5 勝手だ
最初に、電気スタンドが消えた。
球が割れたのではない。
電球の重さが、抜けた。
フィラメントがふわりと浮いて、ガラスの内側で、ぷつん、と切れた。
部屋が暗くなった。
目張りの隙間から漏れる、東京の明かりだけが残った。
*
「そんなの」
わたしの声は、思ったよりも低かった。
「そんなの、勝手だ」
「真白」
「勝手だって言ってるんです!」
*
床が、鳴った。
フローリングが、ぎしり、と反った。
部屋には、椅子が一脚と、電気スタンドが一つしかなかった。
だから、浮いたのは、部屋の外のものだった。
隣の部屋から、がたん、と音がした。
その隣からも。
下の階からも。
このマンションの、七階ぜんぶの、すべての部屋の、すべての家具が。
テレビが。冷蔵庫が。テーブルが。食器棚が。積んであった雑誌の山が。
一斉に、浮いた。
どこかで人が悲鳴を上げた。
犬が吠えた。
建物そのものが、低く、うめくような音を立てた。
*
「散々、苦労させて!」
わたしは叫んでいた。
叫びながら、自分の口から出てくる言葉が、止められなかった。
「三年です! 三年間、わたしがどうやって生きてきたか、知ってますか!」
「――」
「筆箱が潰れるたびに謝って! 階段で転んだ子に手を伸ばして、途中で引っ込めて! 抱っこしてって言われて、腕が痛いって嘘ついて!」
窓が、震えはじめた。
「電車に乗るのが怖くて、二駅歩いて! 誰かとぶつかるのが怖くて、廊下の端しか歩かなくて! 笑うときも、加減して笑って!」
「真白、落ち着き」
「人の腕を折ったんです、わたし!」
*
窓が、きしみはじめた。
「毎朝五時に起きて、卵を六十個割って!」
わたしは叫んでいた。
「怒れって言われて、触れって言われて、走れって言われて! 三年かけて作ったルールを、全部、たった二週間で壊されて!」
「――」
「壊されて、それで、わたし、ちょっとだけ」
喉が、詰まった。
「ちょっとだけ、生きてる感じがしたんです」
夜鷹さんの肩が、動いた。
「卵が浮いた日、うれしかったんです。ばかみたいに。あなたが笑ったのを見て、うれしかったんです」
「真白」
「それも、返さなきゃいけないんですか」
*
窓ガラスが、砕けた。
目張りのテープごと、内側から押し出されるようにして。
この階の、すべての窓が。
ガラスの破片が、夜の空へ飛び出して、そして、落ちなかった。
何千枚もの破片が、東京の光を受けて、部屋の外の空中に、そのまま留まった。
星みたいに。
風が、部屋に吹き込んだ。
夜鷹さんの髪が、めちゃくちゃに舞い上がった。
彼女は、ロープで椅子に縛られたまま、動かなかった。
*
「あの人、いまも箸が持てないんです」
わたしは言った。
声が、震えていた。
「コンビニの袋も、手で持てないんです。腕をこう、抱えるみたいにして」
「――」
「その罪は、誰のものなんですか」
夜鷹さんは、答えなかった。
「わたしですか。あなたですか。どっちなんですか」
「……」
「わたしのだって言うなら、いいです。ちゃんと背負います。一生、背負います。それはもう、決めました」
わたしは、一歩、前に出た。
「でも、あなたのだって言うなら」
*
「捨てたくせに」
その言葉が、口から出た瞬間、部屋のなかの空気が、ずん、と沈んだ。
「捨てたじゃないですか。三年前に。いらないって、二度と戻らないようにって、お金を払って、切り出して」
「……」
「捨てておいて」
「散々、わたしに苦労させておいて」
「今さら」
わたしは、叫んだ。
「今さら返せなんて、自分勝手だ!」
*
建物が、悲鳴を上げた。
鉄筋が軋む音。コンクリートが割れる音。
浮いていた家具が、いっせいに天井にぶつかった。
どん、どん、どん、と何十もの音が、上から降ってきた。
わたしは、自分が何をしているのか分かっていた。
分かっていて、止められなかった。
三年ぶんが、出ていた。
押さえつけて、蓋をして、ノートに三行ずつ書いて、飲み込んできたものが。
全部。
*
そして、夜鷹さんは。
笑った。
*
声を立てて笑ったわけではない。
ただ、口の端が、ゆっくりと持ち上がった。
自分を嗤うときの、あの形に。
「――そうね」
彼女は言った。
風のなかで、はっきりと。
「疎んでいた力のほうから、嫌われるとはね」
*
その一言で、わたしのなかの何かが、ぷつりと切れた。
力が、抜けた。
浮いていたものが、いっせいに落ちた。
どすん、どすん、と、部屋の外で、何十もの家具が床に叩きつけられる音がした。
空中に留まっていたガラスの破片も、雨みたいに降っていった。
下の道路で、車のアラームが鳴りはじめた。
風が、止まった。
*
わたしは、肩で息をしていた。
夜鷹さんは、椅子に座ったまま、わたしを見ていた。
その顔は、また、いつもの無表情に戻っていた。
――いや。
違った。
よく見ると、彼女の左手が、ロープを握りしめていた。
指が、白くなっていた。
「……夜鷹さん」
「なに」
「一個、訊いていいですか」
「どうぞ」
*
「あなた、いま、わたしに死んでほしいって頼んだんですよ」
「――」
「それ、命令でやることですか」
夜鷹さんの目が、わずかに見開かれた。
「わたし、たぶん、お願いされてたら、考えたと思います」
わたしは言った。
自分でも意外なほど、静かな声だった。
「本当です。考えました。あなた、死にかけてるし。わたしのせいだし」
「……」
「でも、あなたは命令したんです」
「……それ以外の、言いかたが」
夜鷹さんは、そこまで言って、口を閉じた。
そして、しばらくしてから、ぽつりと続けた。
「――分からないのよ」
*
わたしは、その言葉を聞いた。
聞いて、なぜか、泣きそうになった。
この人は、頼みかたを知らないのだ。
人に何かをお願いするという行為の、やりかたを。
三年前、たった一度だけ、この人は誰かに何かを頼んだ。
『この力を、私から切り離してください』
たぶん、それが最後だった。
*
「――帰ります」
わたしは、言った。
「真白」
「帰ります」
「私は、あと三週間」
「知ってます」
わたしは、玄関のほうへ歩いた。
割れた窓から、生ぬるい夏の風が吹き込んでいた。
下で、誰かが叫んでいた。警察を呼べ、と言っていた。
「――待って」
背中に、声がかかった。
初めて聞く声だった。
高圧的でも、冷ややかでもない声。
わたしは、止まらなかった。
止まったら、うなずいてしまいそうだったから。
*
ドアを開ける直前、わたしは一度だけ振り返った。
真っ暗な部屋の真ん中に、椅子に縛られた人が、一人。
右腕は、もう、ほとんど見えなかった。
彼女は、こちらに手を伸ばしかけて、やめた。
そして、いつもの声で言った。
「気をつけて帰りなさい。夜道は暗いから」
――それが、あの人にできる、精一杯だった。
わたしは、ドアを閉めた。




