6 心を貸して
五十階は、床だけの世界だった。
コンクリートが打たれたばかりの、広い平らな面。
その上に、鉄骨の柱が、森みたいに立っている。
壁はない。窓もない。
端まで行けば、そのまま落ちる。
風が、まっすぐ横から吹いていた。
地上二百三十メートル。
東京が、下にあった。
*
湾岸の道路の光。羽田へ降りていく飛行機の点滅。レインボーブリッジ。ビル群。その向こうに、スカイツリー。
――きれいだな、と思ってしまった。
こんなときに。
*
「――ましろ!」
声がした。
振り返った。
フロアの中央あたり。
鉄骨の柱に、千早が縛られていた。
赤い浴衣。乱れた髪。片方だけの下駄。
口には何もされていなかった。だから、叫べた。
「来るなって言おうと思ってたのに! 来ちゃったじゃん!」
「……ごめん」
「あと、その格好なに!?」
「浴衣の裾、挟んでる」
「だっさ」
千早が、笑った。
こんな状況で、笑った。
わたしは、その顔を見て、膝から力が抜けそうになった。
*
「お待ちしておりました」
声は、上から降ってきた。
見上げた。
フロアの端から、タワークレーンのブームが、夜空へ伸びている。
その付け根の、鉄骨の梁の上。
鳴海さんが、立っていた。
半透明のレインコート。作業帽。首にタオル。
肩に、一メートル半の大鋏。
地上二百三十メートルの梁の上で、彼は、ごく普通に立っていた。
「零時まで、あと二十分。余裕をもってお越しくださって、助かります」
「――千早を返して」
「もちろんです」
鳴海さんは、あっさりうなずいた。
「お返しします。あなたを刈ったら」
*
「あの」
「はい」
「一個、訊いていいですか」
わたしは、彼を見上げた。
「なんで、わざわざ、こんな高いところなんですか」
「ああ」
鳴海さんは、うれしそうに言った。
「いい質問です」
彼は、足元の鉄骨を、こつん、と靴のつま先で叩いた。
「ここ、足場が悪いでしょう」
「……」
「あなたの力は、周りのものを巻き込む。地面の上でやったら、あなたは何も壊せない。人や、車や、建物が近くにありますからね」
彼は、両手を広げた。
「でもここは、落ちるものしかない」
*
わたしは、フロアを見回した。
積み上げられた鉄骨。
吊り下げられたままの資材。
組みかけの足場。
六十トンのタワークレーン。
――そして、その下。
四十八階に、六人の警備員。
下の道路に、まばらな車。
仮囲いの外に、深夜でも人が通る歩道。
*
「あなたが本気を出せば、この現場は落ちます」
鳴海さんは、穏やかに言った。
「そして、あなたは本気を出せない。優しいから」
彼は、大鋏を構えた。
「三年前に取りこぼした株を、今夜、根ごと回収します」
「――待って」
*
わたしは、片手を上げた。
鳴海さんの動きが、止まった。
「はい?」
「三分」
「……は?」
「三分、ください」
わたしは言った。
「頼みたいことがあるんです」
*
鳴海さんは、少し首をかしげた。
それから、腕時計を見た。
「……三分ですね」
彼は、鋏を下ろした。
「どうぞ。零時までは、こちらの都合ですので」
――この人は、こういう人だ。
律儀で、丁寧で、そして、人を枝だと思っている。
わたしは、走った。
千早のところへ。
*
ロープは、重さを抜いて、引きちぎった。
千早が、崩れるように前に倒れてきた。
わたしは、それを受け止めた。
受け止めた。
壊さずに。
「ましろ」
「千早」
「わたし、こういうのって、足手まといってやつだよね」
「違う」
「違わないでしょ」
「違うの」
わたしは、千早の肩を掴んだ。
両手で。
まっすぐに、目を見た。
*
「千早」
「なに」
「わたし、一人だと、できない」
風が、フロアを吹き抜けた。
鉄骨が、低く鳴った。
「あの人たちを助けようと思ったら、たぶん、鉄骨が落ちる。クレーンも倒れる。下に警備員さんが六人いる。道路にも人がいる」
「うん」
「重さは、消えないの。どこかへ行くの。誰かが持つの」
「うん」
「わたし一人で全部持ったら」
わたしは、自分の胸を押さえた。
三週間前、二十四トンを入れたときの感触が、まだ残っていた。
肋骨が軋んだ音。肺が縮んだ感じ。目の裏が白くなったこと。
「――全部、潰してしまう」
*
千早は、わたしの手を見ていた。
肩を掴んだ、わたしの手を。
「土手で、言ったよね」
わたしは言った。
声が震えていた。
「半分持つって。二人で持てばいいって」
「言った」
「あれ、本気?」
「本気」
「無理かもしれない。やったことない。死ぬかもしれない」
「うん」
「それでも」
わたしは、息を吸った。
三年間、ずっと、誰にも何も頼まずに生きてきた。
頼んだら、相手を巻き込むから。
巻き込んだら、壊すから。
――でも、あの人は、頼みかたを知らなかった。
命令しかできなかった。
だから、わたしは。
*
「あなたの心を貸して」
わたしは、言った。
「私ひとりだと、全部潰してしまうから」
*
風が鳴っていた。
赤い航空障害灯が、二人の顔を、交互に染めていた。
千早は、わたしを見ていた。
まばたきを、二回した。
それから。
にっ、と笑った。
「ましろ」
「うん」
「やっと頼んだじゃん」
彼女は、わたしの両手の上に、自分の手を重ねた。
「三年待ったんだけど」
「……三ヶ月しか知り合ってない」
「うるさい。体感三年」
*
鳴海さんの声が、届いた。
「――三分、経ちました」
わたしは、千早の手を、握り返した。
千早も、握り返してきた。
強く。
痛いくらいに。
その手は、四十九キロぶんの重さを、ちゃんと持っていた。




