1 うたえない
息を吸うと、右の脇腹が痛んだ。
肋骨だ。ひびが入っているのだと思う。
病院には行かなかった。行けば、どうやってこうなったのかを訊かれる。二十四トンのコンテナを体に入れましたと言うわけにはいかない。
「ましろちゃん、また転んだの?」
「転んだ」
「あんた、最近転びすぎ」
佐伯さんは呆れて、それから湿布を三枚くれた。
この人は、本当に、いつも何も訊かない。
訊かないでいてくれることが、こんなに苦しいものだとは知らなかった。
その言いかたを、わたしはこの夏、二回おぼえた。
*
三日、倉庫に行かなかった。
四日目も、五日目も。
夜鷹さんは、来なかった。
最初の二日は、来るのが怖かった。
三日目からは、来ないのが怖かった。
*
わたしは、自分を観察するようになった。
朝、顔を洗う。
――この洗いかたは、誰のものだろう。
歯を磨く。右の奥歯から始める。
――これは。
味噌汁をよそうとき、お玉を二回底に沈めてから注ぐ。そうしないと具が上だけになるから。
――これは、誰の癖だ。
三年間、わたしがわたしだと思ってやってきた動作の、一つ一つに、値札がついているような気がした。
そして、そのどれにも、他人の名前が書いてあるような気がした。
*
六日目の夜、ひなたが泣いた。
寝る前に、二段ベッドの上から落ちたらしい。おでこにたんこぶを作って、ひっくひっくと泣いていた。
「ましろねえ」
わたしは、床に座った。
ひなたが、ぴったりくっついて座る。
肩と肩が触れる。十四キロと少しが、わたしの左半身に預けられる。
いつもどおりだった。
「歌、うたおうか」
「うたう」
わたしは、息を吸った。
――そして、出てこなかった。
*
口はひらいた。
喉も動いた。
旋律は、頭のなかで鳴っていた。
三拍子の、短い歌。最後だけ、ふしぎな下がりかたをする歌。
完璧に、鳴っていた。
なのに、声にならなかった。
喉の途中に、透明な蓋がしてあるみたいだった。
「ましろねえ?」
「……ん」
「うたわないの?」
「……ちょっと、待ってね」
もう一度、息を吸った。
だめだった。
あの歌は、わたしのものじゃない。
あの歌をうたうわたしは、誰かの真似をしているだけだ。
そう思った瞬間、喉が、完全に閉じた。
*
「ましろねえ、こわいかお」
ひなたが、わたしを見上げていた。
たんこぶをさすりながら。
「ごめん」
わたしは立ち上がった。
「ごめんね、ひなた」
「うたって」
「ごめん」
「ましろねえ」
「ごめんなさい」
わたしは、部屋を出た。
廊下を歩いて、自分の部屋に入って、ドアを閉めて、そこにしゃがみこんだ。
ドアの向こうで、ひなたがまだ泣いていた。
三年間、あの子を泣きやませてきた道具を、わたしは失くしていた。
いや。
最初から、借り物だったのだ。
*
七日目の朝、五時に目が覚めた。
体が、勝手に起きた。
二十日間、毎朝そうしてきたからだ。
わたしはしばらく天井を見ていて、それから、着替えて、家を出た。
行き先は、決めていなかった。
決めていなかったのに、電車は運河のほうへ向かった。
*
倉庫は、そのままだった。
錆びた扉。割れたガラス。梁から垂れた切れたワイヤー。
油のしみが地図みたいに広がった床。
誰も、いなかった。
当たり前だった。
わたしは、床の真ん中まで歩いた。
シャッターの隙間から、朝日が一本、線みたいに差し込んでいた。
その線のなかを、埃がゆっくり回っていた。
*
シャッターのわきに、スーパーの袋が置いてあった。
中を見た。
卵が、二パック。
賞味期限は、三日前に切れていた。
――買っておいたのだ。
あの夜より、前に。
わたしが来るつもりで。
(……ばかみたい)
わたしは袋を持ち上げて、それから、下ろした。
*
床に、コップが二つ、並べたままになっていた。
片方には、水が入っていた。
三週間ぶんの埃が浮いて、縁のあたりに薄い輪ができていた。
わたしは、その前にしゃがんだ。
右、三百二十グラム。
左、百八十グラム。
合計、五百グラム。
手を伸ばした。
右の重さを、抜く。
左に、乗せる。
一グラムも余らせずに。
――できた。
二つのコップは、静かに、重さを交換した。
誰も見ていなかった。
褒める人も、「五センチって言ったでしょう」と文句を言う人も、いなかった。
*
わたしは、コップを元に戻して、倉庫を出た。
出るとき、一度だけ振り返った。
何もない倉庫だった。
鉄骨と、錆と、埃と、期限切れの卵があるだけの場所だった。
それなのに、喉の奥が、痛かった。
*
次の日、佐伯さんに訊いてみた。
洗濯物をたたみながら、なるべく、なんでもない顔で。
「佐伯さん」
「なによ」
「わたしがここに来たとき、どんな子でした?」
佐伯さんは、タオルをたたむ手を止めた。
「なによ急に。就活?」
「いいから」
「うーん」
彼女は、少し考えてから、笑った。
「変な子だったわよ」
「変」
「そりゃ変よ。名前も歳も分からないのに、敬語だけはきっちりしてて。ごはん食べるとき、いただきますって、ちゃんと手を合わせるのね。誰も教えてないのに」
――夜鷹さんだ。
わたしは、そう思った。
全部、あの人のものだ。
「それとね」
佐伯さんは、タオルをぽんと置いた。
「来た日の晩ね、あんた、ひなたくらいの歳の子が泣いてたの、覚えてる?」
「……覚えてないです」
「あんた、自分だってわけ分かんない状態でさ。名前もないのよ? どこの誰かも分かんないの。それなのに、その子の隣に座って、ずーっと歌うたってたのよ。二時間くらい」
わたしは、手を止めた。
「――二時間」
「そう。あたし、あれ見てね」
佐伯さんは、なんでもないことのように言った。
「ああ、この子は大丈夫だなって思ったの」
*
わたしは、しばらく黙っていた。
それから、訊いた。
「……その歌、誰かに教わったんだと思いますか」
「さあねえ」
佐伯さんは、次のタオルを取った。
「でも、あたしは思ったわよ。この子、誰かにうたってもらったことがあるんだなって」
「……」
「うたってもらったことのない子は、うたわないもの」
わたしは、洗濯かごの縁を、強く握った。
――うたってもらった。
誰に。
わたしには、その前が無いのに。
「佐伯さん」
「なによ」
「わたし、変ですか」
「変よ」
佐伯さんは、即答した。
そして、いつものように、ぱんと手を叩いて笑った。
「でもね、ここの子はみんな変よ。変じゃない子なんか、うちには来ないの」
*
その夜、わたしは引き出しからノートを出した。
大学ノートの三冊目。
ペンを持った。
七月十日の欄は、空白のままになっていた。
二週間前、わたしが「腕」と書いて、線で消した場所だ。
わたしは、その空白に、書いた。
柏木、と。
三年間、物の名前ばかり書いてきたノートに、初めて人の名前が入った。
そのあと、しばらくペンを持ったまま、動けなかった。
書けなかったのは、その下の行だ。
もう一人、名前を知らない人がいる。
二年前の駅のホームで、わたしが両腕を折った人。
わたしは、その人の名前を、思い出せないふりをしていた。
本当は、知っていた。




