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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
第四章 勝手だ

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22/50

4 戻ってきなさい

 七階まで、二十分かかった。


 夜鷹さんが、階段を上れなかったからだ。


 正確には、上るのは簡単だった。軽いから。


 ()()()()()、難しかった。


 一段踏むごとに、体がふわりと浮き上がる。手すりを掴んで引き戻す。その繰り返しだった。


「手を貸しましょうか」


「いらない」


「でも」


()()()()


 結局、七階に着くまでに、彼女は三回、天井にぶつかった。



 部屋は、前と同じだった。


 何もなかった。


 椅子が一脚。窓際に、電気スタンドが一つ。


 台所に、コップとやかん。


 部屋の隅に、畳んだ薄い毛布。


 変わったことが、二つあった。


 一つは、窓が全部、養生テープで目張りされていたこと。


 もう一つは、()()()()()()()()()()()()()こと。



 夜鷹さんは、椅子に座った。


 そして、手慣れた動作で、腰のあたりにロープを回して、椅子の背に結んだ。


 片手で。


 右手は、使っていなかった。


 見ると、右腕は、肘から先が、()()()()()()()()になっていた。


 黒いコートの袖のなかに、ぼんやりとした灰色の靄が詰まっているように見えた。


「……座りなさい」


「はい」


 わたしは、床に座った。


 いつもの、窓際の場所に。


 コップは、渡されなかった。


 やかんまで歩く体力が、この人にはもう無いのだと思った。



「結論から言うわ」


 夜鷹さんは言った。


「私の体は、崩れはじめている」


「……はい」


「重さが、抜けている。もう三年、抜けつづけている。最初は指先だけだった。次に髪。それから腕」


 彼女は、輪郭だけの右腕を、無造作に持ち上げた。


「あと三週間で、たぶん、全部抜ける」


「抜けたら」


「無くなるわ。どこにも行かない。()()()()()()


 その言いかたは、あまりにも事務的だった。


 自分の話をしているようには、聞こえなかった。



「理由は分かる?」


「……穴、ですか」


「そう」


 夜鷹さんは、少しだけ目を細めた。


「三年前、私は自分の一部を切り出した。切り出したら、当然、()()()()


「はい」


「ふつうなら、穴は塞がるの。切り株から新しい芽が出るみたいにね。時間はかかるけれど、体はそういうふうにできている」


「塞がらなかったんですか」


「塞がらないのよ」


 彼女は、窓の外を見た。


 目張りされた窓の、テープの隙間から、東京の明かりが細く漏れていた。


()()()()()()()()()()()()()()()



