5 もうひとり
泣きやむのに、十五分かかった。
その人は、そのあいだ、隣に座っていた。
草の上に。
背中をさすったりはしなかった。
ただ、隣に座っていた。
――それが、いちばんこたえた。
その座りかたを、わたしは知っている。
三年間、泣いている子の隣に座ってきた子の、座りかただ。
*
落ち着いてから、わたしは、いちばん先に、殴った。
*
左手で、肩を。
力いっぱい。
拳が痛くなるくらい。
「いって」
「うるさい」
「暴力は」
「うるさい」
わたしは、もう一回殴った。
その人は、避けなかった。
*
「八ヶ月!」
「……ええ」
「八ヶ月だよ!?」
「ええ」
「わたし、ノート三冊書いたんだけど!」
「三冊」
「覚えてる係やってたんだけど!」
わたしは、立ち上がって、怒鳴った。
河川敷の家族が、こっちを見た。
どうでもよかった。
「本人が来たら、意味ないじゃん!」
*
その人は、うつむいた。
膝の上で、手を重ねていた。
そして、ひどく小さな声で、言った。
「――ごめんなさい」
*
わたしは、そこで、言葉を失った。
あの魔女は、謝らない。
ましろは、謝りすぎる。
――いま、目の前の人は、謝りかたに迷っていた。
*
「……なんで、来なかったの」
わたしは、座り直した。
「来たわ」
「え」
「十一回」
*
「九月に二回。十月に三回。十一月に一回。一月に二回。二月に一回。三月に二回」
彼女は、指を折りながら数えた。
「全部、そこの坂の下まで来て、帰った」
「――なんで」
「会いかたが、分からなかったのよ」
*
わたしは、柏木さんの言葉を思い出した。
――会いかたって、たぶん、練習しないとできないんだよ。
*
「三年間、私は誰とも会わなかった」
彼女は言った。
「手の出しかたを、自分で切り取ってしまったから。三年ぶんの錆は、八ヶ月では落ちなかったわ」
「……」
「それに、怖かった」
*
「あなたに会って、」
彼女は、そこで一度、言葉を切った。
「あなたに、『あんたは誰?』と言われるのが、怖かった」
わたしは、うつむいた。
「――言っちゃった」
「ええ」
「さっき、言っちゃった」
「ええ」
「……ごめん」
「謝るのは、こっちよ」
*
わたしは、しばらく黙っていた。
それから、訊いた。
「あのさ」
「なに」
「確かめたいことが、一個ある」
「どうぞ」
「――わたしが、ましろに最初に近づいた理由」
*
その人は、少し笑った。
「消しゴム」
わたしの息が、止まった。
「二年生の、最初の週。あなたが落とした消しゴムを、あの子が拾って、机に置いた」
「……」
「音を立てずに」
彼女は言った。
「あなたは、こう思った。『こわいものでも持ってんの?』」
*
わたしは、両手で口を押さえた。
*
――誰も知らない。
誰にも言っていない。
わたしは、その理由を、誰にも話したことがない。
あまりにもくだらないからだ。
同情でも、善意でもなく、消しゴムの置きかたが気になっただけだなんて。
それを知っているのは、この世に一人しかいなかった。
八月一日の夜に、わたしの頭のなかを見た、あの子だけだ。
*
「――ましろ」
わたしは、そう呼んだ。
*
その人の肩が、震えた。
*
「……そうね」
「そうね、じゃなくて」
「そうね、としか」
「――ましろでしょ」
「そうよ」
彼女は、そう言った。
そして、すぐに、こうつけ足した。
「そうだよ」
*
二つの語尾が、続けて出た。
わたしは、また泣いた。
この日、わたしは人生でいちばん泣いた。




