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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
第五章 打ち明ける

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5 第四圃場のあと地

 湾岸の現場に着いたのは、十一時十分だった。


 途中、コンビニでサンダルを買った。浴衣に、ビニールのサンダル。ひどい格好だった。


 電車のなかで、誰もわたしを見なかった。夏の夜の都心には、浴衣の女子高生なんていくらでもいる。


 誰も、わたしが何をしに行くのか知らなかった。


 わたしは、吊革を持たずに立っていた。



 そのタワーは、遠くからでも見えた。


 東京湾の埋立地に、それは立っていた。


 周囲には何もない。倉庫と、コンテナヤードと、まだ舗装もされていない空き地ばかりだ。


 そのなかに、一本だけ。


 骨組みだけの、高層建築。


 まだ外壁が半分もついていない。剥き出しの鉄骨が、夜空に向かって組み上がっている。


 その頂上に、タワークレーンが三基。


 赤い航空障害灯が、ゆっくりと点滅していた。


 地上から、たぶん、二百五十メートル以上。



 仮囲いのゲートは、開いていた。


 「関係者以外立入禁止」の看板が、片方だけ外れて傾いでいた。


 わたしは、なかに入った。


 夜の工事現場は、静かだった。


 資材が山積みになっていて、重機が眠っていた。プレハブの詰所の明かりは消えていた。


 防犯カメラは、全部、下を向いていた。


 ――剪定会が、そうしたのだろう。


 三年前、この場所のカメラも、そうやって消されたのだ。



 仮設エレベーターの前に、人が立っていた。


 作業服。首にタオル。


 腰に、荷札の束。


 そして、左腕。


 わたしは、足を止めた。


「……柏木さん」


 彼女は、こちらを見て、目をまん丸にした。


「あんた、なんて格好してんの」


「花火だったので」


「花火」


「はい」


 柏木さんは、両手で顔を覆った。


「……ばか?」



 左腕のギプスは、外れていた。


 かわりに、黒いサポーターが巻いてあった。


「腕、治ったんですか」


「治ってない。あと一ヶ月」


「そうですか」


「そうですかじゃないでしょ」


 柏木さんは、いらいらした様子で、頭をかきむしった。


「なんで来たの」


「友達がいるので」


「それ、罠だから」


「知ってます」


「知ってて来たの?」


「はい」


「……ばかだ」


 彼女は、ため息をついた。



「あのさ」


「はい」


「わたし、ここで見張りしてんの。あんたが来たら、上に連絡する役」


「はい」


「連絡するよ」


「してください」


「するっつってんでしょ!」


 柏木さんは、怒鳴った。


 それから、ぐしゃりと顔を歪めた。


「……なんで、そんな顔すんの」


「どんな顔ですか」


()()()()()


 わたしは、答えられなかった。



 柏木さんは、しばらく黙っていた。


 それから、無線機を取り出して、ボタンを押した。


「――こちら地上。株、到着しました。一人です」


 無線から、了解、という声が返ってきた。


 彼女は、無線を切った。


 そして、仮設エレベーターの扉を、無造作に叩いた。


「これ、動かないから」


「え」


「電源落としてある。上に来させるなら階段使わせろって、上の指示」


「……何階ですか」


「五十階」


 柏木さんは、親指で、真上を指した。


「タワークレーンのブームが乗ってる階。鉄骨剥き出しだから、気をつけて。()()()()()()



 わたしは、うなずいた。


「ありがとうございます」


「礼言うな」


「はい」


「……あとさ」


 柏木さんは、目を逸らしたまま、ぼそりと言った。


「警備員さん、六人。四十八階の詰所。()()()()


 わたしは、顔を上げた。


「荷札で眠らせてるだけ。あと二時間もすれば起きる」


「……教えてくれるんですか」


「教えてない」


 柏木さんは、そっぽを向いた。


()()()



 わたしは、階段の入り口に立った。


 仮設の鉄階段が、上へ、上へと折り返して続いていた。


 照明は、非常灯だけ。


 オレンジ色の光が、点々と、上まで並んでいた。


 わたしは、浴衣の裾を膝までたくし上げて、帯に挟んだ。


 みっともない格好だった。


 千早が見たら、絶対に笑う。


 ――()()()()()()()、と思った。



 一階ぶんが、四十段。


 五十階で、二千段。


 わたしは、上りはじめた。



 十階で、脇腹が痛みはじめた。


 二十階で、脚が笑いはじめた。


 三十階で、一度、止まった。


 踊り場で膝に手をついて、息をした。


 汗が、顎から落ちた。


 (――四十六キロ)


 あの朝のことを、思い出した。


 運河沿いの道を、倒れるまで走らされた朝。


 『あなたの体重よ』


 『あなたが一生持って歩く荷物の重さ』


 『でも、あなたはそれを、生まれてからずっと持って歩いてきた。落とさずに』


 (……あの人、あれ、褒めてたんだな)


 三ヶ月経って、わたしはやっと、それに気づいた。


 わたしは、また上りはじめた。



 四十階の踊り場に、外が見える隙間があった。


 壁の入っていない部分から、夜の東京湾が見えた。


 わたしは、そこで足を止めた。


 黒い水面に、対岸の工場の明かりが、ぐにゃぐにゃに揺れて映っていた。


 六月のあの夜、湾岸線から見たのと、同じ景色だった。


 (――ここの、下)


 この建物の真下に、第四圃場があった。


 窓のない、白い部屋。


 三年前、わたしはそこで、()()()()()()


 わたしが生まれて最初に見たものは、たぶん、誰かの背中だった。


 白くて、細くて、まっすぐな赤い線が入った背中。


 (……変なの)


 わたしは、笑った。


 息が切れていたので、ちゃんと笑えなかった。


 (生まれた場所に、こんな高いビルが建つなんて)


 三年で、人は、二百五十メートルのものを建てる。


 三年で、わたしは、卵を五センチ浮かせられるようになった。


 (――勝てないな)


 そう思ったら、少しだけ、可笑しかった。



 そして、もう一つ、考えた。


 (もし、わたしが、今夜ここで無くなったら)


 千早は、どうするだろう。


 ひなたは、明日の夜、誰にうたってもらうんだろう。


 佐伯さんは、また「変な子だったわよ」と誰かに話すんだろうか。


 それから。


 (――あの人は)


 わたしは、鞄のなかを探った。


 赤い包み紙が、指に当たった。


 いちごのキャンディ。


 三グラム。


 捨てかたが分からなかったもの。


 わたしは、それを握りしめて、また階段を上りはじめた。



 四十八階の踊り場で、詰所が見えた。


 プレハブの小屋のなかに、六人。


 床に転がされて、眠っていた。


 全員、額に荷札が貼られていた。


 わたしは、なかに入って、一人ずつ、札を剥がした。


 ――剥がした瞬間、指先に、じん、と冷たいものが走った。


 札の冷たさが、わたしの指の感覚を持っていく。


 構わなかった。


 六枚、全部剥がした。


 六人の胸が、上下しているのを確かめた。


 生きていた。



 それから、最後の二階ぶんを上った。


 階段の終わりに、四角い光の枠があった。


 そこから先は、壁がなかった。


 風が、吹き込んできていた。


 わたしは、その光のなかへ、出た。

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