3 落ちる
ワイヤーが切れた音は、意外なほど小さかった。
ぱん、と、風船が割れるみたいな音。
それだけだった。
そのあと、世界が、傾いた。
*
タワークレーンのマストが、ゆっくりと、こちらへ倒れてきた。
全長、四十メートル。
カウンターウェイトを含めて――六十二トン。
その巨体が、悲鳴を上げながら、五十階のフロアへ倒れ込んでくる。
「――走って!」
わたしたちは、走った。
背後で、鉄が鉄を砕く音がした。
マストの先端が、フロアの端を叩きつぶした。
コンクリートの床が、豆腐みたいに割れた。
*
そこから先は、連鎖だった。
割れた床が、下の階へ落ちる。
落ちた塊が、下の階の梁を折る。
折れた梁が、また下へ落ちる。
組みかけの足場が、ドミノみたいに、外側へ剥がれていく。
建設中のビルというのは、まだ建物ではない。
骨だけの、途中のものだ。
一本抜けば、崩れる。
*
「――ましろ! 下!」
千早が叫んだ。
四十八階。
プレハブの詰所があった場所の床が、抜けていた。
そして、そこから。
人が、落ちていた。
*
六人。
作業服の警備員たち。
目を覚ましたばかりで、何が起きたのかも分からないまま。
両手を振り回して、口を開けて、落ちていた。
声は、聞こえなかった。
風が強すぎた。
その下に、地面があった。
二百二十メートル下に。
*
わたしは、フロアの端まで走って、手を伸ばした。
――届かない。
届くわけがなかった。
でも、重さには、届いた。
六人ぶん。合計、三百八十キロ。
*
わたしは、それを抜いた。
六人が、空中で止まった。
ふわりと。
落下が、止まった。
――そして。
*
(来る)
三百八十キロが、わたしに来た。
当たり前だった。
重さは、消えない。どこかへ行く。
抜いた重さを、わたしは、自分に入れるしかない。
膝が、沈んだ。
コンクリートが、足元で割れた。
「……っ、ぐ」
三百八十キロ。
四十六キロのわたしに。
肋骨が、内側から押された。
湾岸線で二十四トンを入れたときほどではない。
でも――持てる。
持てる、はずだった。
*
そのとき、上で、音がした。
ばき、と。
見上げた。
傾いだクレーンのマストが、根元から、完全に折れた。
六十二トンが、落ちてくる。
その下には、崩れかけた足場が、何十トンぶん。
剥がれた床のコンクリートが、何十トンぶん。
鉄骨が。鉄筋が。資材が。
*
わたしは、見た。
見てしまった。
三百四十七トン。
それが、いま、落ちていた。
真下は、仮囲いだ。
その外は、道路だ。
道路の向こうは、倉庫と、コンテナヤードと。
その先に、住宅がある。
*
「――ましろ!」
「分かってる!」
「持てるの!?」
「――」
わたしは、答えられなかった。
*
持てるわけがなかった。
二十四トンで、肋骨にひびが入った。
三百四十七トンなんて、入れた瞬間に、わたしは弾ける。
弾けたら、抜いた重さは、全部戻る。
三百四十七トンが、地面に落ちる。
そして、宙で止まっている六人も、落ちる。
(――どこかへ、やらないと)
(地面? 割れる)
(海? 遠い)
(――諦めなさい)
夜鷹さんの声が、聞こえた。
『地面が受け取れないくらい重かったら、そのときは――諦めなさい』
*
諦める、というのは、つまり、こういうことだ。
六人の手を、離す。
三百四十七トンを、地面に返す。
わたしと千早は、フロアの中央にいれば、たぶん助かる。
下で何が起きるかは、見なければいい。
新聞は、事故だと書くだろう。
クレーンの倒壊事故。死者六名。
誰も、わたしを疑わない。
誰も、わたしを責めない。
――それが、いちばん賢い選択だった。
三年間、わたしはずっと、その選択をしてきた。
階段で、手を引っ込めたときのように。
*
「――諦めろってこと!?」
わたしは叫んだ。
誰に向かって叫んだのか、自分でも分からなかった。
*
そのときだった。
フロアの反対側の、鉄骨の陰から。
黒い影が、歩いてきた。
*
歩いていた、というのは、正確ではない。
流れていた。
足が、床についていなかった。
コートの裾が、水のなかみたいに広がっていた。
右腕は、もう、無かった。
袖のなかは、ぼんやりした灰色の靄だった。
髪が、重さを失って、頭のまわりで揺れていた。
それでも、その人は、こちらへ来た。
「――夜鷹さん」
*
「どきなさい」
彼女は言った。
いつもの声だった。
高圧的で、冷ややかで、有無を言わせない声。
「私が持つ」
「無理です!」
「どきなさい」
「三百四十七トンです!」
「知ってるわよ」
*
夜鷹さんは、残った左手を、上へ向けた。
そして、いつもどおりのことをした。
三年前から、ずっとやってきたことを。
誰にも渡さず、地面にも空気にも預けず。
全部、自分に入れる。
六月の高架を直したときと、同じやりかたで。
*
結果は、一瞬で出た。
彼女の体が、光った。
いや、光ったのではない。
薄くなったのだ。
輪郭が、ぶれた。
左腕の肘から先が、靄になった。
肩が。
首が。
「――ぐ、」
夜鷹さんが、膝をついた。
いや、膝をつくこともできなかった。
床に触れられずに、そのまま、宙で崩れた。
*
「夜鷹さん!」
「――入らない」
彼女は言った。
驚いたような声だった。
「入らないの。もう、私に、入る場所がない」
三年かけて漏れ続けた体には、三百四十七トンを入れる余地が、もう残っていなかった。
器が、空っぽなのではない。
器そのものが、無くなりかけていた。
*
落下が、再開した。
六十二トンのマストが、傾いた。
鉄骨が、滑り出した。
六人の警備員が、また落ちはじめた。
わたしは、両手を上げた。
右腕には、重さの感覚がなかった。
左腕一本だった。
(――間に合わない)
*
そのとき。
頭のなかで、声がした。
*
『――じゃあ、分けなくていいじゃん』
*
土手の上の、花火の下で。
レジャーシートの端を引っぱりながら、この子は言った。
『二人で持てば』
*
わたしは、千早を見た。
いや、見ていない。
わたしたちは、同じ目で、同じものを見ていた。
「――千早」
「なに」
「重さは、分けられない」
「うん」
「最後は、誰か一人が持つことになるって、あの人が言った」
「言ったね」
「――でも」
わたしは、自分の両手を見た。
わたしの手が、二本。
千早の手が、二本。
いま、その四本は、一人ぶんだった。
*
(一人って、なんだ)
*
わたしと千早は、いま、二人で一人だ。
じゃあ、「一人」の線は、どこに引かれている?
――引けるんだ。
どこにでも。
広げられるんだ。
いくらでも。
*
「千早」
「言え」
「――みんなで持つ」
*
「は?」
「みんなで持てばいい。東京中で」
千早が、一秒だけ黙った。
それから、彼女は、笑った。
こんなときに、この子は、笑った。
「――それ、最高じゃん」




