5 一本の枝
「――なるほど」
声は、真横から聞こえた。
わたしは、顔を上げた。
鳴海さんが、立っていた。
三メートル先。
いつのまに、とは思わなかった。この人は、いつもそうだ。
作業帽が飛んで、髪が乱れていた。
レインコートの肩が裂けて、そこから血が滲んでいた。
それでも、彼は、大鋏を両手で構えていた。
*
「いい仕事を見せていただきました」
彼は言った。
息が、切れていた。
「ですが、わたくしにも、仕事がございます」
黒い刃が、ひらいた。
「――根ごと、回収します」
*
わたしは、立てなかった。
膝が、笑っていた。
右腕は、感覚がなかった。
左手を上げようとして、指が震えた。
(――間に合わない)
(千早、逃げて)
(やだ)
(逃げて!)
(やだって言ってんの!)
*
鳴海さんが、踏み込んだ。
大鋏が、振り下ろされた。
わたしの真上へ。
――そして。
*
その刃が、わたしに届く直前。
間に、鉄骨が一本、割り込んだ。
空中に浮いていた、五メートルの鉄骨。
風に流されてきたそれが、ちょうど、そこにあった。
偶然だった。
たぶん、本当に、偶然だった。
*
黒い刃が、鉄骨に食い込んだ。
じょ、という音が、途中で止まった。
*
鳴海さんの顔が、変わった。
「――え」
*
彼の鋏は、鉄を切る道具ではない。
つながりを切る道具だ。
重さを、持ち主から切り離す。
光を、光源から切り離す。
異能を、持ち主から切り離す。
だから、あの刃は、いつも「一本の線」を断ってきた。
この鉄骨の重さが、どこにつながっているか。
――東京中に。
*
千四百万人と、無数のビルと、道路と、木と、海。
その全部に、この鉄骨は、細い細い糸でつながっていた。
一本の枝ではなかった。
根が、街ぜんぶに張っていた。
*
鋏が、それを切ろうとした。
切ろうとして――
刃のほうが、負けた。
*
乾いた音がした。
ぱきん、と。
驚くほど、軽い音だった。
黒い刃の片方が、根元から折れて、空へ飛んだ。
くるくると回りながら、二百三十メートルの夜のなかへ。
そして、落ちていかなかった。
それも、浮いた。
わたしが配った重さのなかで、黒い刃は、ほかの鉄くずと一緒に、ゆっくりと漂った。
*
鳴海さんは、手のなかに残った柄を見ていた。
刃が半分になった、ただの棒を。
長い、長い時間、そうしていた。
*
「……はは」
彼は、笑った。
力の抜けた、情けない笑いかただった。
初めて聞く声だった。
「これ、本家の一本なんですよ」
「……」
「三代、使ってましてね。大物を刈れるのは、これだけなんです」
彼は、柄を、床に置いた。
ことん、と音がした。
そして、その場に、あぐらをかいて座った。
工事現場で、休憩に入る職人みたいに。
*
「終わりましたね」
「……終わり?」
「うちは、これで終わりです」
鳴海さんは、空を見上げた。
浮いている鉄骨の星々を。
「刈れない農家は、農家じゃない。取引先は明日には離れます。逃げる者も出る。上は、たぶん今夜じゅうに解散を決めるでしょう」
彼は、ふ、と息を吐いた。
「三年前の取りこぼしに、三年かけて潰された。因果なもんです」
*
わたしは、何も言えなかった。
この人は、わたしを枝だと呼んだ。株だと呼んだ。実だと呼んだ。
根ごと刈ると言った。
千早を攫って、警備員を落とした。
許せるわけがなかった。
それなのに、あぐらをかいて座っているその背中は、ただの、疲れた中年の男の背中だった。
*
「湊さん」
「……はい」
「一つ、教えていただけますか」
彼は、振り返らずに言った。
「三年前、あの部屋を出たとき」
風が鳴った。
「どこへ行こうと思ったんですか」
*
わたしは、その質問を、しばらく考えた。
記憶はない。
三年前の夜のことを、わたしは何も覚えていない。
覚えていないのに、答えは、すぐに出てきた。
「――海のほうに、光が見えたので」
「光」
「はい。……たぶん、明るいほうへ、歩いただけだと思います」
*
鳴海さんは、しばらく黙っていた。
それから、小さく、うなずいた。
「そうですか」
その声には、何も混ざっていなかった。
怒りも、悔しさも、皮肉も。
「――そうですか」
もう一度、彼は言った。
*
階段のほうで、足音がした。
柏木さんだった。
息を切らして、フロアに転がり込んできて、そして、空を見上げて、固まった。
浮いた鉄骨。浮いた足場。浮いたクレーン。
その下に座り込んでいる、六人の警備員。
あぐらをかいた鳴海さん。
浴衣を破いた女子高生。
「…………なに、これ」
彼女は、そう言うのが精一杯だった。
*
「柏木さん」
鳴海さんが、振り返らずに言った。
「はい」
「無線で、上に伝えてください」
「……なんて」
「畑が、歩いていきました、と」
*
柏木さんは、ぽかんとしていた。
それから、無線機を取り出して、しばらく見て。
――そして、電源を切った。
「やめます」
「そうですか」
「いま、やめます」
「そうですか」
鳴海さんは、それだけ言った。
止めなかった。
*
柏木さんは、わたしのところへ来て、しゃがんだ。
わたしの右腕を見て、顔をしかめた。
「これ、切られてんの」
「切られました」
「……治るの?」
「分かりません」
「ばかじゃないの」
彼女は、自分のタオルを外して、わたしの肩に巻いた。
乱暴な手つきだった。
乱暴なのに、痛くなかった。
「あんた、ほんと、ばかだよ」
「……はい」
「わたしの腕、折ったくせに」
「……すみません」
「謝るなって言ってんでしょ」
柏木さんの声が、途中で崩れた。
わたしは、その人の頭を見ていた。
髪のつむじが、少し右に寄っていた。
三ヶ月前、わたしはこの人の名前も知らなかった。




