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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
第四章 勝手だ

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5 勝手だ

 最初に、電気スタンドが消えた。


 球が割れたのではない。


 ()()()()()()()()()


 フィラメントがふわりと浮いて、ガラスの内側で、ぷつん、と切れた。


 部屋が暗くなった。


 目張りの隙間から漏れる、東京の明かりだけが残った。



「そんなの」


 わたしの声は、思ったよりも低かった。


「そんなの、()()()


「真白」


「勝手だって言ってるんです!」



 床が、鳴った。


 フローリングが、ぎしり、と反った。


 部屋には、椅子が一脚と、電気スタンドが一つしかなかった。


 だから、浮いたのは、()()()()()()()だった。


 隣の部屋から、がたん、と音がした。


 その隣からも。


 下の階からも。


 このマンションの、七階ぜんぶの、すべての部屋の、すべての家具が。


 テレビが。冷蔵庫が。テーブルが。食器棚が。積んであった雑誌の山が。


 ()()()()()()


 どこかで人が悲鳴を上げた。


 犬が吠えた。


 建物そのものが、低く、うめくような音を立てた。



「散々、苦労させて!」


 わたしは叫んでいた。


 叫びながら、自分の口から出てくる言葉が、止められなかった。


「三年です! 三年間、わたしがどうやって生きてきたか、知ってますか!」


「――」


「筆箱が潰れるたびに謝って! 階段で転んだ子に手を伸ばして、途中で引っ込めて! 抱っこしてって言われて、腕が痛いって嘘ついて!」


 窓が、震えはじめた。


「電車に乗るのが怖くて、二駅歩いて! 誰かとぶつかるのが怖くて、廊下の端しか歩かなくて! 笑うときも、加減して笑って!」


「真白、落ち着き」


()()()()()()()()()()()()()!」



 窓が、きしみはじめた。


「毎朝五時に起きて、卵を六十個割って!」


 わたしは叫んでいた。


「怒れって言われて、触れって言われて、走れって言われて! 三年かけて作ったルールを、全部、たった二週間で壊されて!」


「――」


「壊されて、それで、わたし、ちょっとだけ」


 喉が、詰まった。


「ちょっとだけ、()()()()()()()()()()()()


 夜鷹さんの肩が、動いた。


「卵が浮いた日、うれしかったんです。ばかみたいに。あなたが笑ったのを見て、うれしかったんです」


「真白」


()()()()()()()()()()()()()()()()



 窓ガラスが、砕けた。


 目張りのテープごと、内側から押し出されるようにして。


 この階の、すべての窓が。


 ガラスの破片が、夜の空へ飛び出して、そして、()()()()()()


 何千枚もの破片が、東京の光を受けて、部屋の外の空中に、そのまま留まった。


 星みたいに。


 風が、部屋に吹き込んだ。


 夜鷹さんの髪が、めちゃくちゃに舞い上がった。


 彼女は、ロープで椅子に縛られたまま、動かなかった。



「あの人、いまも箸が持てないんです」


 わたしは言った。


 声が、震えていた。


「コンビニの袋も、手で持てないんです。腕をこう、抱えるみたいにして」


「――」


()()()()()()()()()()()()()


 夜鷹さんは、答えなかった。


「わたしですか。あなたですか。どっちなんですか」


「……」


「わたしのだって言うなら、いいです。ちゃんと背負います。一生、背負います。それはもう、決めました」


 わたしは、一歩、前に出た。


「でも、あなたのだって言うなら」



()()()()()()


 その言葉が、口から出た瞬間、部屋のなかの空気が、ずん、と沈んだ。


「捨てたじゃないですか。三年前に。いらないって、二度と戻らないようにって、お金を払って、切り出して」


「……」


「捨てておいて」


「散々、わたしに苦労させておいて」


「今さら」


 わたしは、叫んだ。


()()()()()()()()()()()()()!()



 建物が、悲鳴を上げた。


 鉄筋が軋む音。コンクリートが割れる音。


 浮いていた家具が、いっせいに天井にぶつかった。


 どん、どん、どん、と何十もの音が、上から降ってきた。


 わたしは、自分が何をしているのか分かっていた。


 分かっていて、止められなかった。


 三年ぶんが、出ていた。


 押さえつけて、蓋をして、ノートに三行ずつ書いて、飲み込んできたものが。


 全部。



 そして、夜鷹さんは。


 笑った。



 声を立てて笑ったわけではない。


 ただ、口の端が、ゆっくりと持ち上がった。


 自分を嗤うときの、あの形に。


「――そうね」


 彼女は言った。


 風のなかで、はっきりと。


()()()()()()()()()()()()()()()()()()



 その一言で、わたしのなかの何かが、ぷつりと切れた。


 力が、抜けた。


 浮いていたものが、いっせいに落ちた。


 どすん、どすん、と、部屋の外で、何十もの家具が床に叩きつけられる音がした。


 空中に留まっていたガラスの破片も、雨みたいに降っていった。


 下の道路で、車のアラームが鳴りはじめた。


 風が、止まった。



 わたしは、肩で息をしていた。


 夜鷹さんは、椅子に座ったまま、わたしを見ていた。


 その顔は、また、いつもの無表情に戻っていた。


 ――いや。


 違った。


 よく見ると、彼女の左手が、ロープを握りしめていた。


 指が、白くなっていた。


「……夜鷹さん」


「なに」


「一個、訊いていいですか」


「どうぞ」



「あなた、いま、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「――」


「それ、命令でやることですか」


 夜鷹さんの目が、わずかに見開かれた。


「わたし、たぶん、お願いされてたら、考えたと思います」


 わたしは言った。


 自分でも意外なほど、静かな声だった。


「本当です。考えました。あなた、死にかけてるし。わたしのせいだし」


「……」


「でも、あなたは命令したんです」


「……それ以外の、言いかたが」


 夜鷹さんは、そこまで言って、口を閉じた。


 そして、しばらくしてから、ぽつりと続けた。


「――()()()()()()()



 わたしは、その言葉を聞いた。


 聞いて、なぜか、泣きそうになった。


 この人は、頼みかたを知らないのだ。


 人に何かをお願いするという行為の、やりかたを。


 三年前、たった一度だけ、この人は誰かに何かを頼んだ。


 『この力を、私から切り離してください』


 たぶん、それが最後だった。



「――帰ります」


 わたしは、言った。


「真白」


「帰ります」


「私は、あと三週間」


「知ってます」


 わたしは、玄関のほうへ歩いた。


 割れた窓から、生ぬるい夏の風が吹き込んでいた。


 下で、誰かが叫んでいた。警察を呼べ、と言っていた。


「――待って」


 背中に、声がかかった。


 初めて聞く声だった。


 高圧的でも、冷ややかでもない声。


 わたしは、止まらなかった。


 止まったら、うなずいてしまいそうだったから。



 ドアを開ける直前、わたしは一度だけ振り返った。


 真っ暗な部屋の真ん中に、椅子に縛られた人が、一人。


 右腕は、もう、ほとんど見えなかった。


 彼女は、こちらに手を伸ばしかけて、やめた。


 そして、いつもの声で言った。


「気をつけて帰りなさい。()()()()()()()


 ――それが、あの人にできる、精一杯だった。


 わたしは、ドアを閉めた。

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