4 戻ってきなさい
七階まで、二十分かかった。
夜鷹さんが、階段を上れなかったからだ。
正確には、上るのは簡単だった。軽いから。
止まるのが、難しかった。
一段踏むごとに、体がふわりと浮き上がる。手すりを掴んで引き戻す。その繰り返しだった。
「手を貸しましょうか」
「いらない」
「でも」
「いらない」
結局、七階に着くまでに、彼女は三回、天井にぶつかった。
*
部屋は、前と同じだった。
何もなかった。
椅子が一脚。窓際に、電気スタンドが一つ。
台所に、コップとやかん。
部屋の隅に、畳んだ薄い毛布。
変わったことが、二つあった。
一つは、窓が全部、養生テープで目張りされていたこと。
もう一つは、椅子に、ロープが結んであったこと。
*
夜鷹さんは、椅子に座った。
そして、手慣れた動作で、腰のあたりにロープを回して、椅子の背に結んだ。
片手で。
右手は、使っていなかった。
見ると、右腕は、肘から先が、ほとんど輪郭だけになっていた。
黒いコートの袖のなかに、ぼんやりとした灰色の靄が詰まっているように見えた。
「……座りなさい」
「はい」
わたしは、床に座った。
いつもの、窓際の場所に。
コップは、渡されなかった。
やかんまで歩く体力が、この人にはもう無いのだと思った。
*
「結論から言うわ」
夜鷹さんは言った。
「私の体は、崩れはじめている」
「……はい」
「重さが、抜けている。もう三年、抜けつづけている。最初は指先だけだった。次に髪。それから腕」
彼女は、輪郭だけの右腕を、無造作に持ち上げた。
「あと三週間で、たぶん、全部抜ける」
「抜けたら」
「無くなるわ。どこにも行かない。ただ、無くなる」
その言いかたは、あまりにも事務的だった。
自分の話をしているようには、聞こえなかった。
*
「理由は分かる?」
「……穴、ですか」
「そう」
夜鷹さんは、少しだけ目を細めた。
「三年前、私は自分の一部を切り出した。切り出したら、当然、穴が空く」
「はい」
「ふつうなら、穴は塞がるの。切り株から新しい芽が出るみたいにね。時間はかかるけれど、体はそういうふうにできている」
「塞がらなかったんですか」
「塞がらないのよ」
彼女は、窓の外を見た。
目張りされた窓の、テープの隙間から、東京の明かりが細く漏れていた。
「切り出したものが、生きているから」
*
「わたし、ですか」
「そう」
「わたしが生きてると、穴が塞がらない」
「体が、まだ『そこに続きがある』と思っているのよ」
夜鷹さんは、自分の胸を、左手で軽く叩いた。
「ここから先が、まだあるはずだと。だから閉じない。閉じないから、漏れる」
「――」
「三年間、漏れつづけた。それだけの話」
*
「……一個、訊いていいですか」
「どうぞ」
「なんで、すぐに回収しに来なかったんですか」
夜鷹さんの指が、ロープの上で止まった。
「三年です。三年間、わたしは同じ場所にいました。同じ施設で、同じ学校に通って」
「……」
「探せば、見つかったはずです」
*
「――見つけたわ」
彼女は言った。
「え」
「去年の、五月」
わたしは、息を止めた。
「……一年、前」
「そう」
「一年前に、見つけてたんですか」
「見つけた」
夜鷹さんは、なんでもないことのように言った。
「駅前の商店街よ。あなたが、自転車を避けようとして、電柱にぶつかった日」
――覚えている。
去年の五月。自転車とぶつかりそうになって、とっさに飛びのいて、電柱に肩を打った日だ。
あのとき、電柱が、ぐにゃりと歪んだ。
わたしは真っ青になって、走って逃げた。
ノートには、こう書いた。
『五月十四日 駅前 電柱』
「あれを見て、分かったわ。ああ、あそこにいる、と」
*
「じゃあ、なんで」
わたしの声は、かすれていた。
「なんで、一年、放っておいたんですか」
「必要がなかったからよ」
即答だった。
「私が死ぬと分かるまでは、回収する理由がなかった。ただそれだけ」
「……」
