2 紺色の金魚
「あんた遅い!」
ドアを開けた瞬間、千早がそう言った。
四時ちょうどだった。
「四時って言ったじゃん」
「四時に着いてちゃ遅いんだって! 着付けって時間かかるの!」
「知らなかった」
「知らないでしょうね!」
千早のお母さんが、奥から顔を出した。
「あら真白ちゃん、いらっしゃい。ちーちゃん、朝から五回くらい時計見てたわよ」
「見てないから!」
「見てたわよ」
「見てないっつってんの!」
わたしは、玄関で靴を脱ぎながら、なんだか泣きそうになった。
この家は、あいかわらず、うるさくて、あたたかくて、揚げ物のにおいがした。
*
浴衣は、紺色だった。
金魚の柄。赤と白の金魚が、裾のほうで泳いでいた。
「おかんのやつだから、ちょっと古いんだけど」
千早は、それを畳の上に広げた。
「でも色いいでしょ。ましろ色白いから、絶対似合う」
「……うん」
「返事が薄い」
「似合うと思う」
「それでよし」
*
着付けは、千早のお母さんがやってくれた。
わたしは、両腕を横に広げたまま、置物みたいに立っていた。
腰のあたりで、紐がきゅっと締まる。
「はい、息吐いてー」
「はい」
「ちょっときつい?」
「大丈夫です」
「がまんしなくていいのよ。ちーちゃんはいっつも我慢しないで文句言うから」
「言うわ! 苦しいもん!」
背中で、帯が巻かれていく。
布が擦れる音がした。
誰かに服を着せてもらうのは、たぶん、三年ぶりだった。
三年前、保護された病院で、看護師さんに寝間着を着せてもらった。
あのときのわたしは、自分の名前も知らなかった。
――いまも、知らない。
そう思った瞬間、鼻の奥が痛くなった。
「真白ちゃん、ちょっと苦しいかな?」
「……いえ」
「涙目じゃない」
「帯が、きつくて」
「あら、ごめんね」
嘘をついた。
今日で最後にするつもりの嘘を、一つ、ついてしまった。
*
髪は、千早がやった。
これがひどかった。
「動かないで」
「痛い」
「がまんして」
「痛い」
「わたしの手、ヘタなんだから、しょうがないでしょ!」
「開き直らないで」
結局、二十分かけて、髪はまとめられた。
後ろで団子にして、白い花のついたピンで留める。
鏡を見せられた。
紺色の浴衣を着た、知らない女の子が、そこにいた。
――いや。
知っている。
三年間、毎朝、洗面所で見てきた顔だ。
それなのに、知らない子に見えた。
「どう?」
千早が、後ろから鏡をのぞきこんだ。
「……変じゃない?」
「変じゃないよ」
「ほんと?」
「ほんと」
千早は、鏡のなかのわたしを見ていた。
「ちゃんと、ましろだよ」
わたしは、鏡から目を逸らした。
*
出かける前に、千早の部屋で、二人で座っていた。
千早は赤い浴衣を着ていた。朝顔の柄で、こっちのほうが派手だった。
窓の外で、蝉が鳴いていた。
夕方の光が、畳の上でオレンジ色になっていた。
わたしは、鞄を開けた。
「これ」
黄色い傘を出した。
千早が、目を丸くした。
「……なんで今?」
「借りっぱなしだったから」
「いや、そうだけど。八月だけど」
「うん」
「梅雨、終わってるけど」
「終わってるね」
千早は、傘を受け取って、それをしげしげと見た。
折れた骨のところを、指でつついた。
「……ましろ」
「なに」
「これ、返されると、なんか、やだ」
わたしは、答えられなかった。
*
それから、缶を出した。
カフェオレ。
千早が、それを見て、動きを止めた。
「……これ」
「うん」
「あの日の?」
「うん」
「え、飲んでないの?」
「飲めなかった」
「ぬるいでしょ、二週間も」
「ぬるい」
「じゃあなんで」
わたしは、缶を見ていた。
百九十グラム。
あの日と、一グラムも変わっていなかった。
「……飲んだら、無くなるから」
*
千早は、しばらく黙っていた。
それから、缶を取って、勝手に開けた。
ぷしゅ、と気の抜けた音がした。
「ちょ」
「飲むよ」
「二週間前のだよ」
「知ってる」
千早は、半分飲んで、こちらに突き出した。
「はい」
「……」
「飲んで」
わたしは、受け取った。
ぬるくて、甘ったるくて、炭酸でもないのにどこか気の抜けた味がした。
おいしくなかった。
全部、飲んだ。
*
「ましろ」
「うん」
「今日さ、なんか言いに来たでしょ」
千早は、床に置いた黄色い傘を見ていた。
わたしのほうは、見なかった。
「傘返して、缶返して、そういうの、ぜんぶ精算してから言うつもりだったでしょ」
――ばれている。
「……うん」
「じゃあ、花火見ながら聞く」
「え」
「逃げらんないようにしてから聞く」
千早は立ち上がって、下駄を鳴らしながら、部屋を出ていった。
「行くよ! 場所取り!」
*
玄関で靴――ではなく下駄を履いていると、千早のお母さんが追いかけてきた。
「真白ちゃん、これ持ってって」
押しつけられたのは、タッパーだった。
中身は、唐揚げだった。
「花火に唐揚げ持ってく人、いないと思うんですけど」
「いるわよ。うちの子なんか、小学校の遠足に唐揚げ持ってったんだから」
「それ普通じゃん」
「弁当と別によ」
「……お母さん」
わたしは、タッパーを両手で持った。
二百八十グラム。
まだ、あたたかかった。
「あの」
「なあに」
「……ありがとうございます」
「なによ、改まって」
千早のお母さんは、けらけら笑った。
そして、わたしの浴衣の衿を、ちょっと直した。
「またおいでね」
その言葉が、なぜか、いちばんこたえた。
この家には、たぶん、もう来られない。
そんな予感が、そのときのわたしには、うっすらとあった。
「――はい」
嘘つきは、これで二つ目になった。




