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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
第五章 打ち明ける

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4 花火と、荷札

 五分待った。


 十分待った。


 花火は、佳境に入っていた。


 連発が始まって、空が絶え間なく光っていた。人々が歓声を上げていた。


 わたしは、立ち上がった。



 嫌な感じがしたのは、その瞬間だった。


 ()()()()()()()()()


 河川敷のほうを向いた瞬間、視界の下半分から、重さの感覚が消えていた。


 ぽっかりと、白い穴。


 一つじゃない。


 十。二十。五十。


 人混みのなかに、白い空白が、いくつも、いくつも増えていく。


「――()()



 わたしは、走った。


 下駄が脱げた。片方が飛んで、どこかへ転がった。


 裸足で、土手の斜面を駆け下りた。


 人混みに飛び込んだ。


 浴衣の背中。子どもの頭。うちわ。ビニール袋。


 そのあいだを、わたしは、必死にかき分けた。


「千早!」


 声が、花火にかき消された。


 どん。


 どん。


 空が、赤く光った。



 りんご飴の屋台の前に、下駄が片方、落ちていた。


 赤い鼻緒の。


 千早のだった。


 わたしは、それを拾った。


 そして、顔を上げた。


 人混みの向こう。


 河川敷の端の、暗いところ。


 屋台の明かりが届かない場所に。


 ()()()()()()



「鳴海!」


 わたしは叫んだ。


 人が、何人かこちらを振り返った。


 鳴海さんは、振り返らなかった。


 ただ、片手を上げて、軽く振った。


 挨拶みたいに。


 その足元に、赤い浴衣が見えた。


 倒れていた。


 いや――()()()()()()


 黒い服の男が、千早を肩に乗せていた。



 わたしは、走った。


 力を出そうとした。


 出せなかった。


 わたしと鳴海さんのあいだには、三百人くらいの人がいた。


 子どもがいた。ベビーカーがあった。


 ここで力を使えば、()()()()()()


 (――くそ)


 (くそ、くそ、くそ)


 人をかき分けるしかなかった。


 「痛っ」「なんだよ」「危ないよ!」


 誰かの肩にぶつかった。誰かの足を踏んだ。


 わたしは、謝りながら走った。


 謝りながら、走るしかなかった。



 途中で、一度だけ、足が止まった。


 わたしの目の前で、おばあさんが、つんのめった。


 人に押されたのだ。


 片手に、金魚の袋を提げていた。


 その体が、前に倒れる。


 ――見えた。


 五十一キロ。重心が、つま先の外へ抜けた。


 抜けた先には、コンクリートのブロックがあった。


 (()())


 わたしは、手を伸ばした。


 伸ばして、そして――()()()()()()


 かわりに、その五十一キロだけを、そっと後ろへ押した。


 三キロぶん。


 それだけ。


 おばあさんは、つんのめった姿勢のまま、ゆっくりと元に戻った。


 自分でバランスを取り直したみたいに。


「あらまあ」


 彼女は、そう言って、金魚の袋を持ち直した。


 わたしは、もう走っていた。


 ――階段で手を引っ込めた日から、二ヶ月。


 いまのわたしは、触れずに、支えられる。


 (間に合え)


 (間に合え、間に合え、間に合え)



 河川敷の端に着いたとき、そこには誰もいなかった。


 草が踏み荒らされていた。


 白い荷札が、何十枚も落ちていた。


 その真ん中に、一枚だけ、他より大きな札が置いてあった。


 わたしは、それを拾った。


 濡れていなかった。


 丁寧な、几帳面な字で、こう書かれていた。



『湊真白様


 お預かりいたしました。


 本日零時まで、湾岸の現場にてお待ちしております。  建設中のタワーです。地図はご不要かと存じます。


 あなたが生まれた圃場の、真上にございます。


 上層階に警備のかたが六名いらっしゃいます。  こちらで少々お休みいただいております。


 どうぞ、おひとりでおいでください。


 剪定会 鳴海』



 わたしは、その札を握りつぶした。


 握りつぶした瞬間、手のなかで、札が灰になって崩れた。


 力が、漏れていた。


 足元の草が、ぐしゃりと沈んだ。


 半径二メートル。


 ――()()()


 わたしは、両手で自分の胸を押さえた。


 落ち着け。


 落ち着け。


 ここで暴れたら、後ろにいる三百人が死ぬ。


 千早を助けるどころじゃない。



 深呼吸を、五回した。


 力が、引いた。


 草が、ゆっくりと起き上がった。


 ――七時四十五分。


 零時まで、四時間十五分。


 わたしは、拾った赤い下駄を、両手で抱えた。


 そして、走り出した。



 最初に向かったのは、駅でも、湾岸でもなかった。


 あのマンションだった。


 夜鷹さんのところだ。


 浴衣の裾をたくし上げて、裸足で、住宅街を走った。


 肋骨がずきずきした。息が上がった。


 それでも走った。


 二十分かかった。



 そして、着いた場所で、わたしは足を止めた。



 マンションの前に、規制線が張られていた。


 黄色と黒のテープ。


 「立入禁止」の看板。


 七階の窓が、全部、ベニヤ板で塞がれていた。


 三日前、わたしが割った窓だ。


 工事の足場が組まれていて、その上に、白い養生シートがかかっていた。


 管理人室の掲示板に、紙が貼ってあった。


 『七階 建物点検のため 当面立入禁止』



 わたしは、階段を上った。


 誰にも止められなかった。


 七階の、あの部屋。


 ドアには、鍵がかかっていなかった。


 開けた。



 ()()()()()()


 前から何もない部屋だった。


 でも、今度は、本当に何もなかった。


 椅子が無かった。


 電気スタンドが無かった。


 台所のコップも、やかんも、無かった。


 部屋の隅の、薄い毛布も。


 窓にはベニヤ板が打ちつけられていて、隙間から、夏の夜の風が入ってきていた。


 床に、ガラスの破片が、ほんの少しだけ残っていた。


 それだけだった。



 わたしは、部屋の真ん中に立った。


 「夜鷹さん」


 呼んでみた。


 返事はなかった。


 「夜鷹さん」


 もう一度。


 埃の匂いがした。


 どこかで、車のクラクションが鳴った。


 わたしは、床にしゃがみこんだ。



 (――いない)


 (一人だ)


 三日前、わたしはこの部屋で、あの人に向かって叫んだ。


 勝手だ、と。


 捨てたくせに、と。


 全部、本当のことだった。


 いま、取り消すつもりもない。


 でも。


 (()()()()()()())


 わたしは、床の埃に、手をついた。


 顔を上げた。


 ベニヤ板の隙間から、遠くで花火の光が、ちらちらと漏れていた。


 もう、終わりのほうだ。



 わたしは、立ち上がった。


 あの人は、いない。


 剪定会は、六人の警備員を人質にしている。


 千早は、五十階の鉄骨の上にいる。


 わたしは、一人だ。


 ――()()()()()()()()()


 そう思ったとき、頭のどこかで、声がした。


 三日前の、あの人の声。


 『地面が受け取れないくらい重かったら、そのときは――諦めなさい』


 (……諦めろって?)


 わたしは、赤い下駄を抱え直した。


 (()()()()()())

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