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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
第六章 重さを与える手

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32/50

2 剪定

 鳴海さんが、跳んだ。


 二十メートルを、一歩で。


 六月の高架下で見たときと同じだった。


 違うのは、こちらに、二人ぶんの目があったことだ。


「――右!」


 千早が叫んだ。


 叫ぶ前に、わたしはもう動いていた。


 いや、逆かもしれない。


 わたしが動くより先に、千早が叫んでいたのかもしれない。


 順番が、もう分からなかった。



 わたしは、自分の重さを、右足に寄せた。


 受け渡し。


 左半身が、羽根になる。


 体が、ふわりと横に流れた。


 黒い刃が、いままでわたしの首があったところを通った。


 ()()()()()()


 裂けた線の向こう側で、東京の夜景が、一瞬、消えた。


 そこだけ、真っ黒な帯になった。


 景色が切れたのだ。光ごと。



「うっわ、なにあれ!」


「あれに当たったら終わり!」


「見りゃ分かる!」


 わたしたちは、走った。


 剥き出しのコンクリート床を、鉄骨の柱を縫うようにして。


 浴衣の裾は、帯に挟んだままだった。


 ビニールサンダルが、片方脱げて飛んでいった。



 鳴海さんは、追ってこなかった。


 かわりに、こう言った。


「湊さん。走っても無駄ですよ」


 彼は、床に、片手を突いた。


 そして、腰から荷札の束を掴んで、()()()()()()()



 白が、広がった。


 インクを落とした水みたいに。


 五十階の床が、じわじわと、()()()()()()()()()


 重さの感覚が、そこから消えていく。


 自分がどこに立っているのか、分からなくなる。


「――っ」


 足が、もつれた。


 わたしは、転びかけた。


 そのとき。



()()()!()


 千早の声が、頭のなかで鳴った。


 わたしは、考えずに、左へ三歩動いた。


 そこには、床があった。


「――なんで分かったの」


「見えたから」


「え?」


()()()()()()()



 ――そうか。


 わたしは、気づいた。


 荷札が消すのは、()()()()()だ。


 目じゃない。


 わたしはずっと、重さを頼りに世界を歩いてきた。だから、重さが消えると立てなくなる。


 でも、千早は違う。


 この子は十七年間、ふつうの目で、ふつうに歩いてきた。


 (千早)


 (なに)


 (()()()())


 (いいよ)



 わたしたちは、走った。


 重さが見えなくても、床は見えた。


 鉄骨の柱が見えた。伸びた鉄筋が見えた。資材の山が見えた。


 千早の足の運びかたで、わたしたちは、荷札の海のなかを駆け抜けた。


「おや」


 鳴海さんの声が、初めて、驚きの色を帯びた。


「札が、効かない」



 わたしは、資材の山に手をついた。


 積んであった鉄筋の束。


 二百八十キロ。


 ――重さを、抜く。


 束が、ふわりと浮いた。


 そして、投げた。


 投げた瞬間に、重さを戻す。


 二百八十キロが、二百八十キロに戻って、鳴海さんへ突っ込んでいく。


 彼は、鋏を振った。


 鉄筋の束が、()()()()()()


 半分が、床に落ちた。残りの半分は、どこにも無かった。


「惜しい」


「――まだ!」



 わたしは、千早の目で、床を見ていた。


 荷札の海。白い穴だらけの床。


 でも、()()()()()()が、あった。


 鳴海さんの、足元だ。


 自分の立っている場所に札は撒かない。自分も見えなくなるからだ。


 (――()()()()()()())


 (やれ!)



 わたしは、左手を、床に叩きつけた。


 鳴海さんの足元、一メートル四方。


 その()()()()を、抜いた。


 打設されたばかりのコンクリートスラブが、砂糖菓子みたいに軽くなる。


 軽くなったものは、踏まれれば割れる。


「――おっと」


 鳴海さんの片足が、床を踏み抜いた。


 膝まで。


 わたしは、そこへ、資材を投げた。


 鉄骨。百二十キロ。


 軽くして、飛ばして、寸前で戻す。



 どん、と音がした。


 鉄骨が、鳴海さんの肩に当たった。


 彼の体が、床の上を転がった。


 レインコートが裂けた。帽子が飛んだ。


「やった!」


 千早が叫んだ。


 わたしも叫んでいた。


 二人ぶんの声で。



 だが、鳴海さんは、すぐに立ち上がった。


 立ち上がりかたが、おかしかった。


 ()()使()()()()()()()()


