、最近さ、遠くなるから』
『八月二日。ぜったい。』
――千早は、誰と友達になったんだろう。
*
胸のあたりを、両手で押さえた。
ここに、何かが入っているのだと、ずっと思っていた。
蓋をしなければならない、忌まわしいものが。
でも、違った。
蓋の内側しかなかった。
蓋を開けたら、なかには何もなくて、蓋そのものがわたしだった。
「……はは」
声が出た。
笑い声のつもりだった。
うまくいかなかった。
*
気づくと、うたっていた。
ゆっくりした、三拍子の、短い旋律。
最後だけ、ふしぎな下がりかたをする歌。
――ああ。
これも、わたしのじゃないんだ。
わたしは、口を閉じた。
そして、そこから先は、一音も出てこなかった。




