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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
第六章 重さを与える手

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5 一本の枝

「――()()()()


 声は、真横から聞こえた。


 わたしは、顔を上げた。


 鳴海さんが、立っていた。


 三メートル先。


 いつのまに、とは思わなかった。この人は、いつもそうだ。


 作業帽が飛んで、髪が乱れていた。


 レインコートの肩が裂けて、そこから血が滲んでいた。


 それでも、彼は、大鋏を両手で構えていた。



「いい仕事を見せていただきました」


 彼は言った。


 息が、切れていた。


「ですが、わたくしにも、仕事がございます」


 黒い刃が、ひらいた。


「――()()()()()()()()



 わたしは、立てなかった。


 膝が、笑っていた。


 右腕は、感覚がなかった。


 左手を上げようとして、指が震えた。


 (――()()()()()()


 (千早、逃げて)


 (()()


 (逃げて!)


 (()()()()()()()()()!()



 鳴海さんが、踏み込んだ。


 大鋏が、振り下ろされた。


 わたしの真上へ。


 ――そして。



 その刃が、わたしに届く直前。


 間に、()()()()()()()()()()


 空中に浮いていた、五メートルの鉄骨。


 風に流されてきたそれが、ちょうど、そこにあった。


 偶然だった。


 たぶん、本当に、偶然だった。



 黒い刃が、鉄骨に食い込んだ。


 じょ、という音が、途中で止まった。



 鳴海さんの顔が、変わった。


「――え」



 彼の鋏は、鉄を切る道具ではない。


 ()()()()()()()()()だ。


 重さを、持ち主から切り離す。


 光を、光源から切り離す。


 異能を、持ち主から切り離す。


 だから、あの刃は、いつも「一本の線」を断ってきた。


 この鉄骨の重さが、どこにつながっているか。


 ――()()()()



 千四百万人と、無数のビルと、道路と、木と、海。


 その全部に、この鉄骨は、細い細い糸でつながっていた。


 一本の枝ではなかった。


 ()()()()()()()()()()()()



 鋏が、それを切ろうとした。


 切ろうとして――


 ()()()()()()()()



 乾いた音がした。


 ぱきん、と。


 驚くほど、軽い音だった。


 黒い刃の片方が、根元から折れて、空へ飛んだ。


 くるくると回りながら、二百三十メートルの夜のなかへ。


 そして、落ちていかなかった。


 ()()()()()()


 わたしが配った重さのなかで、黒い刃は、ほかの鉄くずと一緒に、ゆっくりと漂った。



 鳴海さんは、手のなかに残った柄を見ていた。


 刃が半分になった、ただの棒を。


 長い、長い時間、そうしていた。



「……はは」


 彼は、笑った。


 力の抜けた、情けない笑いかただった。


 初めて聞く声だった。


「これ、本家の一本なんですよ」


「……」


「三代、使ってましてね。()()()()()()()()()()()()なんです」


 彼は、柄を、床に置いた。


 ことん、と音がした。


 そして、その場に、あぐらをかいて座った。


 工事現場で、休憩に入る職人みたいに。



「終わりましたね」


「……終わり?」


「うちは、これで終わりです」


 鳴海さんは、空を見上げた。


 浮いている鉄骨の星々を。


「刈れない農家は、農家じゃない。取引先は明日には離れます。逃げる者も出る。上は、たぶん今夜じゅうに解散を決めるでしょう」


 彼は、ふ、と息を吐いた。


「三年前の取りこぼしに、三年かけて潰された。()()()()()()()



 わたしは、何も言えなかった。


 この人は、わたしを枝だと呼んだ。株だと呼んだ。実だと呼んだ。


 根ごと刈ると言った。


 千早を攫って、警備員を落とした。


 許せるわけがなかった。


 それなのに、あぐらをかいて座っているその背中は、ただの、疲れた中年の男の背中だった。



「湊さん」


「……はい」


「一つ、教えていただけますか」


 彼は、振り返らずに言った。


「三年前、あの部屋を出たとき」


 風が鳴った。


「どこへ行こうと思ったんですか」



 わたしは、その質問を、しばらく考えた。


 記憶はない。


 三年前の夜のことを、わたしは何も覚えていない。


 覚えていないのに、答えは、すぐに出てきた。


「――海のほうに、光が見えたので」


「光」


「はい。……たぶん、明るいほうへ、歩いただけだと思います」



 鳴海さんは、しばらく黙っていた。


 それから、小さく、うなずいた。


「そうですか」


 その声には、何も混ざっていなかった。


 怒りも、悔しさも、皮肉も。


「――そうですか」


 もう一度、彼は言った。



 階段のほうで、足音がした。


 柏木さんだった。


 息を切らして、フロアに転がり込んできて、そして、空を見上げて、固まった。


 浮いた鉄骨。浮いた足場。浮いたクレーン。


 その下に座り込んでいる、六人の警備員。


 あぐらをかいた鳴海さん。


 浴衣を破いた女子高生。


「…………なに、これ」


 彼女は、そう言うのが精一杯だった。



「柏木さん」


 鳴海さんが、振り返らずに言った。


「はい」


「無線で、上に伝えてください」


「……なんて」


()()()()()()()()()()、と」



 柏木さんは、ぽかんとしていた。


 それから、無線機を取り出して、しばらく見て。


 ――そして、()()()()()()


「やめます」


「そうですか」


「いま、やめます」


「そうですか」


 鳴海さんは、それだけ言った。


 止めなかった。



 柏木さんは、わたしのところへ来て、しゃがんだ。


 わたしの右腕を見て、顔をしかめた。


「これ、切られてんの」


「切られました」


「……治るの?」


「分かりません」


「ばかじゃないの」


 彼女は、自分のタオルを外して、わたしの肩に巻いた。


 乱暴な手つきだった。


 乱暴なのに、痛くなかった。


「あんた、ほんと、ばかだよ」


「……はい」


「わたしの腕、折ったくせに」


「……すみません」


「謝るなって言ってんでしょ」


 柏木さんの声が、途中で崩れた。


 わたしは、その人の頭を見ていた。


 髪のつむじが、少し右に寄っていた。


 三ヶ月前、わたしはこの人の名前も知らなかった。

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