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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
第六章 重さを与える手

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36/50

6 三グラム

 空に浮かんだものを、下ろすのに、三十分かかった。


 一度に落とすわけにはいかなかった。


 三百四十七トンを、いっぺんに地面へ返したら、埋立地が沈む。


 だから、少しずつ返した。


 東京中から、ほんの少しずつ、借りたものを取り戻すみたいに。


 鉄骨が、ゆっくりと降りてきて、資材置き場に並んだ。


 足場が、壁際に積み重なった。


 六十二トンのタワークレーンのマストは、いちばん最後に、空き地の真ん中に、静かに横たえた。



 警備員の人たちは、何も分かっていなかった。


 当然だと思う。


 目が覚めたら落ちていて、次に気づいたら五十階に座っていたのだ。


 一人が、「ガス漏れかな」と言った。


 もう一人が、「地震だろ」と言った。


 三人目が、「いや、俺、飛んでたよ」と言って、二人に笑われていた。


 わたしは、それを聞きながら、少し笑った。


 ――それでいい、と思った。


 誰も、何も、知らなくていい。



 柏木さんが、警備員たちを階段へ誘導していった。


 鳴海さんは、折れた鋏の柄を拾って、立ち上がった。


「では、わたくしも」


「……帰るんですか」


「帰ります」


 彼は、帽子を拾って、かぶり直した。


 半分になった鋏を、肩に担ぐ。


 いつもの格好だった。


 それなのに、まるで違って見えた。


「湊さん」


「はい」


()()()()


 彼は、律儀に一礼して、階段を下りていった。


 それきり、わたしはその人を見ていない。



 五十階に、三人だけが残った。


 わたしと、千早と。


 ――夜鷹さん。



 彼女は、フロアの端の鉄骨に、腕をひっかけて浮いていた。


 残った左腕一本で。


 その左腕も、もう、肘から先が透けていた。


 髪が、水のなかみたいに広がっていた。


 地上二百三十メートルの風のなかで、この人は、()()()()()()()()()()()()()()()



 わたしは、そこへ歩いていった。


 足が重かった。


 肋骨が痛くて、右腕はぶら下がっていた。


 それでも、歩いていった。


「夜鷹さん」


「……来ないで」


「なんでですか」


()()()()


 わたしは、止まらなかった。



「三年前、あなたはこれを切りました」


「――ええ」


「忌まわしいって思って。呪いだって思って」


「……ええ」


「でも」


 わたしは、彼女のすぐ前に立った。


 風が、わたしたちのあいだを吹き抜けた。


()()()()()()()()()()



 夜鷹さんは、答えなかった。


 目を伏せた。


 それから、ひどく小さな声で、言った。


「……きれいだった」


 わたしの喉が、詰まった。


「そう、ですか」


「ええ」


「よかった」



 わたしは、左手を持ち上げた。


 右腕は、まだ使えない。


 だから、左手だけで。


 その手を、夜鷹さんのほうへ、伸ばした。


「――なに」


「いま、配ってるんです」


「……なんの話」


「東京中に、二十四グラムずつ。まだ返しきってないぶんが、少し残ってて」


 わたしは、言った。


()()()()()()()()()



 夜鷹さんが、顔を上げた。


「……え」


「三グラム」


「三、」


「すみません、それだけしか。多いと、たぶん痛いので」



 わたしは、そっと、置いた。


 この人のなかに。


 三グラム。


 いちごのキャンディ一個ぶんの、重さを。



 ――()()()()()()()


 夜鷹さんの髪が、落ちた。


 水のなかで広がっていた黒い髪が、ふっと重さを思い出して、肩に落ちた。


 コートの裾が、下がった。


 そして。


 彼女のつま先が、()()()()()



 こつん。


 小さな音がした。


 靴の底が、コンクリートに当たる音。


 それだけの、なんでもない音だった。



 夜鷹さんは、動かなかった。


 鉄骨から腕を離すのを、忘れているみたいだった。


 それから、ゆっくりと、腕を離した。


 落ちなかった。


 浮きもしなかった。


 彼女は、()()()()()



 三グラムだ。


 たった三グラムで、この人は、床に立てた。


 三年ぶりの、地面だった。



「……なんで」


 夜鷹さんが言った。


 声が、変だった。


「なんで、私に」


「余ってたので」


「――嘘」


「嘘です」


 わたしは、正直に言った。


「あなたにあげたくて、二十四グラムぶん、少なく配りました」



 夜鷹さんは、自分の足元を見ていた。


 床と、自分の靴のあいだを。


 ずっと、見ていた。


 風が吹いた。


 彼女は、流されなかった。



 そして。


 その人の顔が、ゆっくりと、崩れた。



 泣いたのではない。


 泣くのとは、少し違った。


 どう泣けばいいのか分からない人が、泣きかたを探しているような、ひどく不器用な顔だった。


 口をひらいて、何か言おうとして、やめて。


 もう一度ひらいて、やめて。


 結局、こう言った。


「――()()()()()



 ひなたにキャンディをもらった日と、同じ言いかただった。


 「ありがとう」を、何年も言っていない人の言いかた。


 わたしは、うなずいた。


 それ以上、何も言わなかった。


 言ったら、わたしのほうが泣くと思った。



 東の空が、少し白んでいた。


 夏の夜は、短い。


 わたしは、フロアの端に座って、足を投げ出した。


 千早が――()()()()()()()()()()、ずっと黙っていた。


 (千早)


 (……なに)


 (泣いてる?)


 (()()()()()


 (泣いてるじゃん)


 (うるさい)



 わたしは、東京を見た。


 まだ、暗い。


 でも、地平線のあたりだけ、藍色になっていた。


 あの下で、千四百万人が、二十四グラム重くなったまま眠っている。


 誰も知らない。


 明日の朝、誰も何にも気づかない。


 ――それで、いい。


 それが、いちばんいい。



 わたしは、自分の左手を見た。


 三年間、この手は、潰すための手だった。


 触れてはいけない手だった。


 三つのルールのうち、いちばん大事なルールが、この手のためにあった。


 それが、今夜、変わった。


 この手は、()()()()だった。


 ずっと、そうだったのだ。


 わたしが、知らなかっただけで。



 隣で、夜鷹さんが、座った。


 床に。


 ちゃんと、重さのある座りかたで。


 三グラムぶんの。


 わたしたちは、しばらく、何も喋らなかった。


 言わなければならないことは、まだ、山ほど残っていた。


 この人の体は、あと二週間しかもたない。


 三グラムでは、足りない。


 そして、その答えを持っているのは、たぶん、この世にわたし一人だった。


 ――でも、いまは、まだ。


 夜が明けるまでは、まだ。


 わたしたちは、鉄の星が全部降りた空を、黙って見ていた。

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