4 花火と、荷札
五分待った。
十分待った。
花火は、佳境に入っていた。
連発が始まって、空が絶え間なく光っていた。人々が歓声を上げていた。
わたしは、立ち上がった。
*
嫌な感じがしたのは、その瞬間だった。
重さが、見えなかった。
河川敷のほうを向いた瞬間、視界の下半分から、重さの感覚が消えていた。
ぽっかりと、白い穴。
一つじゃない。
十。二十。五十。
人混みのなかに、白い空白が、いくつも、いくつも増えていく。
「――荷札」
*
わたしは、走った。
下駄が脱げた。片方が飛んで、どこかへ転がった。
裸足で、土手の斜面を駆け下りた。
人混みに飛び込んだ。
浴衣の背中。子どもの頭。うちわ。ビニール袋。
そのあいだを、わたしは、必死にかき分けた。
「千早!」
声が、花火にかき消された。
どん。
どん。
空が、赤く光った。
*
りんご飴の屋台の前に、下駄が片方、落ちていた。
赤い鼻緒の。
千早のだった。
わたしは、それを拾った。
そして、顔を上げた。
人混みの向こう。
河川敷の端の、暗いところ。
屋台の明かりが届かない場所に。
作業帽が、一つ。
*
「鳴海!」
わたしは叫んだ。
人が、何人かこちらを振り返った。
鳴海さんは、振り返らなかった。
ただ、片手を上げて、軽く振った。
挨拶みたいに。
その足元に、赤い浴衣が見えた。
倒れていた。
いや――担がれていた。
黒い服の男が、千早を肩に乗せていた。
*
わたしは、走った。
力を出そうとした。
出せなかった。
わたしと鳴海さんのあいだには、三百人くらいの人がいた。
子どもがいた。ベビーカーがあった。
ここで力を使えば、全員が潰れる。
(――くそ)
(くそ、くそ、くそ)
人をかき分けるしかなかった。
「痛っ」「なんだよ」「危ないよ!」
誰かの肩にぶつかった。誰かの足を踏んだ。
わたしは、謝りながら走った。
謝りながら、走るしかなかった。
*
途中で、一度だけ、足が止まった。
わたしの目の前で、おばあさんが、つんのめった。
人に押されたのだ。
片手に、金魚の袋を提げていた。
その体が、前に倒れる。
――見えた。
五十一キロ。重心が、つま先の外へ抜けた。
抜けた先には、コンクリートのブロックがあった。
(だめ)
わたしは、手を伸ばした。
伸ばして、そして――掴まなかった。
かわりに、その五十一キロだけを、そっと後ろへ押した。
三キロぶん。
それだけ。
おばあさんは、つんのめった姿勢のまま、ゆっくりと元に戻った。
自分でバランスを取り直したみたいに。
「あらまあ」
彼女は、そう言って、金魚の袋を持ち直した。
わたしは、もう走っていた。
――階段で手を引っ込めた日から、二ヶ月。
いまのわたしは、触れずに、支えられる。
(間に合え)
(間に合え、間に合え、間に合え)
*
河川敷の端に着いたとき、そこには誰もいなかった。
草が踏み荒らされていた。
白い荷札が、何十枚も落ちていた。
その真ん中に、一枚だけ、他より大きな札が置いてあった。
わたしは、それを拾った。
濡れていなかった。
丁寧な、几帳面な字で、こう書かれていた。
*
『湊真白様
お預かりいたしました。
本日零時まで、湾岸の現場にてお待ちしております。 建設中のタワーです。地図はご不要かと存じます。
あなたが生まれた圃場の、真上にございます。
上層階に警備のかたが六名いらっしゃいます。 こちらで少々お休みいただいております。
どうぞ、おひとりでおいでください。
剪定会 鳴海』
*
わたしは、その札を握りつぶした。
握りつぶした瞬間、手のなかで、札が灰になって崩れた。
力が、漏れていた。
足元の草が、ぐしゃりと沈んだ。
半径二メートル。
――だめだ。
わたしは、両手で自分の胸を押さえた。
落ち着け。
落ち着け。
ここで暴れたら、後ろにいる三百人が死ぬ。
千早を助けるどころじゃない。
*
深呼吸を、五回した。
力が、引いた。
草が、ゆっくりと起き上がった。
――七時四十五分。
零時まで、四時間十五分。
わたしは、拾った赤い下駄を、両手で抱えた。
そして、走り出した。
*
最初に向かったのは、駅でも、湾岸でもなかった。
あのマンションだった。
夜鷹さんのところだ。
浴衣の裾をたくし上げて、裸足で、住宅街を走った。
肋骨がずきずきした。息が上がった。
それでも走った。
二十分かかった。
*
そして、着いた場所で、わたしは足を止めた。
*
マンションの前に、規制線が張られていた。
黄色と黒のテープ。
「立入禁止」の看板。
七階の窓が、全部、ベニヤ板で塞がれていた。
三日前、わたしが割った窓だ。
工事の足場が組まれていて、その上に、白い養生シートがかかっていた。
管理人室の掲示板に、紙が貼ってあった。
『七階 建物点検のため 当面立入禁止』
*
わたしは、階段を上った。
誰にも止められなかった。
七階の、あの部屋。
ドアには、鍵がかかっていなかった。
開けた。
*
何もなかった。
前から何もない部屋だった。
でも、今度は、本当に何もなかった。
椅子が無かった。
電気スタンドが無かった。
台所のコップも、やかんも、無かった。
部屋の隅の、薄い毛布も。
窓にはベニヤ板が打ちつけられていて、隙間から、夏の夜の風が入ってきていた。
床に、ガラスの破片が、ほんの少しだけ残っていた。
それだけだった。
*
わたしは、部屋の真ん中に立った。
「夜鷹さん」
呼んでみた。
返事はなかった。
「夜鷹さん」
もう一度。
埃の匂いがした。
どこかで、車のクラクションが鳴った。
わたしは、床にしゃがみこんだ。
*
(――いない)
(一人だ)
三日前、わたしはこの部屋で、あの人に向かって叫んだ。
勝手だ、と。
捨てたくせに、と。
全部、本当のことだった。
いま、取り消すつもりもない。
でも。
(いてほしかった)
わたしは、床の埃に、手をついた。
顔を上げた。
ベニヤ板の隙間から、遠くで花火の光が、ちらちらと漏れていた。
もう、終わりのほうだ。
*
わたしは、立ち上がった。
あの人は、いない。
剪定会は、六人の警備員を人質にしている。
千早は、五十階の鉄骨の上にいる。
わたしは、一人だ。
――一人で、やるしかない。
そう思ったとき、頭のどこかで、声がした。
三日前の、あの人の声。
『地面が受け取れないくらい重かったら、そのときは――諦めなさい』
(……諦めろって?)
わたしは、赤い下駄を抱え直した。
(冗談じゃない)




