4 重さを与える手
わたしは、両手を広げた。
右腕には、重さがない。
だから、左手だけが、ちゃんと世界に触れていた。
それでよかった。
一本あれば、届く。
*
三百四十七トン。
三十四万七千キログラム。
三億四千七百万グラム。
*
わたしは、それを、配りはじめた。
*
最初に、この建物に。
まだ折れていない鉄骨に、一本あたり、数グラムずつ。
次に、仮囲いに。資材に。眠っている重機に。
次に、地面に。
埋立地のアスファルトに、コンクリートに、その下の土に。
次に、道路に。
湾岸線の高架に。防音壁に。走っている車の一台ずつに。
――〇・八グラム。
誰も気づかない。ワイパー一往復ぶんの誤差にもならない。
*
次に、海に。
東京湾の、黒い水に。
水面に浮かんでいたコンテナ船に。
波に。波の一つ一つに。
*
次に、街に。
コンテナヤードのクレーンに。
倉庫の屋根に。
その向こうの、工場の煙突に。
橋に。線路に。駅に。
ビルに。ビルの屋上の給水塔に。
マンションのベランダに干された洗濯物に。
*
次に、公園の木に。
街路樹の葉の、一枚ずつに。
〇・〇〇〇四グラム。
葉に落ちた朝露のほうが、まだ重い。
*
次に――
*
わたしは、東京を見た。
千早の目と、わたしの目で。
地平線まで、明かりが続いていた。
赤と、白と、オレンジと。
あの一つ一つの下に、人がいる。
深夜一時の東京に、起きている人も、眠っている人もいる。
千四百万人。
わたしは、その全員に、お裾分けをした。
*
一人あたり、〇・〇二グラム。
睫毛一本ぶんにも、たぶん、足りない。
誰も、気づかなかった。
気づくはずがなかった。
眠っている人は、眠ったままだった。
コンビニのレジを打っている人は、レジを打ったままだった。
最終電車の座席で寝ている人は、寝たままだった。
誰一人、何も、失わなかった。
誰一人、何も、痛まなかった。
*
ただ、東京が。
東京が、まるごと、二十四グラムずつ重くなった。
*
配りながら、わたしは、見ていた。
――千早の目で。
台東区のマンションの、五階のベランダ。
干しっぱなしのシャツが、〇・〇〇〇三グラム重くなった。
風に揺れる角度は、一ミリも変わらなかった。
中野の商店街の、シャッターの前。
自転車のかごに入った買い物袋が、ほんの少し重くなった。
持ち主は、まだ帰らない。気づきもしない。
多摩川の河川敷で、誰かが忘れていったサッカーボール。
〇・〇〇〇一グラム。
明日の朝、拾った子どもは、何も思わない。
*
(――ましろ)
千早の声が、頭のなかで震えていた。
(これ、全部ましろがやってんの?)
(うん)
(何人ぶん見えてんの)
(……分からない)
分からなかった。
数えていなかった。
ただ、「東京」というものの形が、そのとき、はっきりと分かった。
建物の集まりでも、道路の集まりでもなかった。
重さを受け取ってくれるものの、集まりだった。
*
(千早)
(なに)
(怒られるかな)
(誰に)
(全員に)
千早が、頭のなかで、盛大に噴き出した。
(二十四グラムで怒る人、いないでしょ)
(いるかも)
(いない)
(いるかも)
(じゃあ、あとで謝りに行こ。千四百万人に)
(一生かかるよ)
(暇だし)
わたしたちは、二百三十メートルの空の上で、笑った。
落ちてくる三百四十七トンの下で。
*
夜鷹さんは、言った。
軽くしたいなら、誰かに背負わせなさい、と。
地面か、空気か、隣に立っている人間か。とにかく、誰かが持つの、と。
だから、これは呪いなのよ、と。
――違う。
わたしは、そのとき、はっきりと思った。
背負わせるんじゃない。
配るんだ。
*
三百四十七トンが、消えた。
*
落ちていたものが、止まった。
六十二トンのタワークレーンのマストが、二百三十メートルの空中で、ぴたりと静止した。
剥がれた足場が、止まった。
鉄骨が。鉄筋が。コンクリートの塊が。
何百という破片が、落下の途中の形のまま、夜空に留まった。
風に押されて、ゆっくりと、ばらばらの方向へ漂いはじめた。
東京の光が、その一つ一つに反射した。
――星みたいだった。
*
そして、六人が。
落ちていた警備員たちが、空中で、ふわりと止まった。
わたしは、その六人を、そっと持ち上げた。
重さのない体は、驚くほど素直に動いた。
六人は、両手を広げたまま、フロアのほうへ流れてきた。
水のなかを泳ぐみたいに。
そして、五十階の床の上に、順番に、そっと降ろされた。
*
最初の一人が、尻もちをついたまま、自分の手を見ていた。
次の一人が、口を開けたまま、空を見上げていた。
三人目が、震える声で、何かを言った。
「……生きてる?」
誰も答えなかった。
*
わたしは、膝をついた。
息が、上がっていた。
汗が、顎から落ちた。
肋骨が痛かった。右腕は、まだぶら下がっていた。
でも。
どこも、潰れていなかった。
*
わたしは、顔を上げた。
空に、鉄の星が浮かんでいた。
その光のなかに。
黒い服の人が、いた。
*
夜鷹さんは、宙に浮いたまま、動かなかった。
目を、見ひらいていた。
あの人の、あんな顔を、わたしは初めて見た。
冷たくもなく、高圧的でもなく、自嘲でもなく。
ただ、分からないという顔だった。
「――なに、それ」
彼女は言った。
声が、かすれていた。
「なにを、したの」
「配りました」
「……配る?」
「東京中に。少しずつ」
*
「――そんなことが」
夜鷹さんの唇が、震えた。
「そんなこと、できるわけが」
「できました」
「重さは、分けられないのよ」
「分けてません」
わたしは言った。
「みんなで持ったんです」
*
夜鷹さんは、答えなかった。
答えられなかったのだと思う。
彼女は、三年前に、この力を切り捨てた。
忌まわしいものとして。呪いとして。
人を潰すためだけのものとして。
三十年近く、この人はこの力と生きてきて、そして。
一度も、こんなふうに使ったことがなかった。
*
「……知らなかった」
夜鷹さんは、言った。
浮かんだまま。
鉄の星の海の、真ん中で。
「私は、これを、知らなかった」




