6 三グラム
空に浮かんだものを、下ろすのに、三十分かかった。
一度に落とすわけにはいかなかった。
三百四十七トンを、いっぺんに地面へ返したら、埋立地が沈む。
だから、少しずつ返した。
東京中から、ほんの少しずつ、借りたものを取り戻すみたいに。
鉄骨が、ゆっくりと降りてきて、資材置き場に並んだ。
足場が、壁際に積み重なった。
六十二トンのタワークレーンのマストは、いちばん最後に、空き地の真ん中に、静かに横たえた。
*
警備員の人たちは、何も分かっていなかった。
当然だと思う。
目が覚めたら落ちていて、次に気づいたら五十階に座っていたのだ。
一人が、「ガス漏れかな」と言った。
もう一人が、「地震だろ」と言った。
三人目が、「いや、俺、飛んでたよ」と言って、二人に笑われていた。
わたしは、それを聞きながら、少し笑った。
――それでいい、と思った。
誰も、何も、知らなくていい。
*
柏木さんが、警備員たちを階段へ誘導していった。
鳴海さんは、折れた鋏の柄を拾って、立ち上がった。
「では、わたくしも」
「……帰るんですか」
「帰ります」
彼は、帽子を拾って、かぶり直した。
半分になった鋏を、肩に担ぐ。
いつもの格好だった。
それなのに、まるで違って見えた。
「湊さん」
「はい」
「お元気で」
彼は、律儀に一礼して、階段を下りていった。
それきり、わたしはその人を見ていない。
*
五十階に、三人だけが残った。
わたしと、千早と。
――夜鷹さん。
*
彼女は、フロアの端の鉄骨に、腕をひっかけて浮いていた。
残った左腕一本で。
その左腕も、もう、肘から先が透けていた。
髪が、水のなかみたいに広がっていた。
地上二百三十メートルの風のなかで、この人は、いつ流されてもおかしくなかった。
*
わたしは、そこへ歩いていった。
足が重かった。
肋骨が痛くて、右腕はぶら下がっていた。
それでも、歩いていった。
「夜鷹さん」
「……来ないで」
「なんでですか」
「見ないで」
わたしは、止まらなかった。
*
「三年前、あなたはこれを切りました」
「――ええ」
「忌まわしいって思って。呪いだって思って」
「……ええ」
「でも」
わたしは、彼女のすぐ前に立った。
風が、わたしたちのあいだを吹き抜けた。
「さっきのは、どうでした」
*
夜鷹さんは、答えなかった。
目を伏せた。
それから、ひどく小さな声で、言った。
「……きれいだった」
わたしの喉が、詰まった。
「そう、ですか」
「ええ」
「よかった」
*
わたしは、左手を持ち上げた。
右腕は、まだ使えない。
だから、左手だけで。
その手を、夜鷹さんのほうへ、伸ばした。
「――なに」
「いま、配ってるんです」
「……なんの話」
「東京中に、二十四グラムずつ。まだ返しきってないぶんが、少し残ってて」
わたしは、言った。
「あなたにも、あげます」
*
夜鷹さんが、顔を上げた。
「……え」
「三グラム」
「三、」
「すみません、それだけしか。多いと、たぶん痛いので」
*
わたしは、そっと、置いた。
この人のなかに。
三グラム。
いちごのキャンディ一個ぶんの、重さを。
*
――ぱさ、と音がした。
夜鷹さんの髪が、落ちた。
水のなかで広がっていた黒い髪が、ふっと重さを思い出して、肩に落ちた。
コートの裾が、下がった。
そして。
彼女のつま先が、床に触れた。
*
こつん。
小さな音がした。
靴の底が、コンクリートに当たる音。
それだけの、なんでもない音だった。
*
夜鷹さんは、動かなかった。
鉄骨から腕を離すのを、忘れているみたいだった。
それから、ゆっくりと、腕を離した。
落ちなかった。
浮きもしなかった。
彼女は、立っていた。
*
三グラムだ。
たった三グラムで、この人は、床に立てた。
三年ぶりの、地面だった。
*
「……なんで」
夜鷹さんが言った。
声が、変だった。
「なんで、私に」
「余ってたので」
「――嘘」
「嘘です」
わたしは、正直に言った。
「あなたにあげたくて、二十四グラムぶん、少なく配りました」
*
夜鷹さんは、自分の足元を見ていた。
床と、自分の靴のあいだを。
ずっと、見ていた。
風が吹いた。
彼女は、流されなかった。
*
そして。
その人の顔が、ゆっくりと、崩れた。
*
泣いたのではない。
泣くのとは、少し違った。
どう泣けばいいのか分からない人が、泣きかたを探しているような、ひどく不器用な顔だった。
口をひらいて、何か言おうとして、やめて。
もう一度ひらいて、やめて。
結局、こう言った。
「――ありがとう」
*
ひなたにキャンディをもらった日と、同じ言いかただった。
「ありがとう」を、何年も言っていない人の言いかた。
わたしは、うなずいた。
それ以上、何も言わなかった。
言ったら、わたしのほうが泣くと思った。
*
東の空が、少し白んでいた。
夏の夜は、短い。
わたしは、フロアの端に座って、足を投げ出した。
千早が――わたしのなかの千早が、ずっと黙っていた。
(千早)
(……なに)
(泣いてる?)
(泣いてない)
(泣いてるじゃん)
(うるさい)
*
わたしは、東京を見た。
まだ、暗い。
でも、地平線のあたりだけ、藍色になっていた。
あの下で、千四百万人が、二十四グラム重くなったまま眠っている。
誰も知らない。
明日の朝、誰も何にも気づかない。
――それで、いい。
それが、いちばんいい。
*
わたしは、自分の左手を見た。
三年間、この手は、潰すための手だった。
触れてはいけない手だった。
三つのルールのうち、いちばん大事なルールが、この手のためにあった。
それが、今夜、変わった。
この手は、与える手だった。
ずっと、そうだったのだ。
わたしが、知らなかっただけで。
*
隣で、夜鷹さんが、座った。
床に。
ちゃんと、重さのある座りかたで。
三グラムぶんの。
わたしたちは、しばらく、何も喋らなかった。
言わなければならないことは、まだ、山ほど残っていた。
この人の体は、あと二週間しかもたない。
三グラムでは、足りない。
そして、その答えを持っているのは、たぶん、この世にわたし一人だった。
――でも、いまは、まだ。
夜が明けるまでは、まだ。
わたしたちは、鉄の星が全部降りた空を、黙って見ていた。




