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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
第四章 勝手だ

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3 箸の持てない人

 佐伯さんの机の、いちばん下の引き出し。


 鍵はかかっていなかった。かかっていないことを、わたしは知っていた。


 書類の束のなかに、それはあった。


 二年前の、示談書のコピー。


 わたしは、その紙を、三年ぶりに読んだ。


 ()() ()()


 当時四十四歳。会社員。


 両前腕骨骨折。全治六ヶ月。


 住所が、書いてあった。


 電車で、四十分の距離だった。



 七月二十四日。


 わたしは、その駅で降りた。


 なんのために行くのか、自分でも分かっていなかった。


 謝りに行くのではない。


 謝られたら、あの人はもっと嫌な思いをするだけだ。


 ただ、確かめたかった。


 わたしがあの人にしたことを、()()()()()()()()()()()()()()()()()()を。


 もし、その痛みが夜鷹さんのものなら。


 わたしは、たぶん、もう何も引き受けなくていいことになる。


 楽になれる。


 ――()()()()()()()()()()()()()()()()



 住所の場所は、古い五階建ての団地だった。


 外階段に自転車が停めてあって、ベランダに布団が干してあって、どこかの部屋からテレビの音が漏れていた。


 わたしは、向かいの児童公園のベンチに座った。


 二時間、待った。



 蝉がうるさかった。


 自販機で買った水が、ぬるくなった。


 公園には、小さい子を連れたおばあさんが一人いた。


 三歳くらいの男の子が、砂場でひたすら穴を掘っていた。


 掘っては崩し、掘っては崩し。


 おばあさんは、日傘の下で、それをずっと見ていた。


 何も言わずに。


 手も出さずに。


 ――そういうことが、できる人がいる。


 わたしは、それをぼんやり眺めながら、頭のなかで何度も練習していた。


 (こんにちは)


 (あの、突然すみません)


 (二年前の、駅のホームのことなんですけど)


 ――だめだ。


 (あの、わたし、あのときの)


 ――だめだ。


 どう言っても、この人の一日を壊すだけだった。


 二年かけてやっと元に戻ってきた誰かの生活に、わたしが土足で上がっていくだけだった。



 男の子が転んで、泣いた。


 おばあさんは、立ち上がらなかった。


 ベンチに座ったまま、「いたかったねえ」とだけ言った。


 男の子は、しばらく泣いて、それから自分で立ち上がって、また掘りはじめた。


 わたしは、それを見ていた。


 (――()()()()()()()()()()()


 そんな当たり前のことに、わたしはそのとき、初めて気づいたような気がした。


 助けないことが、いつも冷たさとは限らない。


 見ていることが、何もしていないとは限らない。


 ――一年間、わたしを見ていた人のことを、なぜか思い出した。



 そして、六時すぎ。


 団地の入り口から、一人の男の人が出てきた。



 分かった。


 顔なんて、ほとんど覚えていなかった。


 でも、分かった。


 ()()使()()()()で分かった。


 その人は、コンビニの袋を、手で持っていなかった。


 両方の前腕にひっかけて、体に寄せるようにして抱えていた。


 肘から先が、うまく回らないのだ。


 歩きかたも、少し不自然だった。腕を振らずに歩く人は、ああいうふうになる。



 わたしは、立ち上がっていた。


 気づいたら、立っていた。


 心臓が、めちゃくちゃに鳴っていた。


 ――行って、どうするんだ。


 ――こんにちは。二年前にあなたの腕を折った者です。あれから、どうですか。


 ――そんなことを言いに来たのか。


 ――あなたのためじゃない。()()()()()に来たんだろう。


 足が、動かなかった。



 そのとき。


 袋の持ち手が、ずるりと滑った。


 前腕から外れて、袋が落ちる。


 牛乳のパックが転がって、卵のパックが宙に浮いた。


 ――()


 考えるより先に、わたしの手が動いた。


 距離は、二十メートル以上あった。


 それでも、届いた。


 ()()()()()()()()()()


 わたしは、その百七十グラムを、そっと受け取った。


 二週間、毎朝五時から、六十個割りながらおぼえた手つきで。


 卵のパックが、地面の三センチ上で、止まった。


 そして、ゆっくりと、地面に降りた。


 ことり、と音を立てて。


 一つも割れなかった。


 牛乳のパックも、転がるのをやめて、その場でくるりと立ち上がった。



 田辺さんは、ぽかんとして、それを見ていた。


 それから、あたりを見回した。


 公園のほうにも、目を向けた。


 わたしは、とっさに木の陰に隠れた。


 しばらくして、彼は首をかしげながら、しゃがんで、不自由な腕で袋をまとめ直した。


 卵のパックを持ち上げて、透かすようにして中を確かめて。


 そして――ほんの少し、笑った。


 割れていなかったからだと思う。


 それだけの理由で、笑った。


 その顔を見て、わたしは、木の陰で、しゃがみこんだ。



 涙が出た。


 止まらなかった。


 口を押さえて、声が出ないようにした。


 (――これは、誰の涙なんだろう)


 その問いは、まだ、頭のなかにあった。


 でも、そのときのわたしには、一つだけ分かったことがあった。


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()


 誰のものであっても、痛い。


 持ち主が誰であろうと、()()()()()()()()()()()()()


 重さには、いつも受け取り手が要る。


 夜鷹さんが、そう言っていた。


 わたしは、二年前からずっと、この重さの受け取り手だった。



 団地を出て、駅まで歩いた。


 空が、オレンジから紫に変わっていくところだった。


 坂を下りながら、わたしは、ひとつ決めた。


 ()()()()、と思った。


 あの子守唄が誰のものでも、いい。


 ひなたが泣いたら、うたおう。


 借り物だろうがなんだろうが、ひなたの涙は、()()()()()()()()()()()()



 若葉園の坂の下に、黒いコートが立っていた。


 二週間ぶりだった。


 わたしは、足を止めた。


 夜鷹さんは、街灯の下に立っていた。


 その姿を見て、わたしの決意は、一瞬で吹き飛んだ。



 ()()()()()()()()()()()()()


 つま先が、アスファルトから、五センチほど浮いていた。


 彼女は、街灯の柱に、腕を回してしがみついていた。


 そうしていなければ、流されてしまうから。


 コートのポケットは、はち切れそうに膨らんでいた。


 腰には、見たことのないベルトが巻かれていた。


 工事現場で使うような、太い、金属のプレートがいくつもぶら下がったベルト。


 ()だ。


 それでも、足りていなかった。


「……夜鷹さん」


「遅い」


 彼女は、いつもと同じ声で言った。


「どこに行っていたの」


「ちょっと」


「そう」


 夜鷹さんは、街灯から手を離さないまま、あごをしゃくった。


「来なさい。話がある」

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