「わたし、ですか」


「そう」


「わたしが生きてると、穴が塞がらない」


「体が、まだ『そこに続きがある』と思っているのよ」


 夜鷹さんは、自分の胸を、左手で軽く叩いた。


「ここから先が、まだあるはずだと。だから閉じない。閉じないから、漏れる」


「――」


「三年間、漏れつづけた。それだけの話」



「……一個、訊いていいですか」


「どうぞ」


「なんで、すぐに回収しに来なかったんですか」


 夜鷹さんの指が、ロープの上で止まった。


「三年です。三年間、わたしは同じ場所にいました。同じ施設で、同じ学校に通って」


「……」


「探せば、見つかったはずです」



「――見つけたわ」


 彼女は言った。


「え」


「去年の、五月」


 わたしは、息を止めた。


「……一年、前」


「そう」


「一年前に、見つけてたんですか」


「見つけた」


 夜鷹さんは、なんでもないことのように言った。


「駅前の商店街よ。あなたが、自転車を避けようとして、電柱にぶつかった日」


 ――覚えている。


 去年の五月。自転車とぶつかりそうになって、とっさに飛びのいて、電柱に肩を打った日だ。


 あのとき、電柱が、ぐにゃりと歪んだ。


 わたしは真っ青になって、走って逃げた。


 ノートには、こう書いた。


 『五月十四日 駅前 電柱』


「あれを見て、分かったわ。ああ、あそこにいる、と」



「じゃあ、なんで」


 わたしの声は、かすれていた。


「なんで、一年、放っておいたんですか」


「必要がなかったからよ」


 即答だった。


「私が死ぬと分かるまでは、回収する理由がなかった。ただそれだけ」


「……」


「あなたが外を歩いていても、私は困らなかったの」



 わたしは、床の木目を見ていた。


 それから、顔を上げた。


「じゃあ、一年間、何を見てたんですか」


 夜鷹さんが、わたしを見た。


「――なに?」


「必要がなかったなら、忘れればいい話です。見なければよかった」


 わたしは言った。


「でも、あなたは、わたしの筆箱が潰れたことを知ってました。わたしが階段で手を引っ込めたことを知ってました。廊下の端しか歩かないことも」


「――」


()()()()()()()()()()()()()


 夜鷹さんは、答えなかった。


 左手が、ロープを、また握っていた。


「三つのルールだって、そうです」


 わたしは続けた。


「走らない、怒らない、触れない。あれ、あなたが決めたルールじゃない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()です」


 そこまで言って、わたしは気づいた。


 喉が、熱くなっていた。


「あなたはそれを、全部、見てたんだ」


「――」


「一年間。ずっと」



 窓の外で、車のクラクションが鳴った。


 夜鷹さんは、目張りされた窓のほうを向いていた。


 テープの隙間から、東京の明かりが、細く一本、彼女の頬に落ちていた。


「……あなたが、あまりにも下手だったからよ」


 やがて、彼女は言った。


「え」


「力の使いかたが。見ていられないくらい下手だった」


「それで、一年」


「――そう」


 ひどい嘘だ、と思った。


 この人がつく嘘は、いつも、ひどく下手だった。



 わたしは、膝の上で、手を握った。


 言われることは、分かっていた。


 ここへ上がってくる階段の途中で、もう分かっていた。


 それでも、心臓が痛かった。


「戻ってきなさい」


 夜鷹さんは、言った。


 まっすぐに、わたしを見て。


「あなたが戻れば、穴は塞がる。私は死なない」


「……」


「難しいことじゃないわ。触れて、抵抗しなければいい。一瞬よ。痛くもない」


「一瞬」


「ええ」


「――()()()()()()()()()()()()



 夜鷹さんは、答えなかった。


 三秒。


 四秒。


 その沈黙が、いちばん残酷だった。


 この人は、嘘をつく気がない。


 嘘をつけば済むのに、つかない。


 そして、本当のことを言うのが、少しだけ怖いのだ。


「――無くなるわ」


 やがて、彼女は言った。


「あなたという形は、無くなる。私のなかに戻って、また私の一部になる」


「わたしの意識は」


「残らない」


「記憶は」


「私が持つことになるでしょうね。()()()()()()()()()()()()()


「――千早のことも」


「私のものになる」



「……もう一個だけ」


 わたしは言った。


「あの夜、訊きましたよね。優しいのも、あなたのものですかって」


 夜鷹さんの左手が、わずかに動いた。


「あなたは、それは私のものじゃないって言いました」


「言ったわ」


「じゃあ、()()()()()()()


 部屋が、静かになった。


 電気スタンドが、じ、と鳴っていた。


「分からない」


 夜鷹さんは言った。


「本当に、分からないのよ。三年前に切り出したのは、力だけのはずだった。それ以外のものが、なぜあなたについていったのか」


「――」


()()()()()()()()()


 その言いかたに、わたしは引っかかった。


 無かった、ではない。


 無い、でもない。


 ()()()()()()


「それって」


 わたしが言いかけたとき、彼女は目を逸らした。


「もういいでしょう」


 話は、そこで終わった。



 わたしは、しばらく黙っていた。


 部屋のなかは、静かだった。


 電気スタンドが、じ、と小さな音を立てていた。


 窓の外で、遠くを走る電車の音がした。


 そして、わたしは訊いた。


 自分でも驚くほど、静かな声で。


「それは、()()()ですか」


「――」


「それとも、命令ですか」



 夜鷹さんは、わたしを見た。


 少し、戸惑ったような顔をした。


 質問の意味が分からない、という顔だった。


 本当に、分からないのだ。


 そして、彼女は、いつもの調子で言った。


 高圧的に。


 冷ややかに。


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「命令よ」

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