「あなたが外を歩いていても、私は困らなかったの」
*
わたしは、床の木目を見ていた。
それから、顔を上げた。
「じゃあ、一年間、何を見てたんですか」
夜鷹さんが、わたしを見た。
「――なに?」
「必要がなかったなら、忘れればいい話です。見なければよかった」
わたしは言った。
「でも、あなたは、わたしの筆箱が潰れたことを知ってました。わたしが階段で手を引っ込めたことを知ってました。廊下の端しか歩かないことも」
「――」
「あれ、全部、見てたからですよね」
夜鷹さんは、答えなかった。
左手が、ロープを、また握っていた。
「三つのルールだって、そうです」
わたしは続けた。
「走らない、怒らない、触れない。あれ、あなたが決めたルールじゃない。わたしが、三年かけて自分で作ったルールです」
そこまで言って、わたしは気づいた。
喉が、熱くなっていた。
「あなたはそれを、全部、見てたんだ」
「――」
「一年間。ずっと」
*
窓の外で、車のクラクションが鳴った。
夜鷹さんは、目張りされた窓のほうを向いていた。
テープの隙間から、東京の明かりが、細く一本、彼女の頬に落ちていた。
「……あなたが、あまりにも下手だったからよ」
やがて、彼女は言った。
「え」
「力の使いかたが。見ていられないくらい下手だった」
「それで、一年」
「――そう」
ひどい嘘だ、と思った。
この人がつく嘘は、いつも、ひどく下手だった。
*
わたしは、膝の上で、手を握った。
言われることは、分かっていた。
ここへ上がってくる階段の途中で、もう分かっていた。
それでも、心臓が痛かった。
「戻ってきなさい」
夜鷹さんは、言った。
まっすぐに、わたしを見て。
「あなたが戻れば、穴は塞がる。私は死なない」
「……」
「難しいことじゃないわ。触れて、抵抗しなければいい。一瞬よ。痛くもない」
「一瞬」
「ええ」
「――わたしは、どうなるんですか」
*
夜鷹さんは、答えなかった。
三秒。
四秒。
その沈黙が、いちばん残酷だった。
この人は、嘘をつく気がない。
嘘をつけば済むのに、つかない。
そして、本当のことを言うのが、少しだけ怖いのだ。
「――無くなるわ」
やがて、彼女は言った。
「あなたという形は、無くなる。私のなかに戻って、また私の一部になる」
「わたしの意識は」
「残らない」
「記憶は」
「私が持つことになるでしょうね。あなたのものとしてではなく」
「――千早のことも」
「私のものになる」
*
「……もう一個だけ」
わたしは言った。
「あの夜、訊きましたよね。優しいのも、あなたのものですかって」
夜鷹さんの左手が、わずかに動いた。
「あなたは、それは私のものじゃないって言いました」
「言ったわ」
「じゃあ、誰のなんですか」
部屋が、静かになった。
電気スタンドが、じ、と鳴っていた。
「分からない」
夜鷹さんは言った。
「本当に、分からないのよ。三年前に切り出したのは、力だけのはずだった。それ以外のものが、なぜあなたについていったのか」
「――」
「私の手元には、無いの」
その言いかたに、わたしは引っかかった。
無かった、ではない。
無い、でもない。
手元には無い。
「それって」
わたしが言いかけたとき、彼女は目を逸らした。
「もういいでしょう」
話は、そこで終わった。
*
わたしは、しばらく黙っていた。
部屋のなかは、静かだった。
電気スタンドが、じ、と小さな音を立てていた。
窓の外で、遠くを走る電車の音がした。
そして、わたしは訊いた。
自分でも驚くほど、静かな声で。
「それは、お願いですか」
「――」
「それとも、命令ですか」
*
夜鷹さんは、わたしを見た。
少し、戸惑ったような顔をした。
質問の意味が分からない、という顔だった。
本当に、分からないのだ。
そして、彼女は、いつもの調子で言った。
高圧的に。
冷ややかに。
あの人が、ほかの言いかたを知らないというだけの理由で。
「命令よ」




