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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
第四章 勝手だ

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19/50

1 うたえない

 息を吸うと、右の脇腹が痛んだ。


 肋骨だ。ひびが入っているのだと思う。


 病院には行かなかった。行けば、どうやってこうなったのかを訊かれる。二十四トンのコンテナを体に入れましたと言うわけにはいかない。


「ましろちゃん、また転んだの?」


「転んだ」


「あんた、最近転びすぎ」


 佐伯さんは呆れて、それから湿布を三枚くれた。


 この人は、本当に、いつも何も訊かない。


 訊かないでいてくれることが、こんなに苦しいものだとは知らなかった。


 その言いかたを、わたしはこの夏、二回おぼえた。



 三日、倉庫に行かなかった。


 四日目も、五日目も。


 夜鷹さんは、来なかった。


 最初の二日は、来るのが怖かった。


 三日目からは、来ないのが怖かった。



 わたしは、自分を観察するようになった。


 朝、顔を洗う。


 ――この洗いかたは、誰のものだろう。


 歯を磨く。右の奥歯から始める。


 ――これは。


 味噌汁をよそうとき、お玉を二回底に沈めてから注ぐ。そうしないと具が上だけになるから。


 ――これは、誰の癖だ。


 三年間、わたしがわたしだと思ってやってきた動作の、一つ一つに、値札がついているような気がした。


 そして、そのどれにも、()()()()()が書いてあるような気がした。



 六日目の夜、ひなたが泣いた。


 寝る前に、二段ベッドの上から落ちたらしい。おでこにたんこぶを作って、ひっくひっくと泣いていた。


「ましろねえ」


 わたしは、床に座った。


 ひなたが、ぴったりくっついて座る。


 肩と肩が触れる。十四キロと少しが、わたしの左半身に預けられる。


 いつもどおりだった。


「歌、うたおうか」


「うたう」


 わたしは、息を吸った。


 ――そして、()()()()()()()



 口はひらいた。


 喉も動いた。


 旋律は、頭のなかで鳴っていた。


 三拍子の、短い歌。最後だけ、ふしぎな下がりかたをする歌。


 完璧に、鳴っていた。


 なのに、声にならなかった。


 喉の途中に、透明な蓋がしてあるみたいだった。


「ましろねえ?」


「……ん」


「うたわないの?」


「……ちょっと、待ってね」


 もう一度、息を吸った。


 だめだった。


 あの歌は、わたしのものじゃない。


 あの歌をうたうわたしは、()()()()()()()()()()()()だ。


 そう思った瞬間、喉が、完全に閉じた。



「ましろねえ、こわいかお」


 ひなたが、わたしを見上げていた。


 たんこぶをさすりながら。


「ごめん」


 わたしは立ち上がった。


「ごめんね、ひなた」


「うたって」


「ごめん」


「ましろねえ」


「ごめんなさい」


 わたしは、部屋を出た。


 廊下を歩いて、自分の部屋に入って、ドアを閉めて、そこにしゃがみこんだ。


 ドアの向こうで、ひなたがまだ泣いていた。


 三年間、あの子を泣きやませてきた道具を、わたしは失くしていた。


 いや。


 ()()()()()()()()()()()()



 七日目の朝、五時に目が覚めた。


 体が、勝手に起きた。


 二十日間、毎朝そうしてきたからだ。


 わたしはしばらく天井を見ていて、それから、着替えて、家を出た。


 行き先は、決めていなかった。


 決めていなかったのに、電車は運河のほうへ向かった。



 倉庫は、そのままだった。


 錆びた扉。割れたガラス。梁から垂れた切れたワイヤー。


 油のしみが地図みたいに広がった床。


 誰も、いなかった。


 当たり前だった。


 わたしは、床の真ん中まで歩いた。


 シャッターの隙間から、朝日が一本、線みたいに差し込んでいた。


 その線のなかを、埃がゆっくり回っていた。



 シャッターのわきに、スーパーの袋が置いてあった。


 中を見た。


 卵が、二パック。


 賞味期限は、三日前に切れていた。


 ――買っておいたのだ。


 あの夜より、前に。


 わたしが来るつもりで。


 (……ばかみたい)


