2 剪定
鳴海さんが、跳んだ。
二十メートルを、一歩で。
六月の高架下で見たときと同じだった。
違うのは、こちらに、二人ぶんの目があったことだ。
「――右!」
千早が叫んだ。
叫ぶ前に、わたしはもう動いていた。
いや、逆かもしれない。
わたしが動くより先に、千早が叫んでいたのかもしれない。
順番が、もう分からなかった。
*
わたしは、自分の重さを、右足に寄せた。
受け渡し。
左半身が、羽根になる。
体が、ふわりと横に流れた。
黒い刃が、いままでわたしの首があったところを通った。
空気が裂けた。
裂けた線の向こう側で、東京の夜景が、一瞬、消えた。
そこだけ、真っ黒な帯になった。
景色が切れたのだ。光ごと。
*
「うっわ、なにあれ!」
「あれに当たったら終わり!」
「見りゃ分かる!」
わたしたちは、走った。
剥き出しのコンクリート床を、鉄骨の柱を縫うようにして。
浴衣の裾は、帯に挟んだままだった。
ビニールサンダルが、片方脱げて飛んでいった。
*
鳴海さんは、追ってこなかった。
かわりに、こう言った。
「湊さん。走っても無駄ですよ」
彼は、床に、片手を突いた。
そして、腰から荷札の束を掴んで、床に叩きつけた。
*
白が、広がった。
インクを落とした水みたいに。
五十階の床が、じわじわと、見えなくなっていく。
重さの感覚が、そこから消えていく。
自分がどこに立っているのか、分からなくなる。
「――っ」
足が、もつれた。
わたしは、転びかけた。
そのとき。
*
「左、三歩!」
千早の声が、頭のなかで鳴った。
わたしは、考えずに、左へ三歩動いた。
そこには、床があった。
「――なんで分かったの」
「見えたから」
「え?」
「目で見えたから」
*
――そうか。
わたしは、気づいた。
荷札が消すのは、重さの感覚だ。
目じゃない。
わたしはずっと、重さを頼りに世界を歩いてきた。だから、重さが消えると立てなくなる。
でも、千早は違う。
この子は十七年間、ふつうの目で、ふつうに歩いてきた。
(千早)
(なに)
(足、貸して)
(いいよ)
*
わたしたちは、走った。
重さが見えなくても、床は見えた。
鉄骨の柱が見えた。伸びた鉄筋が見えた。資材の山が見えた。
千早の足の運びかたで、わたしたちは、荷札の海のなかを駆け抜けた。
「おや」
鳴海さんの声が、初めて、驚きの色を帯びた。
「札が、効かない」
*
わたしは、資材の山に手をついた。
積んであった鉄筋の束。
二百八十キロ。
――重さを、抜く。
束が、ふわりと浮いた。
そして、投げた。
投げた瞬間に、重さを戻す。
二百八十キロが、二百八十キロに戻って、鳴海さんへ突っ込んでいく。
彼は、鋏を振った。
鉄筋の束が、斜めに消えた。
半分が、床に落ちた。残りの半分は、どこにも無かった。
「惜しい」
「――まだ!」
*
わたしは、千早の目で、床を見ていた。
荷札の海。白い穴だらけの床。
でも、穴のない場所が、あった。
鳴海さんの、足元だ。
自分の立っている場所に札は撒かない。自分も見えなくなるからだ。
(――そこだけ、掴める)
(やれ!)
