1 ふたりでひとつ
「――で、どうやんの、これ」
千早が言った。
わたしの両手を握ったまま。
「……分からない」
「分からないの!?」
「やったことないもん」
「聞いてないんですけど!」
地上二百三十メートルの鉄骨の上で、わたしたちは、手を握り合ったまま言い合いをしていた。
風が、横から吹きつけてくる。
二十メートル先の梁の上で、鳴海さんが、鋏を構え直すのが見えた。
*
「じゃあ、あれでしょ」
千早が、わたしの手を、握り直した。
「根性でしょ」
「根性?」
「根性」
「そんな」
「あのさ、ましろ」
千早は、わたしの目を、まっすぐに見た。
赤い航空障害灯が、その顔を、ゆっくり染めていった。
「わたし、九九覚えるのに三ヶ月かかったんだよ」
「……なんの話?」
「頭で分かんなくても、しつこくやったらできるって話」
彼女は、笑った。
それから、目を閉じた。
「入ってきて」
「え」
「いいから、入ってきて」
*
わたしは、目を閉じた。
そして、いつも重さを見るときの、あの感覚を探した。
目の裏側にある、世界の奥行きみたいなもの。
そこに、千早がいた。
四十九キロ。
――違う。
四十九キロだけじゃなかった。
*
その先に、途方もない量の、何かがあった。
重さでは測れない何か。
(――踏み込んでいいの)
声にしていないのに、それは伝わった。
(いいよ)
(ほんとに)
(しつこいな)
――そして、境目が、外れた。
*
最初に来たのは、音だった。
どく、どく、と鳴っている。
心臓だ。
わたしのではない。
速い。ものすごく速い。
(――怖い)
千早は、怖がっていた。
当たり前だった。二百三十メートルの高さで、鋏を持った男に向き合っている。
なのに、この子は、一度も逃げると言わなかった。
(怖いのに)
(怖いよ。当たり前じゃん)
(――なんで)
(なんでって)
千早の考えが、そのまま流れ込んできた。
言葉ではなかった。
もっと単純な、形にならないものだった。
ここにいたいから、という形の何かだった。
*
そして、わたしのほうも、流れていった。
三年ぶんが。
筆箱がへこんだ音。
階段で引っ込めた手。
駅のホームの、あの湿った音。
毎晩ノートに書いた三行。
運河沿いの倉庫の、埃の匂い。
白い部屋の夢。
『それは私のものよ』
『あなたは、私の一部よ』
千早の呼吸が、一瞬、止まった。
(――ましろ)
(ごめん)
(謝んな)
(でも)
(謝んなって言ってんの)
千早の感情が、まっすぐに来た。
怒りだった。
わたしにではなく、わたしがやられてきたことに対する怒りだった。
そんなふうに怒ってくれる人がいるなんて、わたしは知らなかった。
*
そして、わたしは、見てしまった。
見るつもりはなかった。
流れ込んできたのだ。
――去年の、四月。
二年生の、最初の週。
新しい教室。新しい席順。
千早が、消しゴムを落とした。
拾ってくれた子がいた。
その子は、消しゴムを机に置いた。
音を立てずに。
ことん、とも言わなかった。
置いたのではなく、降ろした、という感じだった。
(……なんだこれ)
千早は、そのとき、そう思っていた。
(消しゴム置くだけで、なんでこんな丁寧なの)
(こわいものでも持ってんの?)
(気になるんですけど)
*
――それだけだった。
五十回、わたしに近づいてきた理由が。
同情でも、善意でも、正義感でもなかった。
ただ、消しゴムの置きかたが、気になったからだった。
わたしは、笑ってしまった。
(なんだ、それ)
(うるさい)
(そんなことで?)
(そんなことでしょ、ふつう)
*
かわりに、千早のほうへも、流れていった。
三年前の、夜。
若葉園に来た、最初の晩。
自分の名前も、歳も、どこから来たのかも分からない子が、廊下に座っていた。
その隣で、小さい子が泣いていた。
名前も知らない子だった。
その子が泣きやむまで、わたしは――わたしの前の何かは、二時間、歌をうたい続けた。
自分がもっと、ずっと、わけの分からない状態だったのに。
(――ましろ)
(……なに)
(それ、ほんとに借り物?)
*
わたしは、答えられなかった。
その問いを、わたしは、どこかにしまった。
いまは、それどころではなかった。
*
目を開けた。
*
――世界が、変わっていた。
いや、変わってはいなかった。
変わったのは、見ている側だ。
二つの目で見ている。
二つの耳で聞いている。
右手の指先の感覚が二つあって、風の冷たさが二重に届く。
わたしは、千早の目からも、夜景を見ていた。
「――うわ」
声が出た。
誰の声かは、もう、よく分からなかった。
「なにこれ」
「なに、これ」
二人の口から、ほとんど同時に、同じ言葉が出た。
*
千早が、東京を見ていた。
重さが、見えていた。
わたしがずっと見てきたものを、この子が、初めて見ていた。
ビルの重さ。道路の重さ。橋の重さ。
湾岸の道を走る車の、一台ずつの重さ。
黒い海の、途方もない重さ。
そして、その下で眠っている、何百万人ぶんの重さ。
「……ましろ」
「うん」
「これ、ずっと見てたの?」
「うん」
「きれいじゃん」
わたしは、息を呑んだ。
*
三年間、一度もそう思ったことはなかった。
重さは、呪いだった。
潰すものだった。
見えるたびに、怖かった。
それを、この子は、四秒で「きれい」と言った。
「――千早」
「なに」
「ありがとう」
「はやい。まだなんもしてない」
わたしたちは、笑った。
一つの口で、二つぶん。
*
二十メートル先で、鳴海さんが、大鋏を下ろした。
帽子のつばを、指で持ち上げる。
その顔には、初めて見る表情が浮かんでいた。
「……おや」
彼は言った。
感心とも、警戒ともつかない声だった。
「接ぎ木ですか」
「え」
「異なる株を、つなぐ。うちの言葉ではそう言います」
鳴海さんは、少しだけ、目を細めた。
「まさか、現物を見られるとは思いませんでした」
*
彼は、帽子をかぶり直した。
そして、鋏を構えた。
両手で。
さっきまでとは、明らかに違う構えだった。
「湊さん」
「はい」
「さきほどまでのわたくしは、仕事をしておりました」
風が、強くなった。
「ここからは、剪定です」