 わたしは袋を持ち上げて、それから、下ろした。



 床に、コップが二つ、並べたままになっていた。


 片方には、水が入っていた。


 三週間ぶんの埃が浮いて、縁のあたりに薄い輪ができていた。


 わたしは、その前にしゃがんだ。


 右、三百二十グラム。


 左、百八十グラム。


 合計、五百グラム。


 手を伸ばした。


 右の重さを、抜く。


 左に、乗せる。


 一グラムも余らせずに。


 ――()()()


 二つのコップは、静かに、重さを交換した。


 誰も見ていなかった。


 褒める人も、「五センチって言ったでしょう」と文句を言う人も、いなかった。



 わたしは、コップを元に戻して、倉庫を出た。


 出るとき、一度だけ振り返った。


 何もない倉庫だった。


 鉄骨と、錆と、埃と、期限切れの卵があるだけの場所だった。


 それなのに、喉の奥が、痛かった。



 次の日、佐伯さんに訊いてみた。


 洗濯物をたたみながら、なるべく、なんでもない顔で。


「佐伯さん」


「なによ」


「わたしがここに来たとき、どんな子でした?」


 佐伯さんは、タオルをたたむ手を止めた。


「なによ急に。就活?」


「いいから」


「うーん」


 彼女は、少し考えてから、笑った。


「変な子だったわよ」


「変」


「そりゃ変よ。名前も歳も分からないのに、敬語だけはきっちりしてて。ごはん食べるとき、いただきますって、ちゃんと手を合わせるのね。誰も教えてないのに」


 ――()()()()()


 わたしは、そう思った。


 全部、あの人のものだ。


「それとね」


 佐伯さんは、タオルをぽんと置いた。


「来た日の晩ね、あんた、ひなたくらいの歳の子が泣いてたの、覚えてる?」


「……覚えてないです」


「あんた、自分だってわけ分かんない状態でさ。名前もないのよ? どこの誰かも分かんないの。それなのに、その子の隣に座って、ずーっと歌うたってたのよ。二時間くらい」


 わたしは、手を止めた。


「――二時間」


「そう。あたし、あれ見てね」


 佐伯さんは、なんでもないことのように言った。


「ああ、この子は大丈夫だなって思ったの」



 わたしは、しばらく黙っていた。


 それから、訊いた。


「……その歌、誰かに教わったんだと思いますか」


「さあねえ」


 佐伯さんは、次のタオルを取った。


「でも、あたしは思ったわよ。この子、誰かにうたってもらったことがあるんだなって」


「……」


「うたってもらったことのない子は、うたわないもの」


 わたしは、洗濯かごの縁を、強く握った。


 ――()()()()()()()()


 誰に。


 わたしには、その前が無いのに。


「佐伯さん」


「なによ」


「わたし、変ですか」


「変よ」


 佐伯さんは、即答した。


 そして、いつものように、ぱんと手を叩いて笑った。


「でもね、ここの子はみんな変よ。変じゃない子なんか、うちには来ないの」



 その夜、わたしは引き出しからノートを出した。


 大学ノートの三冊目。


 ペンを持った。


 七月十日の欄は、空白のままになっていた。


 二週間前、わたしが「腕」と書いて、線で消した場所だ。


 わたしは、その空白に、書いた。


 ()()、と。


 三年間、物の名前ばかり書いてきたノートに、初めて人の名前が入った。


 そのあと、しばらくペンを持ったまま、動けなかった。


 書けなかったのは、その下の行だ。


 もう一人、名前を知らない人がいる。


 二年前の駅のホームで、わたしが両腕を折った人。


 わたしは、その人の名前を、()()()()()()()()()()()()()


 本当は、知っていた。

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