2 人間ごっこ
七月十八日、終業式。
体育館は蒸し風呂みたいで、校長先生の話の途中で三人倒れた。
教室に戻って、通知表をもらって、そのあと大掃除をして、それで一学期は終わりだった。
「ましろー!」
千早が、机の上に身を乗り出してきた。
「浴衣、借りてきたよ! おかんの若いときのやつ。紺色でさ、金魚の柄。似合うと思うんだよね、ましろ色白いから」
「……そう」
「あと、うちで着付けやるから。おかんできるから」
「うん」
「二日の、四時くらいに来て。髪もやるから」
「うん」
「……ましろ」
千早の声が、変わった。
「聞いてる?」
「聞いてる」
「聞いてない顔してる」
*
教室には、もうほとんど人が残っていなかった。
窓の外で、蝉が狂ったように鳴いていた。
わたしは、自分の机の木目を見ていた。
五・八キロ。
――この数字を見ているのは、誰だろう。
「ましろ」
「……ねえ、千早」
わたしは、顔を上げた。
なるべく、平らな声を出そうとした。
「千早は、わたしのこと、なんにも知らないでしょ」
千早の表情が、止まった。
「……は?」
「わたしの誕生日、知ってる?」
「――知らないけど」
「わたしも知らない」
わたしは笑った。
自分でも、ひどい笑いかただと思った。
「本名も知らない。どこで生まれたかも知らない。親が誰かも知らない。わたしも知らない」
「ましろ、なに」
「千早が知ってるのは、湊真白って名前の、書類の上の人だよ」
「なにそれ」
「だから」
わたしは、言った。
言ってはいけないと知っていることを、はっきりと。
「知ろうとしなくていいよ。中身、無いから」
*
沈黙が落ちた。
蝉の声が、やけに大きかった。
千早は、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと、机から身を起こした。
「……ましろさ」
「なに」
「わたし、ばかだからさ」
千早の声は、震えていた。
怒りで震えているのだと、わたしは思った。
違った。
彼女は、泣きそうになっているのを、こらえていた。
「言ってる意味、半分も分かんないけど」
「うん」
「でも一個だけ分かった」
千早は、わたしを見た。
まっすぐに。
「ましろ、いま、わたしを傷つけようとしてる」
*
心臓が、止まった。
「そんなこと」
「してるよ」
「してない」
「してる。わざと、してる」
千早は、鞄の紐を、ぎゅっと握っていた。
「ましろがそういうことする子じゃないの、わたし知ってるから。だから分かるんだよ。いま、わざとやってる」
「――」
「なんで?」
わたしは、答えられなかった。
答えなんて、簡単だった。
近くにいてほしくないからだ。
この子の隣にいる資格が、わたしにはもう無いからだ。
でも、それを言うためには、全部を説明しなければならなかった。
そして、説明したら、この子は逃げない。
逃げないから、言えなかった。
*
「……ごめん」
わたしは、うつむいた。
「それ、なんの『ごめん』?」
「――分からない」
「分かんないのに謝んないでよ」
千早は、鞄を肩にかけた。
そして、ドアのところまで行って、振り返った。
「八月二日」
「……」
「六時。土手の上」
「千早」
「待ってるから」
彼女は、それだけ言って、出ていった。
わたしは、誰もいない教室で、しばらく座っていた。
蝉が、鳴きやまなかった。
*
昇降口を出たとき、校門のところに千早がいた。
帰っていなかったのだ。
自販機の前で、缶を二本持って、立っていた。
わたしに気づくと、彼女は片方を、ぐい、と突き出した。
冷たいカフェオレだった。
わたしが好きなやつだ。
「……なんで」
「買っちゃったから」
千早は、そっぽを向いていた。
目のふちが、赤かった。
「べつに、仲直りとかじゃないから。溶けるともったいないから」
「……」
「はい。持って」
わたしは、受け取った。
百九十グラム。
ひんやりして、表面が汗をかいていた。
「じゃあね」
千早は、それだけ言って、走っていった。
自転車置き場のほうへ。
わたしは、缶を両手で持ったまま、そこに立っていた。
缶は、だんだんぬるくなった。
結局、その日、わたしはそれを飲まなかった。
飲んでしまうのが、もったいなかった。
*
その帰り道、わたしは、自分の胸のあたりを何度も押さえた。
痛かった。
肋骨のひびのせいじゃなかった。
もっと上の、もっと真ん中のあたりが、締めつけられるみたいに痛かった。
(――これは、誰のものだろう)
その考えが浮かんだ瞬間、わたしは道の真ん中で立ち止まった。
もし、この痛みも借り物なら。
千早を傷つけたことが苦しいのも、夜鷹さんのものなら。
わたしには、何が残るんだろう。
夕方の住宅街で、犬が吠えていた。
わたしは、そこから動けなかった。
*
部屋に戻って、押し入れを開けた。
いちばん奥に、それはあった。
黄色いビニール傘。
骨が一本折れていて、そこだけ内側にへこんでいる。
六月の、あの夜に借りたまま、返していない傘だった。
わたしは、それを取り出して、床にひらいた。
狭い部屋のなかで、黄色い天井ができた。
折れた骨のところが、ぼこ、とへこんだまま持ち上がる。
その形は、一ヶ月前と、まったく同じだった。
*
『壊れてても使えるんだから、えらいでしょ、この傘』
千早の声が、耳の奥で再生された。
へへ、と笑った顔ごと。
わたしは、傘の内側を見上げていた。
――えらい、のか。
わたしは、傘に訊いてみた。
傘は、答えなかった。
当たり前だ。傘だから。
でも、たぶん、千早ならこう言う。
「えらいに決まってんじゃん」
そして、たぶん、理由は説明しない。
説明しないまま、勝手に決めて、勝手に押しつけてくる。
いつもそうだった。
*
わたしは、傘を閉じた。
そして、また押し入れの奥に戻した。
返せなかった。
返してしまったら、もう会わない理由ができてしまう気がしたからだ。
自分でも、ずるいと思った。
千早を遠ざけようとしておいて、傘だけは抱えている。
中身が無いくせに、手放すのだけは下手だ。
どこかの誰かに、似ていた。