*
わたしは、左手を、床に叩きつけた。
鳴海さんの足元、一メートル四方。
その床の重さを、抜いた。
打設されたばかりのコンクリートスラブが、砂糖菓子みたいに軽くなる。
軽くなったものは、踏まれれば割れる。
「――おっと」
鳴海さんの片足が、床を踏み抜いた。
膝まで。
わたしは、そこへ、資材を投げた。
鉄骨。百二十キロ。
軽くして、飛ばして、寸前で戻す。
*
どん、と音がした。
鉄骨が、鳴海さんの肩に当たった。
彼の体が、床の上を転がった。
レインコートが裂けた。帽子が飛んだ。
「やった!」
千早が叫んだ。
わたしも叫んでいた。
二人ぶんの声で。
*
だが、鳴海さんは、すぐに立ち上がった。
立ち上がりかたが、おかしかった。
足を使っていなかった。
転がった姿勢から、そのまま、すうっと起き上がったのだ。
重力を、一度も経由せずに。
「……え」
「よくやりますね」
彼は、髪をかき上げた。
「ですが、こちらも商売でして」
*
そのとき、わたしは、気づいた。
この人が、いつも「いつのまにか」現れる理由に。
六月の高架下で、走っても追いつかれた理由に。
二百三十メートルの梁の上を、平気で歩ける理由に。
「――自分の重さを、切ってる」
鳴海さんは、目を細めた。
「おや。分かりますか」
「鋏で、自分と地面のつながりを切ってるんですね」
「ええ」
彼は、あっさり認めた。
「若い頃に一度、自分の足を刈りましてね。以来、落ちないんですよ」
彼は、鋏を構え直した。
「便利ですよ。ただし――」
黒い刃が、ひらいた。
「戻しかたは、知りません」
*
その言いかたに、わたしは、一瞬、動きを止めてしまった。
この人も、切り捨てた側だった。
三十年、落ちることのできない体で、人の枝を刈って歩いてきた。
――やめて、と言いそうになった。
言いかけて、飲み込んだ。
優しさは、いま、必要ない。
*
わたしは、床を蹴った。
鉄骨の柱を掴んで、体を振り回すようにして、鳴海さんの背後へ回った。
自分の体重を、四十六キロから、五キロに。
跳んだ。
二十メートル。
空中で、四十六キロに戻す。
落下の勢いごと、彼の肩に叩きつける。
――これは、湾岸線で覚えた技だった。
*
だが、鳴海さんは、それを見ていた。
「二度目は、通じません」
彼は、振り向きもせずに、鋏を背中越しに突き上げた。
刃が、わたしの右腕をかすめた。
痛みはなかった。
かわりに。
右腕から、重さの感覚が、完全に消えた。
荷札のときとは違った。
あれは、覆われるような感じだった。
これは――切られた。
「あっ」
わたしは、床に転がった。
浴衣の袖が破れて、肩から血が滲んだ。
*
「ましろ!」
「――平気」
「平気じゃないでしょ!」
「平気。まだ左がある」
わたしは、立ち上がった。
右腕が、ぶら下がっていた。動く。感覚もある。
ただ、そこに重さがない。
自分の腕なのに、そこだけ、世界から切り離されていた。
*
「いいですね」
鳴海さんが、こちらを向いた。
彼の顔は、汗で濡れていた。
初めて、息が上がっていた。
「湊さん。三年前、あなたを取り逃したのはわたくしです」
「……」
「保管庫の扉が開いていて、なかは空でした。床に、小さな足跡が一つ」
彼は、鋏を構え直した。
「あのときのわたくしは、思ったんですよ。実が歩くわけがない、と」
風が鳴った。
「三年、間違えていたことになる」
鳴海さんは、笑った。
いつもの、目尻に皺の寄る笑いかたで。
「ですから、今夜のこれは、訂正です」
*
彼は、鋏を持ったまま、後ろへ跳んだ。
五十階のフロアの端。
タワークレーンの、マストの根元。
そこに着地して、片手で、太いワイヤーを掴んだ。
わたしは、その動きの意味が、分からなかった。
千早は、分かった。
この子の家の近くで、去年、マンションが建った。半年、毎日それを見ていた。
(ましろ、あれ、クレーンの控えだ)
(――え)
(切る気だ!)
*
「鳴海さん、やめて!」
わたしは叫んだ。
「下に人がいます! 警備員さんが!」
「存じております」
彼は、穏やかに答えた。
「六名。四十八階。あなたが札を剥がしてくださったので、そろそろお目覚めでしょう」
わたしの背筋が、凍った。
「――そのための、六名です」
黒い刃が、ワイヤーに当てられた。
「あなたは優しい。だから、必ず助けようとする」
「やめて」
「そして、助けようとすれば」
じょき。
「あなたは、自分で潰します」




