3 箸の持てない人
佐伯さんの机の、いちばん下の引き出し。
鍵はかかっていなかった。かかっていないことを、わたしは知っていた。
書類の束のなかに、それはあった。
二年前の、示談書のコピー。
わたしは、その紙を、三年ぶりに読んだ。
田辺 修一。
当時四十四歳。会社員。
両前腕骨骨折。全治六ヶ月。
住所が、書いてあった。
電車で、四十分の距離だった。
*
七月二十四日。
わたしは、その駅で降りた。
なんのために行くのか、自分でも分かっていなかった。
謝りに行くのではない。
謝られたら、あの人はもっと嫌な思いをするだけだ。
ただ、確かめたかった。
わたしがあの人にしたことを、わたしがちゃんと痛いと思っているのかを。
もし、その痛みが夜鷹さんのものなら。
わたしは、たぶん、もう何も引き受けなくていいことになる。
楽になれる。
――楽になりたくて、来たのかもしれない。
*
住所の場所は、古い五階建ての団地だった。
外階段に自転車が停めてあって、ベランダに布団が干してあって、どこかの部屋からテレビの音が漏れていた。
わたしは、向かいの児童公園のベンチに座った。
二時間、待った。
*
蝉がうるさかった。
自販機で買った水が、ぬるくなった。
公園には、小さい子を連れたおばあさんが一人いた。
三歳くらいの男の子が、砂場でひたすら穴を掘っていた。
掘っては崩し、掘っては崩し。
おばあさんは、日傘の下で、それをずっと見ていた。
何も言わずに。
手も出さずに。
――そういうことが、できる人がいる。
わたしは、それをぼんやり眺めながら、頭のなかで何度も練習していた。
(こんにちは)
(あの、突然すみません)
(二年前の、駅のホームのことなんですけど)
――だめだ。
(あの、わたし、あのときの)
――だめだ。
どう言っても、この人の一日を壊すだけだった。
二年かけてやっと元に戻ってきた誰かの生活に、わたしが土足で上がっていくだけだった。
*
男の子が転んで、泣いた。
おばあさんは、立ち上がらなかった。
ベンチに座ったまま、「いたかったねえ」とだけ言った。
男の子は、しばらく泣いて、それから自分で立ち上がって、また掘りはじめた。
わたしは、それを見ていた。
(――助けないことも、あるんだ)
そんな当たり前のことに、わたしはそのとき、初めて気づいたような気がした。
助けないことが、いつも冷たさとは限らない。
見ていることが、何もしていないとは限らない。
――一年間、わたしを見ていた人のことを、なぜか思い出した。
*
そして、六時すぎ。
団地の入り口から、一人の男の人が出てきた。
*
分かった。
顔なんて、ほとんど覚えていなかった。
でも、分かった。
腕の使いかたで分かった。
その人は、コンビニの袋を、手で持っていなかった。
両方の前腕にひっかけて、体に寄せるようにして抱えていた。
肘から先が、うまく回らないのだ。
歩きかたも、少し不自然だった。腕を振らずに歩く人は、ああいうふうになる。
*
わたしは、立ち上がっていた。
気づいたら、立っていた。
心臓が、めちゃくちゃに鳴っていた。
――行って、どうするんだ。
――こんにちは。二年前にあなたの腕を折った者です。あれから、どうですか。
――そんなことを言いに来たのか。
――あなたのためじゃない。自分のために来たんだろう。
足が、動かなかった。
*
そのとき。
袋の持ち手が、ずるりと滑った。
前腕から外れて、袋が落ちる。
牛乳のパックが転がって、卵のパックが宙に浮いた。
――卵。
考えるより先に、わたしの手が動いた。
距離は、二十メートル以上あった。
それでも、届いた。
十七グラム掛ける十個。
わたしは、その百七十グラムを、そっと受け取った。
二週間、毎朝五時から、六十個割りながらおぼえた手つきで。
卵のパックが、地面の三センチ上で、止まった。
そして、ゆっくりと、地面に降りた。
ことり、と音を立てて。
一つも割れなかった。
牛乳のパックも、転がるのをやめて、その場でくるりと立ち上がった。
*
田辺さんは、ぽかんとして、それを見ていた。
それから、あたりを見回した。
公園のほうにも、目を向けた。
わたしは、とっさに木の陰に隠れた。
しばらくして、彼は首をかしげながら、しゃがんで、不自由な腕で袋をまとめ直した。
卵のパックを持ち上げて、透かすようにして中を確かめて。
そして――ほんの少し、笑った。
割れていなかったからだと思う。
それだけの理由で、笑った。
その顔を見て、わたしは、木の陰で、しゃがみこんだ。
*
涙が出た。
止まらなかった。
口を押さえて、声が出ないようにした。
(――これは、誰の涙なんだろう)
その問いは、まだ、頭のなかにあった。
でも、そのときのわたしには、一つだけ分かったことがあった。
答えが分からなくても、痛いものは痛い。
誰のものであっても、痛い。
持ち主が誰であろうと、いま持っているのは、わたしだ。
重さには、いつも受け取り手が要る。
夜鷹さんが、そう言っていた。
わたしは、二年前からずっと、この重さの受け取り手だった。
*
団地を出て、駅まで歩いた。
空が、オレンジから紫に変わっていくところだった。
坂を下りながら、わたしは、ひとつ決めた。
うたおう、と思った。
あの子守唄が誰のものでも、いい。
ひなたが泣いたら、うたおう。
借り物だろうがなんだろうが、ひなたの涙は、わたしが受け取ったものだ。
*
若葉園の坂の下に、黒いコートが立っていた。
二週間ぶりだった。
わたしは、足を止めた。
夜鷹さんは、街灯の下に立っていた。
その姿を見て、わたしの決意は、一瞬で吹き飛んだ。
*
足が、地面についていなかった。
つま先が、アスファルトから、五センチほど浮いていた。
彼女は、街灯の柱に、腕を回してしがみついていた。
そうしていなければ、流されてしまうから。
コートのポケットは、はち切れそうに膨らんでいた。
腰には、見たことのないベルトが巻かれていた。
工事現場で使うような、太い、金属のプレートがいくつもぶら下がったベルト。
錘だ。
それでも、足りていなかった。
「……夜鷹さん」
「遅い」
彼女は、いつもと同じ声で言った。
「どこに行っていたの」
「ちょっと」
「そう」
夜鷹さんは、街灯から手を離さないまま、あごをしゃくった。
「来なさい。話がある」




