5 第四圃場のあと地
湾岸の現場に着いたのは、十一時十分だった。
途中、コンビニでサンダルを買った。浴衣に、ビニールのサンダル。ひどい格好だった。
電車のなかで、誰もわたしを見なかった。夏の夜の都心には、浴衣の女子高生なんていくらでもいる。
誰も、わたしが何をしに行くのか知らなかった。
わたしは、吊革を持たずに立っていた。
*
そのタワーは、遠くからでも見えた。
東京湾の埋立地に、それは立っていた。
周囲には何もない。倉庫と、コンテナヤードと、まだ舗装もされていない空き地ばかりだ。
そのなかに、一本だけ。
骨組みだけの、高層建築。
まだ外壁が半分もついていない。剥き出しの鉄骨が、夜空に向かって組み上がっている。
その頂上に、タワークレーンが三基。
赤い航空障害灯が、ゆっくりと点滅していた。
地上から、たぶん、二百五十メートル以上。
*
仮囲いのゲートは、開いていた。
「関係者以外立入禁止」の看板が、片方だけ外れて傾いでいた。
わたしは、なかに入った。
夜の工事現場は、静かだった。
資材が山積みになっていて、重機が眠っていた。プレハブの詰所の明かりは消えていた。
防犯カメラは、全部、下を向いていた。
――剪定会が、そうしたのだろう。
三年前、この場所のカメラも、そうやって消されたのだ。
*
仮設エレベーターの前に、人が立っていた。
作業服。首にタオル。
腰に、荷札の束。
そして、左腕。
わたしは、足を止めた。
「……柏木さん」
彼女は、こちらを見て、目をまん丸にした。
「あんた、なんて格好してんの」
「花火だったので」
「花火」
「はい」
柏木さんは、両手で顔を覆った。
「……ばか?」
*
左腕のギプスは、外れていた。
かわりに、黒いサポーターが巻いてあった。
「腕、治ったんですか」
「治ってない。あと一ヶ月」
「そうですか」
「そうですかじゃないでしょ」
柏木さんは、いらいらした様子で、頭をかきむしった。
「なんで来たの」
「友達がいるので」
「それ、罠だから」
「知ってます」
「知ってて来たの?」
「はい」
「……ばかだ」
彼女は、ため息をついた。
*
「あのさ」
「はい」
「わたし、ここで見張りしてんの。あんたが来たら、上に連絡する役」
「はい」
「連絡するよ」
「してください」
「するっつってんでしょ!」
柏木さんは、怒鳴った。
それから、ぐしゃりと顔を歪めた。
「……なんで、そんな顔すんの」
「どんな顔ですか」
「信じてる顔」
わたしは、答えられなかった。
*
柏木さんは、しばらく黙っていた。
それから、無線機を取り出して、ボタンを押した。
「――こちら地上。株、到着しました。一人です」
無線から、了解、という声が返ってきた。
彼女は、無線を切った。
そして、仮設エレベーターの扉を、無造作に叩いた。
「これ、動かないから」
「え」
「電源落としてある。上に来させるなら階段使わせろって、上の指示」
「……何階ですか」
「五十階」
柏木さんは、親指で、真上を指した。
「タワークレーンのブームが乗ってる階。鉄骨剥き出しだから、気をつけて。手すりないよ」
*
わたしは、うなずいた。
「ありがとうございます」
「礼言うな」
「はい」
「……あとさ」
柏木さんは、目を逸らしたまま、ぼそりと言った。
「警備員さん、六人。四十八階の詰所。生きてる」
わたしは、顔を上げた。
「荷札で眠らせてるだけ。あと二時間もすれば起きる」
「……教えてくれるんですか」
「教えてない」
柏木さんは、そっぽを向いた。
「独り言」
*
わたしは、階段の入り口に立った。
仮設の鉄階段が、上へ、上へと折り返して続いていた。
照明は、非常灯だけ。
オレンジ色の光が、点々と、上まで並んでいた。
わたしは、浴衣の裾を膝までたくし上げて、帯に挟んだ。
みっともない格好だった。
千早が見たら、絶対に笑う。
――笑わせてやろう、と思った。
*
一階ぶんが、四十段。
五十階で、二千段。
わたしは、上りはじめた。
*
十階で、脇腹が痛みはじめた。
二十階で、脚が笑いはじめた。
三十階で、一度、止まった。
踊り場で膝に手をついて、息をした。
汗が、顎から落ちた。
(――四十六キロ)
あの朝のことを、思い出した。
運河沿いの道を、倒れるまで走らされた朝。
『あなたの体重よ』
『あなたが一生持って歩く荷物の重さ』
『でも、あなたはそれを、生まれてからずっと持って歩いてきた。落とさずに』
(……あの人、あれ、褒めてたんだな)
三ヶ月経って、わたしはやっと、それに気づいた。
わたしは、また上りはじめた。
*
四十階の踊り場に、外が見える隙間があった。
壁の入っていない部分から、夜の東京湾が見えた。
わたしは、そこで足を止めた。
黒い水面に、対岸の工場の明かりが、ぐにゃぐにゃに揺れて映っていた。
六月のあの夜、湾岸線から見たのと、同じ景色だった。
(――ここの、下)
この建物の真下に、第四圃場があった。
窓のない、白い部屋。
三年前、わたしはそこで、切り出された。
わたしが生まれて最初に見たものは、たぶん、誰かの背中だった。
白くて、細くて、まっすぐな赤い線が入った背中。
(……変なの)
わたしは、笑った。
息が切れていたので、ちゃんと笑えなかった。
(生まれた場所に、こんな高いビルが建つなんて)
三年で、人は、二百五十メートルのものを建てる。
三年で、わたしは、卵を五センチ浮かせられるようになった。
(――勝てないな)
そう思ったら、少しだけ、可笑しかった。
*
そして、もう一つ、考えた。
(もし、わたしが、今夜ここで無くなったら)
千早は、どうするだろう。
ひなたは、明日の夜、誰にうたってもらうんだろう。
佐伯さんは、また「変な子だったわよ」と誰かに話すんだろうか。
それから。
(――あの人は)
わたしは、鞄のなかを探った。
赤い包み紙が、指に当たった。
いちごのキャンディ。
三グラム。
捨てかたが分からなかったもの。
わたしは、それを握りしめて、また階段を上りはじめた。
*
四十八階の踊り場で、詰所が見えた。
プレハブの小屋のなかに、六人。
床に転がされて、眠っていた。
全員、額に荷札が貼られていた。
わたしは、なかに入って、一人ずつ、札を剥がした。
――剥がした瞬間、指先に、じん、と冷たいものが走った。
札の冷たさが、わたしの指の感覚を持っていく。
構わなかった。
六枚、全部剥がした。
六人の胸が、上下しているのを確かめた。
生きていた。
*
それから、最後の二階ぶんを上った。
階段の終わりに、四角い光の枠があった。
そこから先は、壁がなかった。
風が、吹き込んできていた。
わたしは、その光のなかへ、出た。




