3 それでも
土手の上は、人でいっぱいだった。
河川敷に屋台が並んで、たこ焼きとソースと発電機の油のにおいが混ざっていた。子どもがラムネの瓶を振り回していて、どこかの中学生が大声で笑っていた。
千早は、慣れた足取りで人混みを抜けて、桜並木のいちばん端まで歩いた。
そこだけ、人がまばらだった。
「ここ、毎年空いてんの。木で半分見えないから」
千早は、レジャーシートを広げた。
半分しか見えないなら、なぜここなんだろう、と思った。
訊かなかった。
たぶん、話がしやすいからだ。
*
七時二十分。
花火まで、あと十分だった。
空が、まだ薄く青い。
「で?」
千早が、あぐらをかいて――浴衣なのにあぐらをかいて――こちらを向いた。
「話。聞くよ」
「……うん」
わたしは、膝をそろえて座り直した。
喉が、からからだった。
何度も頭のなかで練習した。
三日かけて練習した。
それなのに、一文字も出てこなかった。
*
「ましろ」
「……ごめん」
「なんで謝んの」
「言葉が」
「じゃあ、順番めちゃくちゃでいいよ」
千早は、河川敷のほうを見ていた。
「わたし、頭よくないから、どうせ順番どおり聞いても分かんないし」
わたしは、うなずいた。
そして、下のほうから、小さい石を一つ拾った。
土手の斜面に転がっていた、白っぽい石だ。
四十グラム。
「千早」
「なに」
「これ、見てて」
*
わたしは、手のひらに石を乗せた。
そして、重さを、抜いた。
石が、浮いた。
手のひらから、五センチ。
ゆっくりと。
夕方の風のなかで、静止した。
千早が、固まった。
ラムネの瓶を持った子どもが、後ろを走っていった。
どこかで発電機が唸っていた。
千早は、五秒くらい、微動だにしなかった。
「…………え」
「うん」
「え?」
「うん」
「えっ!?」
「……うん」
「ちょ、待って、え、なにこれ、糸? 糸ある?」
千早は、石のまわりを手でめちゃくちゃにかき回した。
石は、その手をすり抜けて、静かに浮いていた。
「ない!」
「ないね」
「ないじゃん!」
*
わたしは、石を手のひらに戻した。
ことり、と音がした。
千早は、口を半分開けたまま、わたしを見ていた。
わたしは、話しはじめた。
*
三年前、埠頭で見つかったこと。
記憶がないこと。
名前が、家庭裁判所で作られたものだということ。
周りのものの重さが、色みたいに見えること。
感情が昂ると、それが狂うこと。
筆箱が潰れたこと。
階段で転んだ一年生に、手を伸ばして、途中でやめたこと。
二年前、駅のホームで、男の人の両腕を折ったこと。
その人が、いまも箸を持てないこと。
六月の雨の夜に、鋏を持った男に襲われたこと。
黒い服の女が現れたこと。
毎朝五時から、卵を浮かせる練習をしていたこと。
その女が、自分の力を切り出させた魔女だということ。
切り出された力が、逃げて、少女の形になったこと。
それが、わたしだということ。
――わたしには、三年前より前が、無いということ。
*
途中、千早は二回だけ口をはさんだ。
一回目は、田辺さんの話をしたときだった。
「その人、いま、どうしてんの」
「団地に住んでます。……住んでる」
「会ったの?」
「見に行った。先週」
「話した?」
「できなかった」
千早は、うなずいた。
そして、こう言った。
「でも、行ったんだ」
わたしは、それに、うまく答えられなかった。
*
二回目は、夜鷹さんの話をしたときだった。
「その人さ」
「うん」
「ましろに、なんて言ったの。最初」
「……ずいぶん下手に使うのね、って」
「うわ、感じ悪」
「うん」
「で?」
「それは私のものよ、って」
千早は、鼻の頭にしわを寄せた。
「最っ低じゃん」
わたしは、思わず笑いそうになった。
この子は、三年ぶんの秘密を聞かされている最中に、他人の言葉づかいに怒っていた。
「でもね」
わたしは言った。
「その人、一年前からずっと、わたしのこと見てたんだって」
「見てた?」
「見てただけ。手も出さないで、一年」
「……なにそれ」
千早は、少し黙った。
花火が、二発上がった。
「それ、心配してたんじゃないの」
わたしは、答えられなかった。
答えられなかったのが、答えだった。
*
全部、話した。
二十分くらいかかった。
途中で花火が始まった。
どん、と腹に響く音がして、空に大きな菊が開いた。
千早は、一度も、花火を見なかった。
ずっと、わたしの顔を見ていた。
*
話し終わって、わたしは、膝の上で手を握った。
汗で、手のひらがぬるぬるしていた。
「……以上」
千早は、黙っていた。
二発、三発と、花火が上がった。
赤。青。金。
その光が、千早の顔を、代わるがわる照らした。
「――千早」
わたしは言った。
「怖がっていいよ」
「……」
「逃げていいよ」
*
わたしは、うつむいた。
言ってしまえば、少し楽になるかと思っていた。
全然、楽にならなかった。
むしろ、心臓が、めちゃくちゃに痛かった。
