6 二十四グラム
日が落ちはじめた。
花びらは、まだ空に浮かんでいた。
河川敷の人たちは、そろそろ片付けをはじめていた。
誰も、空のことは気にしていなかった。
春だから、花びらは舞うものだ。
――上に舞っても、たぶん、そういうものだと思う。
*
「一個ずつ、聞いていい?」
「どうぞ」
「ましろの記憶、ある?」
「あるわ」
「全部?」
「全部」
彼女は、膝を抱えて座っていた。
黒いコートの裾が、草の上に広がっていた。
「唐揚げのタッパーの重さも、覚えてる。二百八十グラム。まだ温かかった」
わたしは、鼻の奥がつんとした。
*
「じゃあ、あの魔女の記憶は」
「それも、全部」
「――混ざってるの?」
「混ざってる、とは、少し違うわね」
彼女は、少し考えるような顔をした。
「水に絵の具を落としたのとは、違うの。二つとも、ちゃんとある」
「二つとも」
「ええ。私は、妹を殺した女でもあるし、あの子でもある」
*
わたしは、その言葉の重さに、しばらく黙った。
妹の話は、ノートにも、ましろの記憶にもなかった。
この人が、八月八日の朝に、初めて取り戻したものだ。
「……つらい?」
「つらいわね」
彼女は、あっさり言った。
「三年ぶんの、逃げていた時間が、全部戻ってきたから」
「――」
「でも」
彼女は、空を見上げた。
「逃げるために切ったのに、逃げきれなかった。それだけの話よ」
*
「どっちかが強くなったりしないの」
わたしは訊いた。
「たとえば、朝はましろで、夜は魔女、とか」
「しないわ」
「なんで」
「そういうふうにできていないから」
彼女は、こちらを見た。
「あなた、五歳のときの自分と、いまの自分、切り替えてる?」
「……してない」
「でしょう」
彼女は、ふ、と息を吐いた。
「同じことよ。私のなかの時間が、少し変な順番で並んでいるだけ」
*
「――名前は」
わたしは訊いた。
「なんて呼べばいいの」
彼女は、少し困った顔をした。
あの、困ったような笑いかたで。
「好きなほうで」
「両方あるってこと?」
「ええ」
「本名は」
「灯里」
彼女は言った。
「灯りの、灯に、里」
*
「……あかりん?」
「やめなさい」
即答だった。
ものすごく嫌そうな顔だった。
わたしは、噴き出した。
噴き出して、それからまた、少し泣いた。
*
「じゃあ、灯里さんって呼ぶ」
「ええ」
「でも」
わたしは、膝を抱えた。
「ときどき、ましろって呼ぶから」
彼女は、しばらく黙っていた。
それから、小さく言った。
「――呼ばれたいわ」
*
わたしは、鞄から、それを出した。
黄色いビニール傘。
骨が一本、折れたままの。
ずっと、部屋の隅に立てかけてあった。
「これ」
「……ああ」
「貸すよ」
「いらないわ」
「いる」
わたしは、押しつけた。
「壊れてても使えるんだから、えらいでしょ、これ」
彼女は、それを受け取って、じっと見た。
折れた骨のところを、指でつついた。
――あの子と、同じ触りかたで。
*
「――千早さん」
「さん、いらない」
「……千早」
「なに」
「一つ、教えてあげる」
彼女は、東京のほうを指した。
ビルの明かりが、点きはじめていた。
*
「東京は、まだ二十四グラム重いわ」
*
わたしは、顔を上げた。
「え」
「去年の八月に配ったぶん。戻していないの」
「――戻さないの?」
「戻せないわ。もう、どれが誰のか分からないもの」
彼女は、少し笑った。
「みんな、二十四グラム持ったまま、八ヶ月暮らしてる」
「気づいてない?」
「一人も」
*
わたしは、東京を見た。
川の向こうのマンション。その向こうのビル。そのまた向こうの、たぶんスカイツリー。
夕方の街に、明かりが増えていく。
あの下に、千四百万人がいる。
全員が、二十四グラム重い。
誰も知らない。
*
「――なんか」
わたしは言った。
「それ、いちばんあの子っぽいね」
「そう?」
「うん」
わたしは、草を一本抜いて、指で回した。
「誰にも気づかれないように、みんなにちょっとずつ、押しつけてる」
「押しつけた、とは言わないで」
「じゃあ、なんて言うの」
彼女は、少し考えて、こう言った。
「――お裾分け」
*
わたしは、笑った。
声を出して、笑った。
八ヶ月ぶりだった。
*
ひとしきり笑ってから、わたしは訊いた。
「ねえ」
「なに」
「佐伯さんには、言わないの?」
彼女の動きが、止まった。
「――言えないわ」
「なんで」
「私は、あの人にとって、知らない女よ」
彼女は、草の上に置いた手を、少し握った。
「二十九歳の女が突然訪ねていって、私はましろですと言って、何が起きると思う?」
「……通報」
「通報ね」
*
わたしは、それについて、しばらく考えた。
「――でもさ」
「なに」
「ボランティア、来なよ」
「は?」
「若葉園、ボランティア募集してるの。宿題見る係とか、行事の手伝いとか」
わたしは、身を乗り出した。
「灯里さん、建物点検の仕事でしょ。あそこ、築三十年だよ。風呂の栓が毎月壊れるし、洗濯機の四番が悲鳴あげるし」
「……四番」
彼女の声が、変わった。
「知ってるでしょ」
「――知ってるわ」
*
彼女は、うつむいた。
しばらく、何も言わなかった。
「行っても、いいの」
「いいでしょ」
「私は」
「いいって言ってんの」
わたしは、草を彼女のほうへ投げた。
「あそこの子ら、大人が増えるとうれしいだけだから。あんたが誰だとか、考えないよ」
*
「……ひなたは」
彼女は、小さな声で言った。
「五歳になったわ、たしか」
「なった。年長」
「歌は」
「わたしがうたってる」
わたしは言った。
「ヘタだけど」
*
彼女は、口元を押さえた。
押さえて、しばらく、そのままだった。
日が、さらに落ちた。
河川敷の家族連れが、レジャーシートを畳んでいた。
「――ありがとう」
やがて、彼女は言った。
ものすごく、下手な言いかただった。
「へたくそ」
「うるさいわね」
「ヘタだって言ってんの」
「……練習するわ」




