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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
第三章 切り出されたもの

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18/50

6 私の一部

 どれくらい、そうしていたのか分からない。


 たぶん、十秒くらいだったのだと思う。


 わたしには、一時間くらいに感じられた。



「――夜鷹さん」


 わたしは、振り返った。


 彼女は、そこに立っていた。


 雨に打たれて。


 右手を、左手で握って。


 逃げずに、立っていた。


 その一点だけは、認めなければならないと思った。


 ()()()()()()()()()()


「本当ですか」


「……」


「本当ですか、って、訊いてるんです」


 夜鷹さんは、目を閉じた。


 そして、開けた。


「――本当よ」



 わたしは、うなずいた。


 不思議なくらい、冷静だった。


 たぶん、頭のどこかが、もう壊れていたのだと思う。


「じゃあ、確認させてください」


「……ええ」


「あの子守唄は」


「私が、よくうたっていたものよ。()()()()()()()()()()()()()


「わたしのコップの持ちかたは」


「私の癖よ。あなたのじゃない」


「肩が上がる癖も」


「私のもの」


「三つのルールは」


「――()()()()()()()()()()()()()()



 一つずつ、剥がされていく感じがした。


 わたしがわたしだと思っていたものが、全部、この人のお下がりだった。


「夜が怖いのも?」


「私が怖かった」


「人参が嫌いなのも?」


「私が嫌い」


「――()()()()()?()


 そこで、夜鷹さんは、初めて言葉に詰まった。


 雨が、彼女の睫毛から、ぽたぽたと落ちていた。


「……それは」


「それは?」


()()()()()()()()()()()


 彼女は、小さく言った。


「それだけは、どこから来たのか、私にも分からない」



「最後に、一つだけ」


 わたしは、言った。


 声が、自分でも驚くほど平坦だった。


「あなたは、わたしを、なんだと思ってるんですか」


 夜鷹さんは、答えなかった。


 わたしは、もう一度、訊いた。


「わたしは、あなたの、何ですか」


 雨が降っていた。


 高架の下で、車のクラクションが鳴っていた。


 遠くで、サイレンが近づいてきていた。


 そして、彼女は、言った。


 ひどく静かに。


 隠しようもなく。


「――()()()()()()()()()



 そうか、と思った。


 それだけだった。


 怒りは、来なかった。


 悲しみも、来なかった。


 かわりに来たのは、()()()()だった。


『一度も、私はあなたに会っていない』


 あの夜の言葉が、頭のなかで再生された。


 嘘じゃなかった。


 ()()()()()()()()()()


 自分の心臓に「はじめまして」と言う人は、いない。



 ポケットで、スマホが震えた。


 わたしは、ぼんやりと、それを取り出した。


 画面に、通知が出ていた。


『ましろ、テストおつかれ!


 花火、浴衣あるからね。うちのおかんのやつ借りるから。


 八月二日。ぜったい。』


 千早だった。


 わたしは、その文字を、雨のなかで、しばらく見ていた。


 画面に雨粒が落ちて、文字が滲んだ。


 ――この約束をしたのは、誰だろう。


 湊真白という人間が、したのだろうか。


 湊真白という人間は、いるのだろうか。


 三年前に、家庭裁判所が作った名前。


 埠頭の「湊」と、ワンピースの「真白」。


 ()()()()()()()()()()()()()()()




 サイレンが、少しずつ近づいてきていた。


 わたしは、柏木さんのほうを見た。


 彼女は、まだ路面に座り込んでいた。


 ギプスの腕を抱えて、わたしと夜鷹さんを、交互に見ていた。


「――行っていいですよ」


「え」


「警察、来ます。捕まっちゃう」


 柏木さんは、ぽかんとした顔をした。


「いや、あの、わたし」


「立てますか」


「立てますけど、そうじゃなくて」


 彼女は、混乱していた。


「あんた、わたしが喋ったせいで、いま、その」


「そうですね」


 わたしはうなずいた。


「たぶん、人生でいちばん、ひどい夜です」


「……」


「でも、それはあなたのせいじゃないので」



 柏木さんは、ゆっくりと立ち上がった。


 よろけて、ワンボックスの側面に手をついた。


 そして、しばらく、動かなかった。


「あのさ」


 敬語が、外れていた。


「はい」


「わたし、この仕事、十九のときから七年やってて」


「はい」


「切られる側から、()()()()()、初めてなんだけど」


 彼女は、こちらを見なかった。


 雨に濡れたアスファルトを見ていた。


「……腕、あと二ヶ月で治るって」


「そうですか」


「だから、その」


 言葉を探して、彼女は、結局見つけられなかったようだった。


「――じゃあ」


 そう言って、柏木さんは、雨のなかへ歩いていった。



 三歩で、彼女は立ち止まった。


 そして、振り返らずに、言った。


()()()()


