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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
終章 面影

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4 面影

 四月六日。


 始業式の、前の日だった。


 わたしは、明日から三年生になる。


 新しいクラス発表は、明日の朝、昇降口に貼り出される。


 あの子は、そこにいない。


 去年の四月は、名簿に「湊真白」があった。


 わたしは、それを見て、「うわ、また一緒じゃん」と思った。


 思っただけで、口には出さなかった。



 夕方、わたしは土手に上がった。


 理由は、なかった。


 毎日通る道だ。


 ただ、明日から三年生だから、なんとなく、見ておきたかった。



 桜が、満開だった。



 通学路の、桜並木。


 六月には緑がもさもさしていて、八月には蝉がうるさくて、十一月には葉が全部落ちた、あの木だ。


 それが、いま、白とうすいピンクで埋まっていた。


 風が吹くたびに、花びらが、ざあっと散った。


 散って、落ちた。


 当たり前だ。


 花びらは、落ちる。



 河川敷では、家族連れが弁当を広げていた。


 子どもが走り回っていた。


 どこかで、缶ビールを開ける音がした。


 夕方の光が、川の水を、オレンジ色にしていた。



 わたしは、いちばん端まで歩いた。


 人がまばらな、あの場所。


 毎年空いている。木で半分見えないから。


 ――()()()()()()()()、じゃない。


 わたしは、もう、誰とも話さないためにそこへ行っていた。



 正直に言うと、その日、わたしはもう、諦めかけていた。


 八ヶ月だ。


 江東区の公園を十四か所まわって、誰もいなかった。


 一月に土手で見たのは、たぶん、ただの見間違いだった。


 ノートは三冊になって、四冊目は真っ白のままだった。


 書くことが、もう無いからだ。



 三年生になったら、受験だ。


 夏には模試があって、秋には願書を書いて、冬には試験を受ける。


 そのあいだに、わたしはたぶん、もっと忘れる。


 声を忘れたみたいに、次は笑いかたを忘れる。


 次は、歩きかたを。


 次は、消しゴムの置きかたを。


 ――()()()()()()()()()()()()()()()()


 ずるいと思った。


 でも、わたしがずるいんじゃない。


 時間がずるいのだ。



 だから、その日わたしが土手に上がったのは、()()()()()()()()だったからかもしれない。


 明日から三年生。


 いいかげん、前を向け。


 そういう、よくある区切りみたいなものを、わたしはつけに来ていた。



 そして。



 桜の下に、人が立っていた。



 黒だった。


 長い、黒いコート。黒い服。黒い靴。


 背が高くて、細い。


 ぞっとするほど細いのに、折れそうな感じがまったくしない。


 黒い髪が、白い喉のあたりで影を作っていた。


 その人は、こちらを見ていた。



 わたしは、知っていた。


 その顔を、知っていた。


 六月の、駅前で。


 八月の、二百三十メートルの上で。


 わたしは、この人を、二回見ている。


 二回目は、()()()()()()()()()()()


 だから、間違えようがなかった。



 なのに。



 ――()()()()()()()()()()()()()()



 立ちかたが、違った。


 あの人は、いつも、まっすぐに立っていた。


 傘を差さずに、雨に濡れずに、誰にも寄りかからずに。


 いま、その人は、片手を、桜の幹に添えていた。


 寄りかかるでもなく、支えるでもなく、ただ、木に触れていた。


 ――()()()()()



 そして、わたしに気づいたとき。


 その人は。



 ()()()()()()()()()



 口の端が、ほんの少しだけ上がって。


 眉が、ちょっとだけ下がって。


 どう言えばいいのか分からない、という顔で。



 ――()()()()()()()()()()()()()()()()



 五十回近づいて、四十九回半歩下がった子が。


 卵焼きの感想を訊かれて、変じゃないかと三回訊いた子が。


 その顔を、していた。



 わたしの膝が、震えた。


 持っていた鞄が、手から落ちた。


 中身が半分こぼれた。


 拾えなかった。



「……誰?」



 声が出た。


 自分の声とは思えない声だった。



 その人は、答えなかった。


 かわりに、桜の幹から手を離した。


 そして、その手を、上へ持ち上げた。


 細い指が、夕方の光のなかで、白く見えた。



 ――()()()



 指が、鳴った。



 その瞬間。



 落ちていた花びらが、()()()()



 風に流されながら地面へ向かっていた、何百枚もの花びらが、宙で静止した。


 そして、ゆっくりと、()()()()()()()



 一枚、二枚ではなかった。


 桜並木ぜんぶだった。


 散っていた花びらが、いっせいに向きを変えて、空へ昇っていった。


 夕方の光を受けて、ピンクに光りながら。


 うすい雲みたいに、川の上を漂いながら。


 河川敷の子どもが、「うわあ」と叫んだ。


 弁当を広げていた家族が、空を指さした。


 誰かが、スマホを構えた。


 風が変わっただけだと、みんな思っただろう。


 ――()()()()()()()()()()()()()()



 わたしは、空を見ていなかった。


 その人を、見ていた。



 花びらが昇っていくあいだ。


 その人の輪郭が、()()()()



 水のなかの景色みたいに。


 黒いコートの線が、ぼやけて、細くなって。


 背が、少し縮んで。


 髪が、短くなって。


 そして。



 ほんの一秒だけ。



 ()()()()()()()()()()()()



 着古したTシャツ。


 うつむきがちの、猫背。


 ちょっと遅れて笑う、あの顔。


 三年間、廊下の端しか歩かなかった女の子が。



 わたしは、声を出さなかった。


 出したら、消えると思った。



 一秒後。


 輪郭が、また揺らいで。


 黒衣の女に、戻った。



 花びらが、まだ昇っていた。


 その人は、空を見上げて、こう言った。



「――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()



 その声は、低かった。


 あの人の声だった。


 冷たくて、静かで、高圧的な。


 ――()()()()()


 語尾が、ほんの少しだけ、柔らかかった。



 わたしは、動けなかった。


 口だけが、勝手に動いた。


「……あんた」


「ええ」


()()()()()



 その人は、こちらを見た。


 黒い目だった。


 底のない、井戸みたいな目。


 その底のほうに、なにか、あたたかいものが沈んでいた。



「どっち、というのは」


「ましろなの? それとも」


 わたしの声が、震えた。


「それとも、あの、魔女の人なの?」



 その人は、首を振った。



()()()()()()()()()()()()()()()()



 彼女は言った。



()()()()()()()()()()()()()



 ――その言いかたに、わたしは、崩れた。



 「だよ」なんて。


 あの魔女は、絶対に言わない。


 あの人は「なのよ」としか言わない。


 「だよ」は、ましろの言いかただ。


 二つの言葉が、一つの口から、当たり前みたいに出てきた。



 わたしは、その場に座り込んだ。


 桜の花びらが、まだ空を昇っていた。


 わたしは、両手で顔を覆って、みっともない声で泣いた。

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