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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
第六章 重さを与える手

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33/50

3 落ちる

 ワイヤーが切れた音は、意外なほど小さかった。


 ぱん、と、風船が割れるみたいな音。


 それだけだった。


 そのあと、世界が、傾いた。



 タワークレーンのマストが、ゆっくりと、こちらへ倒れてきた。


 全長、四十メートル。


 カウンターウェイトを含めて――()()()()()


 その巨体が、悲鳴を上げながら、五十階のフロアへ倒れ込んでくる。


「――走って!」


 わたしたちは、走った。


 背後で、鉄が鉄を砕く音がした。


 マストの先端が、フロアの端を叩きつぶした。


 コンクリートの床が、豆腐みたいに割れた。



 そこから先は、連鎖だった。


 割れた床が、下の階へ落ちる。


 落ちた塊が、下の階の梁を折る。


 折れた梁が、また下へ落ちる。


 組みかけの足場が、ドミノみたいに、外側へ剥がれていく。


 建設中のビルというのは、()()()()()()()()


 骨だけの、途中のものだ。


 一本抜けば、崩れる。



「――ましろ! 下!」


 千早が叫んだ。


 四十八階。


 プレハブの詰所があった場所の床が、抜けていた。


 そして、そこから。


 ()()()()()()()



 六人。


 作業服の警備員たち。


 目を覚ましたばかりで、何が起きたのかも分からないまま。


 両手を振り回して、口を開けて、落ちていた。


 声は、聞こえなかった。


 風が強すぎた。


 その下に、地面があった。


 二百二十メートル下に。



 わたしは、フロアの端まで走って、手を伸ばした。


 ――届かない。


 届くわけがなかった。


 でも、()()()()()()()


 六人ぶん。合計、三百八十キロ。



 わたしは、それを抜いた。


 六人が、空中で止まった。


 ふわりと。


 落下が、止まった。


 ――そして。



 (()()


 三百八十キロが、わたしに来た。


 当たり前だった。


 重さは、消えない。どこかへ行く。


 抜いた重さを、わたしは、自分に入れるしかない。


 膝が、沈んだ。


 コンクリートが、足元で割れた。


「……っ、ぐ」


 三百八十キロ。


 四十六キロのわたしに。


 肋骨が、内側から押された。


 湾岸線で二十四トンを入れたときほどではない。


 でも――()()()


 持てる、はずだった。



 そのとき、上で、音がした。


 ばき、と。


 見上げた。


 傾いだクレーンのマストが、根元から、完全に折れた。


 六十二トンが、落ちてくる。


 その下には、崩れかけた足場が、何十トンぶん。


 剥がれた床のコンクリートが、何十トンぶん。


 鉄骨が。鉄筋が。資材が。



 わたしは、見た。


 見てしまった。


 ()()()()()()()


 それが、いま、落ちていた。


 真下は、仮囲いだ。


 その外は、道路だ。


 道路の向こうは、倉庫と、コンテナヤードと。


 その先に、住宅がある。



「――ましろ!」


「分かってる!」


「持てるの!?」


「――」


 わたしは、答えられなかった。



 持てるわけがなかった。


 二十四トンで、肋骨にひびが入った。


 三百四十七トンなんて、入れた瞬間に、()()()()()()()


 弾けたら、抜いた重さは、全部戻る。


 三百四十七トンが、地面に落ちる。


 そして、宙で止まっている六人も、落ちる。


 (――どこかへ、やらないと)


 (地面? 割れる)


 (海? 遠い)


 (――()()()()())


 夜鷹さんの声が、聞こえた。


 『地面が受け取れないくらい重かったら、そのときは――諦めなさい』



 諦める、というのは、つまり、こういうことだ。


 六人の手を、離す。


 三百四十七トンを、地面に返す。


 わたしと千早は、フロアの中央にいれば、たぶん助かる。


 下で何が起きるかは、見なければいい。


 新聞は、事故だと書くだろう。


 クレーンの倒壊事故。死者六名。


 誰も、わたしを疑わない。


 誰も、わたしを責めない。


 ――()()()()()()()()()()()()()()


 三年間、わたしはずっと、その選択をしてきた。


 階段で、手を引っ込めたときのように。



「――()()()()()()()!()?()


 わたしは叫んだ。


 誰に向かって叫んだのか、自分でも分からなかった。



 そのときだった。


 フロアの反対側の、鉄骨の陰から。


 黒い影が、()()()()()



 歩いていた、というのは、正確ではない。


 流れていた。


 足が、床についていなかった。


 コートの裾が、水のなかみたいに広がっていた。


 右腕は、もう、無かった。


 袖のなかは、ぼんやりした灰色の靄だった。


 髪が、重さを失って、頭のまわりで揺れていた。


 それでも、その人は、こちらへ来た。


「――夜鷹さん」



「どきなさい」


 彼女は言った。


 いつもの声だった。


 高圧的で、冷ややかで、有無を言わせない声。


「私が持つ」


「無理です!」


「どきなさい」


「三百四十七トンです!」


()()()()()()



 夜鷹さんは、残った左手を、上へ向けた。


 そして、いつもどおりのことをした。


 三年前から、ずっとやってきたことを。


 誰にも渡さず、地面にも空気にも預けず。


 ()()()()()()()()


 六月の高架を直したときと、同じやりかたで。



 結果は、一瞬で出た。


 彼女の体が、()()()


 いや、光ったのではない。


 薄くなったのだ。


 輪郭が、ぶれた。


 左腕の肘から先が、靄になった。


 肩が。


 首が。


「――()、」


 夜鷹さんが、膝をついた。


 いや、膝をつくこともできなかった。


 床に触れられずに、そのまま、宙で崩れた。



「夜鷹さん!」


「――()()()()


 彼女は言った。


 驚いたような声だった。


「入らないの。()()()()()()()()()()()


 三年かけて漏れ続けた体には、三百四十七トンを入れる余地が、もう残っていなかった。


 器が、空っぽなのではない。


 ()()()()()()()()()()()()()()()



 落下が、再開した。


 六十二トンのマストが、傾いた。


 鉄骨が、滑り出した。


 六人の警備員が、また落ちはじめた。


 わたしは、両手を上げた。


 右腕には、重さの感覚がなかった。


 左腕一本だった。


 (――()()()()()())



 そのとき。


 頭のなかで、声がした。



『――じゃあ、分けなくていいじゃん』



 土手の上の、花火の下で。


 レジャーシートの端を引っぱりながら、この子は言った。


『二人で持てば』



 わたしは、千早を見た。


 いや、見ていない。


 わたしたちは、同じ目で、同じものを見ていた。


「――千早」


「なに」


「重さは、分けられない」


「うん」


()()()()()()()()()()()()()()()って、あの人が言った」


「言ったね」


「――でも」


 わたしは、自分の両手を見た。


 わたしの手が、二本。


 千早の手が、二本。


 いま、その四本は、()()()()だった。



 (()()()()()()())



 わたしと千早は、いま、二人で一人だ。


 じゃあ、「一人」の線は、どこに引かれている?


 ――()()()()()


 どこにでも。


 広げられるんだ。


 いくらでも。



「千早」


()()


「――()()()()()()



「は?」


「みんなで持てばいい。()()()()


 千早が、一秒だけ黙った。


 それから、彼女は、笑った。


 こんなときに、この子は、笑った。


「――()()()()()()()

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