1 八月二日
八月二日は、ばかみたいに晴れた。
朝から蝉が鳴いていて、廊下のリノリウムが素足に熱かった。
若葉園の玄関に、誰かが風鈴を吊るしていた。ひなただ。去年の夏祭りでもらったやつを、毎年この時期に出してくる。
わたしは、九時に起きた。
昨日の夜は、一睡もしていなかった。
*
「ましろねえ」
台所で麦茶を飲んでいたら、ひなたが足元にくっついてきた。
「なに」
「きょう、はなびでしょ」
「……なんで知ってるの」
「さえきさんが言ってた。ましろねえ、おめかしして出かけるって」
佐伯さんめ、と思った。
わたしは、コップを流しに置いた。
置いた手が、少し震えていた。
*
行かない、と決めていた。
三日前の夜明けに、土手の上で、そう決めた。
こんな中身で、あの子の隣に立てるわけがない。
浴衣を着せてもらって、髪を結ってもらって、何食わぬ顔で花火を見る。
それはもう、嘘だ。
嘘をつくのはやめて、と、千早は言った。
だから、行かない。
――そう、決めたはずだった。
*
「ましろねえ」
ひなたが、わたしの浴衣の袖を――いや、Tシャツの裾を引っぱった。
「なに」
「うた」
「え」
「うた、うたって」
わたしは、その場で固まった。
*
二週間、うたえなかった。
喉の途中に、透明な蓋がしてあった。
あの歌は、わたしのものじゃない。
借り物だ。お下がりだ。
わたしがうたうのは、誰かの真似をしているだけだ。
そう思った瞬間、いつも喉が閉じた。
――でも。
わたしは、しゃがんだ。
ひなたと、目の高さを合わせた。
この子の涙は、三年間、わたしが受け取ってきた。
誰のものであっても。
持ち主が誰であっても。
いま持っているのは、わたしだ。
*
「……うたうね」
「うん」
わたしは、息を吸った。
そして、うたった。
ゆっくりした、三拍子の、短い旋律。
最後だけ、ふしぎな下がりかたをする歌。
――出た。
声が、ちゃんと出た。
かすれていた。ひどく下手だった。
でも、出た。
ひなたは、床にぺたんと座って、満足そうに聞いていた。
台所の入り口で、佐伯さんが立ち止まって、こっちを見ていた。
何も言わなかった。
ただ、ふきんで手を拭きながら、そのまま行ってしまった。
*
三回くりかえしたところで、わたしは、うたうのをやめた。
ひなたが「まだ」と言った。
「ごめん」
わたしは立ち上がった。
「ごめん、ひなた。ちょっと、行かなきゃ」
「どこ?」
「――友達のとこ」
自分の口から出た言葉に、自分でびっくりした。
友達。
わたしに、そんなものを名乗る資格があるのか。
でも、あるかないかを決めるのは、たぶん、わたしじゃない。
決めるのは、向こうだ。
だったら、決めてもらいに行かなければならない。
*
部屋に戻って、押し入れを開けた。
黄色いビニール傘を取り出した。
骨が一本、折れたままの傘。
それから、机の上に置きっぱなしだった、缶を一つ。
冷たいカフェオレ。
七月十八日に、校門で押しつけられたやつだ。
開けられなかった。飲んだら、無くなってしまう気がして。
二週間、ぬるくなったまま、机の上にあった。
わたしは、その二つを、鞄に入れた。
*
玄関で靴を履いていたら、佐伯さんが来た。
洗濯かごを抱えたまま、こちらを見下ろしている。
「ましろちゃん」
「はい」
「浴衣、向こうで着せてもらうんでしょ」
「……はい」
「そう」
佐伯さんは、それだけ言って、行こうとした。
行きかけて、止まった。
「あんたさ」
「はい」
「最近、なんかあるでしょ」
わたしは、靴紐を結ぶ手を止めた。
「……ないです」
「あるわよ」
佐伯さんは、笑っていなかった。
「あたしね、この仕事二十八年やってるの。子どもが嘘つくときの顔なんて、何千回も見てんのよ」
「――」
「言いたくないなら、いい」
彼女は、洗濯かごを持ち直した。
「でも一個だけ。帰ってきなさい」
わたしは、うつむいたまま、うなずいた。
うなずくだけなら、嘘にはならないと思った。
――ずるい子だ、と自分で思った。
*
そして、家を出た。
*
坂を下りながら、わたしは、一度だけ振り返った。
風鈴が鳴っていた。
――嘘をつくのは、やめよう。
今日、全部話す。
怖がられてもいい。
逃げられてもいい。
それでも、あの子には、本当のことを知る権利がある。
わたしは、歩き出した。
まだ、午後二時だった。