「え」


「あんた、逃げたほうがいい。あの人からも、うちからも」


「……どこに」


「知らない。でも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 柏木さんは、それきり振り返らなかった。


 ギプスの腕を抱えたまま、雨の高架を、遠ざかっていった。



 わたしは、その背中を見送って、それから、夜鷹さんのほうを向いた。


「真白」


 夜鷹さんが、一歩、近づいてきた。


「聞きなさい。私は、あなたに」


「――()()()()()()


 わたしの声は、思ったより、大きかった。


 そして、路面のアスファルトが、わたしの足元で、ぐしゃりとへこんだ。


 半径三メートル。


 ひび割れが、蜘蛛の巣みたいに広がった。


 散らばっていた荷札が、いっせいに、宙に浮いた。


 何千枚の白い紙が、雨のなかで、()()()()


 夜鷹さんの足が、止まった。


 柏木さんが、悲鳴を上げた。



 わたしは、自分の手を見た。


 震えていた。


(ああ)


(また、壊す)


(いつもそうだ)


(わたしは、壊すためにできている)


 ――()()()()


 わたしは、気づいてしまった。


 もっと、ひどいことに。


(わたしは、壊すためにできているんじゃない)


()()()()()()()()()()()()()()())


 この力は、わたしが持っているものじゃない。


 ()()()()()()()()()()



 浮いていた荷札が、いっせいに落ちた。


 わたしは、走り出した。


 夜鷹さんが何か叫んだ。


 聞こえなかった。


 高架の非常階段を駆け下りて、雨の湾岸道路を、めちゃくちゃに走った。


 工場の明かりが、流れていった。


 コンテナヤードのクレーンが、黒い骨みたいに立っていた。


 三年前、わたしが「見つかった」場所だ。


 いや。


 ()()()()()()()()()()だ。



 どれくらい走ったか分からない。


 気づくと、海沿いのフェンスの前で、膝をついていた。


 肺が痛かった。


 さっきコンテナを持ったときに、たぶん、どこかが折れていた。


 黒い水面が、すぐそこにあった。


 雨が、その表面に、無数の穴を開けていた。


 わたしは、自分の顔を探した。


 水面には、映らなかった。


 暗すぎて、波が立ちすぎていて、何も映らなかった。


 ただの、黒い水だった。



 膝を抱えて、わたしは、考えた。


 考えたくなかったけれど、勝手に、考えてしまった。


 ――ひなたを寝かしつけたのは、誰だろう。


 あの子は「ましろねえ」と呼ぶ。歌をうたうと、五回目のくりかえしで眠る。


 けれど、あの歌は、わたしの歌じゃなかった。


 あの子が安心して寄りかかっていた肩は、()()()だったんだろう。


 ――佐伯さんが「あんたは変な子だねえ」と笑うとき。


 ――風呂の栓を直して、洗濯機四番をなだめるとき。


 ――階段で転んだ一年生に、ハンカチを差し出したとき。


 あれは、誰がやったんだろう。



 そして。


『ましろってさ、いっつも、なんか我慢してるよね』


『わたし、ばかだけど、そこまでばかじゃないから』


『ましろ、最近さ、遠くなるから』


『八月二日。ぜったい。』


 ――千早は、()()()()()()()()()()()()



 胸のあたりを、両手で押さえた。


 ここに、何かが入っているのだと、ずっと思っていた。


 蓋をしなければならない、忌まわしいものが。


 でも、違った。


 蓋の()()()()なかった。


 蓋を開けたら、なかには何もなくて、()()()()()()()()()()()()


「……はは」


 声が出た。


 笑い声のつもりだった。


 うまくいかなかった。



 気づくと、うたっていた。


 ゆっくりした、三拍子の、短い旋律。


 最後だけ、ふしぎな下がりかたをする歌。


 ――ああ。


 ()()()()()()()()()()()()()


 わたしは、口を閉じた。


 そして、そこから先は、一音も出てこなかった。

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