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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
第四章 勝手だ

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2 人間ごっこ

 七月十八日、終業式。


 体育館は蒸し風呂みたいで、校長先生の話の途中で三人倒れた。


 教室に戻って、通知表をもらって、そのあと大掃除をして、それで一学期は終わりだった。


「ましろー!」


 千早が、机の上に身を乗り出してきた。


「浴衣、借りてきたよ! おかんの若いときのやつ。紺色でさ、金魚の柄。似合うと思うんだよね、ましろ色白いから」


「……そう」


「あと、うちで着付けやるから。おかんできるから」


「うん」


「二日の、四時くらいに来て。髪もやるから」


「うん」


「……ましろ」


 千早の声が、変わった。


「聞いてる?」


「聞いてる」


「聞いてない顔してる」



 教室には、もうほとんど人が残っていなかった。


 窓の外で、蝉が狂ったように鳴いていた。


 わたしは、自分の机の木目を見ていた。


 五・八キロ。


 ――この数字を見ているのは、誰だろう。


「ましろ」


「……ねえ、千早」


 わたしは、顔を上げた。


 なるべく、平らな声を出そうとした。


「千早は、わたしのこと、なんにも知らないでしょ」


 千早の表情が、止まった。


「……は?」


「わたしの誕生日、知ってる?」


「――知らないけど」


「わたしも知らない」


 わたしは笑った。


 自分でも、ひどい笑いかただと思った。


「本名も知らない。どこで生まれたかも知らない。親が誰かも知らない。()()()()()()()()


「ましろ、なに」


「千早が知ってるのは、湊真白って名前の、書類の上の人だよ」


「なにそれ」


「だから」


 わたしは、言った。


 言ってはいけないと知っていることを、はっきりと。


()()()()()()()()()()()()()()()()()



 沈黙が落ちた。


 蝉の声が、やけに大きかった。


 千早は、しばらく動かなかった。


 それから、ゆっくりと、机から身を起こした。


「……ましろさ」


「なに」


「わたし、ばかだからさ」


 千早の声は、震えていた。


 怒りで震えているのだと、わたしは思った。


 違った。


 彼女は、泣きそうになっているのを、()()()()()()


「言ってる意味、半分も分かんないけど」


「うん」


「でも一個だけ分かった」


 千早は、わたしを見た。


 まっすぐに。


「ましろ、いま、()()()()()()()()()()()()()



 心臓が、止まった。


「そんなこと」


「してるよ」


「してない」


「してる。()()()、してる」


 千早は、鞄の紐を、ぎゅっと握っていた。


「ましろがそういうことする子じゃないの、わたし知ってるから。だから分かるんだよ。いま、わざとやってる」


「――」


「なんで?」


 わたしは、答えられなかった。


 答えなんて、簡単だった。


 近くにいてほしくないからだ。


 この子の隣にいる資格が、わたしにはもう無いからだ。


 でも、それを言うためには、全部を説明しなければならなかった。


 そして、説明したら、()()()()()()()()


 逃げないから、言えなかった。



「……ごめん」


 わたしは、うつむいた。


「それ、なんの『ごめん』?」


「――分からない」


「分かんないのに謝んないでよ」


 千早は、鞄を肩にかけた。


 そして、ドアのところまで行って、振り返った。


「八月二日」


「……」


「六時。土手の上」


「千早」


()()()()()()


 彼女は、それだけ言って、出ていった。


 わたしは、誰もいない教室で、しばらく座っていた。


 蝉が、鳴きやまなかった。



 昇降口を出たとき、校門のところに千早がいた。


 帰っていなかったのだ。


 自販機の前で、缶を二本持って、立っていた。


 わたしに気づくと、彼女は片方を、ぐい、と突き出した。


 冷たいカフェオレだった。


 わたしが好きなやつだ。


「……なんで」


「買っちゃったから」


 千早は、そっぽを向いていた。


 目のふちが、赤かった。


「べつに、仲直りとかじゃないから。()()()()()()()()()()()()


「……」


「はい。持って」


 わたしは、受け取った。


 百九十グラム。


 ひんやりして、表面が汗をかいていた。


「じゃあね」


 千早は、それだけ言って、走っていった。


 自転車置き場のほうへ。


 わたしは、缶を両手で持ったまま、そこに立っていた。


 缶は、だんだんぬるくなった。


 結局、その日、わたしはそれを飲まなかった。


 飲んでしまうのが、もったいなかった。



 その帰り道、わたしは、自分の胸のあたりを何度も押さえた。


 痛かった。


 肋骨のひびのせいじゃなかった。


 もっと上の、もっと真ん中のあたりが、締めつけられるみたいに痛かった。


 (――()()()()()()()()()()


 その考えが浮かんだ瞬間、わたしは道の真ん中で立ち止まった。


 もし、この痛みも借り物なら。


 千早を傷つけたことが苦しいのも、夜鷹さんのものなら。


 ()()()()()()()()()()()()()


 夕方の住宅街で、犬が吠えていた。


 わたしは、そこから動けなかった。



 部屋に戻って、押し入れを開けた。


 いちばん奥に、それはあった。


 黄色いビニール傘。


 骨が一本折れていて、そこだけ内側にへこんでいる。


 六月の、あの夜に借りたまま、返していない傘だった。


 わたしは、それを取り出して、床にひらいた。


 狭い部屋のなかで、黄色い天井ができた。


 折れた骨のところが、ぼこ、とへこんだまま持ち上がる。


 その形は、一ヶ月前と、まったく同じだった。



『壊れてても使えるんだから、えらいでしょ、この傘』


 千早の声が、耳の奥で再生された。


 へへ、と笑った顔ごと。


 わたしは、傘の内側を見上げていた。


 ――えらい、のか。


 わたしは、傘に訊いてみた。


 傘は、答えなかった。


 当たり前だ。傘だから。


 でも、たぶん、千早ならこう言う。


 「えらいに決まってんじゃん」


 そして、たぶん、理由は説明しない。


 説明しないまま、勝手に決めて、勝手に押しつけてくる。


 いつもそうだった。



 わたしは、傘を閉じた。


 そして、また押し入れの奥に戻した。


 返せなかった。


 返してしまったら、もう会わない理由ができてしまう気がしたからだ。


 自分でも、ずるいと思った。


 千早を遠ざけようとしておいて、傘だけは抱えている。


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 どこかの誰かに、似ていた。

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