6 私は、何なんだ
階段を、七階ぶん下りた。
途中の階では、住人が廊下に出て騒いでいた。
ガラスが割れた、家具が飛んだ、地震だ、いや違う、と口々に言っていた。
誰も、わたしを見なかった。
制服の女子高生が階段を下りていくことなんて、この騒ぎのなかでは、何の意味も持たなかった。
*
外に出て、しばらく歩いて、公園に入った。
誰もいなかった。
砂場のふちに座って、わたしは、膝を抱えた。
夏の夜だった。
生ぬるい風が吹いていた。
どこかで、風鈴が鳴っていた。
*
わたしは、考えた。
わたしは、人間じゃない。
それは、もう確定してしまった。
書類の上の湊真白は、三年前に家庭裁判所が作った器だ。中身の説明にはならない。
じゃあ、魔女なのか。
――違う。
魔女は、あの人だ。
わたしは、あの人から切り取られたものだ。
力そのものだ。
鋏で切って、箱に入れて、値段をつけて、売るはずだったもの。
立ち上がって、歩いて、逃げ出したもの。
人間じゃない。
魔女でもない。
じゃあ、なんだ。
*
「――私は、何なんだ」
*
声に出してみた。
誰も、答えなかった。
当たり前だった。
砂場に、誰かが忘れていったスコップが転がっていた。
街灯の光が、その黄色いプラスチックを、鈍く照らしていた。
四十グラム。
わたしには、それが見えた。
見えてしまった。
こんなときでも、わたしはちゃんと、重さを見ていた。
(――ああ)
(これだけは、間違いなく、わたしだ)
この目だけは、貸し借りじゃない。
わたしがそれだからだ。
*
ポケットのなかで、何かが当たった。
取り出すと、赤い包み紙だった。
いちごのキャンディ。
――いつのまに。
わたしは、それをしばらく見ていた。
たぶん、あの部屋を出るときに、押しつけられたのだと思う。
あるいは、あの人が、最後に投げてよこしたのかもしれない。
ひなたがあげたキャンディを。
三グラムの、錘にもならないものを。
捨てかたが分からなかったものを。
*
わたしは、それを握りしめた。
そして、顔を、膝に埋めた。
肩が震えた。
声は、出さなかった。
風鈴が、鳴っていた。
*
顔を上げたとき、東の空が、ほんの少しだけ白んでいた。
朝が来る。
誰が何であっても、朝は来る。
わたしは、手のなかのキャンディを見た。
三グラム。
――このキャンディは、誰のものだろう。
ひなたが、夜鷹さんにあげた。
夜鷹さんは、捨てられなかった。
そして、わたしのポケットに入っている。
持ち主は、三回変わった。
変わっても、これは、いちごのキャンディのままだった。
中身は、ずっと同じだった。
(――そういうこともある、のかな)
わたしは、その考えを、うまく形にできなかった。
でも、消えもしなかった。
砂場のふちに座ったまま、わたしは、それをずっと握っていた。
*
始発が動く時間になって、わたしは電車に乗った。
誰もいない車両だった。
窓の外が、少しずつ明るくなっていった。
最寄り駅で降りて、若葉園には戻らずに、土手のほうへ歩いた。
なぜそっちへ行ったのかは、自分でも分からない。
通学路だ。
桜並木の下の、いつもの道。
七月の桜は、花なんて一つもなくて、ただ緑がもさもさしているだけだった。
朝の四時半で、蝉はまだ鳴いていなかった。
かわりに、川の音がした。
*
土手を上がって、てっぺんに立った。
河川敷が見下ろせた。
草が、朝露で白っぽくなっていた。
二日後、ここに屋台が並ぶ。
そして、向こう岸の上で、花火が上がる。
千早は、ここに立って、待つと言った。
六時に。
紺色の、金魚の浴衣で。
――行けない。
わたしは、そう思った。
こんな中身で、あの子の隣に立てるわけがない。
浴衣を着せてもらって、髪を結ってもらって、それで何食わぬ顔で花火を見るなんて。
それはもう、人間ごっこですらない。
ただの、嘘だ。
*
わたしは、土手の草の上に座った。
空が、白から、薄い水色になった。
鳥が鳴きはじめた。
――『待ってるから』
千早の声が、また、勝手に再生された。
わたしは、両手で顔を覆った。
「……ずるいよ」
誰に言ったのか、分からなかった。
*
どれくらいそうしていたのか分からない。
ポケットのスマホが、震えた。
画面には、通知が一つ。
『ましろ
浴衣、しつけ糸取っといたから。
二日、四時。
うちで待ってる。』
日付を見た。
七月三十一日。
あと、二日だった。