「ずっと、隠しててごめん。嘘ついてごめん。この前、ひどいこと言ってごめん」
「うん」
「千早は、悪くない。全部わたしが」
「ましろ」
「うん」
「うるさい」
*
顔を上げた。
千早は、怒っていた。
わたしが想像していたのとは、まったく違う怒りかたで。
「ちょっと黙って。いま整理してるから」
「……はい」
「一個ずつ聞くからね」
「はい」
千早は、指を一本立てた。
「一。ましろは、ものを潰せる」
「潰せる」
「二。ましろは、三年前の記憶がない」
「ない」
「三。ましろは、自分のこと、人間じゃないと思ってる」
「――思ってる」
「四」
千早は、四本目の指を立てた。
そして、そこで止まった。
しばらく、その手を見ていた。
*
「四。ましろは、わたしに卵焼きの感想を言った」
わたしは、目をまばたいた。
「……え?」
「七月の。うちのおかんの卵焼き。濃くないよ、おいしかったよって言った」
「言った、けど」
「あれ、嘘?」
「嘘じゃない」
「ほんとに?」
「ほんとに」
千早は、うなずいた。
「じゃあ、いい」
「……え?」
「それでいいの」
*
花火が上がった。
いちばん大きいやつが、頭の上で開いた。
千早の顔が、真っ白に照らされた。
彼女は、笑っていた。
「あのさ、ましろ」
「うん」
「わたし、ましろの中身がどっから来たのか、正直どうでもいいんだよね」
「……そんな」
「だってさ、わたしの中身だって、どっから来たか分かんないもん」
千早は、河川敷のほうを指した。
「お母さんの癖と、おばあちゃんの口癖と、小学校んときの担任のパクリと、あと漫画」
「……」
「ぜんぶお下がりだよ。新品の人間なんかいないでしょ」
*
わたしは、何も言えなかった。
千早は、レジャーシートの上で膝を抱えた。
「でもさ、一個だけ、ちがうことがある」
「なに」
「お下がりでも、誰にあげるかは、自分で決めてる」
どん、と花火が鳴った。
「その歌、施設の子にうたってあげたんでしょ」
「……うたった」
「卵焼きの感想、わたしに言ったでしょ」
「言った」
「その人の袋、拾ってあげたんでしょ」
「……うん」
「決めたの、ましろじゃん」
*
わたしの目から、涙が出た。
止めようとしたけど、止まらなかった。
浴衣の膝に、点が落ちた。
「ちょ、泣かないでよ。化粧してないけど、髪くずれるから」
「……くずれない」
「くずれる。わたしが二十分かけたんだから」
千早は、袖でわたしの顔を拭こうとして、「あ、これおかんのだ」と言って、やめた。
かわりに、手のひらで拭いた。
触れた。
触れられた。
わたしは、反射的に身をすくめた。
「あ、ごめん」
「……ううん」
「潰れる?」
「潰れない。たぶん」
「たぶんかあ」
千早は、けらけら笑った。
「じゃあ、たぶんで」
*
「ましろ」
「うん」
千早は、まっすぐにわたしを見た。
花火の光が、その目に映っていた。
「それでも、友達をやめる理由にはならないよ」
*
わたしは、そこで、こらえるのをやめた。
声を出して泣いた。
みっともなく、しゃくりあげて、鼻をすすって。
周りに人がいたかどうかも、覚えていない。
千早は、何も言わずに、隣に座っていた。
背中をさすったりもしなかった。
ただ、隣に座っていた。
――わたしが、三年間、泣いている子にやってきたのと、同じやりかたで。
*
花火が、続いていた。
少し落ち着いてから、わたしは言った。
「あの人、あと二週間くらいで死ぬ」
「魔女の人?」
「うん」
「ましろが戻れば、助かるんでしょ」
「……うん」
「で、ましろは無くなる」
「うん」
千早は、しばらく黙った。
それから、こう言った。
「重いね、それ」
「重い」
「じゃあ」
彼女は、あっさりと言った。
「半分持つよ」
*
わたしは、千早を見た。
「……無理だよ」
「なんで」
「分けられないの。重さって。最後は誰か一人が持つことになるって、あの人が」
「ふーん」
千早は、鼻を鳴らした。
そして、レジャーシートの端を引っぱって、わたしのほうへ寄せた。
「じゃあ、分けなくていいじゃん」
「え」
「二人で持てば」
*
その言葉を、わたしは聞いた。
聞いて、でも、そのときは、うまく意味が飲み込めなかった。
重さは分けられない。
最後は誰か一人が持つ。
世界は、そういうふうにできている。
夜鷹さんは、そう言った。
この子は、それを知らない。
知らないから、そんなことが言える。
――そう、思った。
そのときは。
*
「あ、そうだ」
千早が、急に立ち上がった。
「りんご飴。買ってくる」
「え、今?」
「泣いたら喉乾くでしょ」
「それ、りんご飴じゃ」
「じゃあラムネも買う」
千早は下駄を鳴らして、人混みのほうへ走っていった。
紺色と赤の浴衣が、屋台の明かりのなかに紛れていく。
わたしは、その背中を見送った。
それが、わたしが普通の顔をした千早を見た、最後になった。




