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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
第五章 打ち明ける

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2 紺色の金魚

「あんた遅い!」


 ドアを開けた瞬間、千早がそう言った。


 四時ちょうどだった。


「四時って言ったじゃん」


「四時に着いてちゃ遅いんだって! 着付けって時間かかるの!」


「知らなかった」


「知らないでしょうね!」


 千早のお母さんが、奥から顔を出した。


「あら真白ちゃん、いらっしゃい。ちーちゃん、朝から五回くらい時計見てたわよ」


「見てないから!」


「見てたわよ」


「見てないっつってんの!」


 わたしは、玄関で靴を脱ぎながら、なんだか泣きそうになった。


 この家は、あいかわらず、うるさくて、あたたかくて、揚げ物のにおいがした。



 浴衣は、紺色だった。


 金魚の柄。赤と白の金魚が、裾のほうで泳いでいた。


「おかんのやつだから、ちょっと古いんだけど」


 千早は、それを畳の上に広げた。


「でも色いいでしょ。ましろ色白いから、絶対似合う」


「……うん」


「返事が薄い」


「似合うと思う」


「それでよし」



 着付けは、千早のお母さんがやってくれた。


 わたしは、両腕を横に広げたまま、置物みたいに立っていた。


 腰のあたりで、紐がきゅっと締まる。


「はい、息吐いてー」


「はい」


「ちょっときつい?」


「大丈夫です」


「がまんしなくていいのよ。ちーちゃんはいっつも我慢しないで文句言うから」


「言うわ! 苦しいもん!」


 背中で、帯が巻かれていく。


 布が擦れる音がした。


 誰かに服を着せてもらうのは、たぶん、三年ぶりだった。


 三年前、保護された病院で、看護師さんに寝間着を着せてもらった。


 あのときのわたしは、自分の名前も知らなかった。


 ――()()()()()()()


 そう思った瞬間、鼻の奥が痛くなった。


「真白ちゃん、ちょっと苦しいかな?」


「……いえ」


「涙目じゃない」


「帯が、きつくて」


「あら、ごめんね」


 嘘をついた。


 今日で最後にするつもりの嘘を、一つ、ついてしまった。



 髪は、千早がやった。


 これがひどかった。


「動かないで」


「痛い」


「がまんして」


「痛い」


「わたしの手、ヘタなんだから、しょうがないでしょ!」


「開き直らないで」


 結局、二十分かけて、髪はまとめられた。


 後ろで団子にして、白い花のついたピンで留める。


 鏡を見せられた。


 紺色の浴衣を着た、知らない女の子が、そこにいた。


 ――いや。


 知っている。


 三年間、毎朝、洗面所で見てきた顔だ。


 それなのに、知らない子に見えた。


「どう?」


 千早が、後ろから鏡をのぞきこんだ。


「……変じゃない?」


「変じゃないよ」


「ほんと?」


「ほんと」


 千早は、鏡のなかのわたしを見ていた。


()()()()()()()()()


 わたしは、鏡から目を逸らした。



 出かける前に、千早の部屋で、二人で座っていた。


 千早は赤い浴衣を着ていた。朝顔の柄で、こっちのほうが派手だった。


 窓の外で、蝉が鳴いていた。


 夕方の光が、畳の上でオレンジ色になっていた。


 わたしは、鞄を開けた。


「これ」


 黄色い傘を出した。


 千早が、目を丸くした。


「……なんで今?」


「借りっぱなしだったから」


「いや、そうだけど。八月だけど」


「うん」


「梅雨、終わってるけど」


「終わってるね」


 千早は、傘を受け取って、それをしげしげと見た。


 折れた骨のところを、指でつついた。


「……ましろ」


「なに」


「これ、返されると、なんか、やだ」


 わたしは、答えられなかった。



 それから、缶を出した。


 カフェオレ。


 千早が、それを見て、動きを止めた。


「……これ」


「うん」


「あの日の?」


「うん」


「え、飲んでないの?」


「飲めなかった」


「ぬるいでしょ、二週間も」


「ぬるい」


「じゃあなんで」


 わたしは、缶を見ていた。


 百九十グラム。


 あの日と、一グラムも変わっていなかった。


「……飲んだら、無くなるから」



 千早は、しばらく黙っていた。


 それから、缶を取って、勝手に開けた。


 ぷしゅ、と気の抜けた音がした。


「ちょ」


「飲むよ」


「二週間前のだよ」


「知ってる」


 千早は、半分飲んで、こちらに突き出した。


「はい」


「……」


「飲んで」


 わたしは、受け取った。


 ぬるくて、甘ったるくて、炭酸でもないのにどこか気の抜けた味がした。


 おいしくなかった。


 全部、飲んだ。



「ましろ」


「うん」


「今日さ、なんか言いに来たでしょ」


 千早は、床に置いた黄色い傘を見ていた。


 わたしのほうは、見なかった。


「傘返して、缶返して、そういうの、ぜんぶ精算してから言うつもりだったでしょ」


 ――()()()()()


「……うん」


「じゃあ、花火見ながら聞く」


「え」


()()()()()()()()()()()()()()()


 千早は立ち上がって、下駄を鳴らしながら、部屋を出ていった。


「行くよ! 場所取り!」



 玄関で靴――ではなく下駄を履いていると、千早のお母さんが追いかけてきた。


「真白ちゃん、これ持ってって」


 押しつけられたのは、タッパーだった。


 中身は、唐揚げだった。


「花火に唐揚げ持ってく人、いないと思うんですけど」


「いるわよ。うちの子なんか、小学校の遠足に唐揚げ持ってったんだから」


「それ普通じゃん」


「弁当と別によ」


「……お母さん」


 わたしは、タッパーを両手で持った。


 二百八十グラム。


 まだ、あたたかかった。


「あの」


「なあに」


「……ありがとうございます」


「なによ、改まって」


 千早のお母さんは、けらけら笑った。


 そして、わたしの浴衣の衿を、ちょっと直した。


「またおいでね」


 その言葉が、なぜか、いちばんこたえた。


 この家には、たぶん、もう来られない。


 そんな予感が、そのときのわたしには、うっすらとあった。


「――はい」


 嘘つきは、これで二つ目になった。

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