 転がった姿勢から、そのまま、すうっと起き上がったのだ。


 重力を、一度も経由せずに。


「……え」


「よくやりますね」


 彼は、髪をかき上げた。


「ですが、こちらも商売でして」



 そのとき、わたしは、気づいた。


 この人が、いつも「いつのまにか」現れる理由に。


 六月の高架下で、走っても追いつかれた理由に。


 二百三十メートルの梁の上を、平気で歩ける理由に。


「――()()()()()()()()()()


 鳴海さんは、目を細めた。


「おや。分かりますか」


「鋏で、自分と地面のつながりを切ってるんですね」


「ええ」


 彼は、あっさり認めた。


「若い頃に一度、自分の足を刈りましてね。()()()()()()()()()()


 彼は、鋏を構え直した。


「便利ですよ。ただし――」


 黒い刃が、ひらいた。


()()()()()()()()()()



 その言いかたに、わたしは、一瞬、動きを止めてしまった。


 この人も、切り捨てた側だった。


 三十年、落ちることのできない体で、人の枝を刈って歩いてきた。


 ――()()()、と言いそうになった。


 言いかけて、飲み込んだ。


 優しさは、いま、必要ない。



 わたしは、床を蹴った。


 鉄骨の柱を掴んで、体を振り回すようにして、鳴海さんの背後へ回った。


 自分の体重を、四十六キロから、五キロに。


 跳んだ。


 二十メートル。


 空中で、四十六キロに戻す。


 落下の勢いごと、彼の肩に叩きつける。


 ――これは、湾岸線で覚えた技だった。



 だが、鳴海さんは、それを見ていた。


「二度目は、通じません」


 彼は、振り向きもせずに、鋏を背中越しに突き上げた。


 刃が、わたしの右腕をかすめた。


 痛みはなかった。


 かわりに。


 ()()()()()()()()()()()()()()()()


 荷札のときとは違った。


 あれは、覆われるような感じだった。


 これは――()()()()


「あっ」


 わたしは、床に転がった。


 浴衣の袖が破れて、肩から血が滲んだ。



「ましろ!」


「――平気」


「平気じゃないでしょ!」


「平気。()()()()()()


 わたしは、立ち上がった。


 右腕が、ぶら下がっていた。動く。感覚もある。


 ただ、そこに重さがない。


 自分の腕なのに、そこだけ、世界から切り離されていた。



「いいですね」


 鳴海さんが、こちらを向いた。


 彼の顔は、汗で濡れていた。


 初めて、息が上がっていた。


「湊さん。三年前、あなたを取り逃したのはわたくしです」


「……」


「保管庫の扉が開いていて、なかは空でした。床に、小さな足跡が一つ」


 彼は、鋏を構え直した。


「あのときのわたくしは、思ったんですよ。()()()()()()()()()、と」


 風が鳴った。


「三年、間違えていたことになる」


 鳴海さんは、笑った。


 いつもの、目尻に皺の寄る笑いかたで。


「ですから、今夜のこれは、()()です」



 彼は、鋏を持ったまま、後ろへ跳んだ。


 五十階のフロアの端。


 タワークレーンの、マストの根元。


 そこに着地して、片手で、太いワイヤーを掴んだ。


 わたしは、その動きの意味が、分からなかった。


 千早は、分かった。


 この子の家の近くで、去年、マンションが建った。半年、毎日それを見ていた。


 (()()()()()()()()()()()()())


 (――え)


 (()()()()!())



「鳴海さん、やめて!」


 わたしは叫んだ。


「下に人がいます! 警備員さんが!」


「存じております」


 彼は、穏やかに答えた。


「六名。四十八階。あなたが札を剥がしてくださったので、そろそろお目覚めでしょう」


 わたしの背筋が、凍った。


「――()()()()()()()()()


 黒い刃が、ワイヤーに当てられた。


「あなたは優しい。だから、必ず助けようとする」


「やめて」


「そして、助けようとすれば」


 じょき。


()()()()()()()()()()()

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