4 面影
四月六日。
始業式の、前の日だった。
わたしは、明日から三年生になる。
新しいクラス発表は、明日の朝、昇降口に貼り出される。
あの子は、そこにいない。
去年の四月は、名簿に「湊真白」があった。
わたしは、それを見て、「うわ、また一緒じゃん」と思った。
思っただけで、口には出さなかった。
*
夕方、わたしは土手に上がった。
理由は、なかった。
毎日通る道だ。
ただ、明日から三年生だから、なんとなく、見ておきたかった。
*
桜が、満開だった。
*
通学路の、桜並木。
六月には緑がもさもさしていて、八月には蝉がうるさくて、十一月には葉が全部落ちた、あの木だ。
それが、いま、白とうすいピンクで埋まっていた。
風が吹くたびに、花びらが、ざあっと散った。
散って、落ちた。
当たり前だ。
花びらは、落ちる。
*
河川敷では、家族連れが弁当を広げていた。
子どもが走り回っていた。
どこかで、缶ビールを開ける音がした。
夕方の光が、川の水を、オレンジ色にしていた。
*
わたしは、いちばん端まで歩いた。
人がまばらな、あの場所。
毎年空いている。木で半分見えないから。
――話がしやすいから、じゃない。
わたしは、もう、誰とも話さないためにそこへ行っていた。
*
正直に言うと、その日、わたしはもう、諦めかけていた。
八ヶ月だ。
江東区の公園を十四か所まわって、誰もいなかった。
一月に土手で見たのは、たぶん、ただの見間違いだった。
ノートは三冊になって、四冊目は真っ白のままだった。
書くことが、もう無いからだ。
*
三年生になったら、受験だ。
夏には模試があって、秋には願書を書いて、冬には試験を受ける。
そのあいだに、わたしはたぶん、もっと忘れる。
声を忘れたみたいに、次は笑いかたを忘れる。
次は、歩きかたを。
次は、消しゴムの置きかたを。
――そうやって、人は、人を終わらせていく。
ずるいと思った。
でも、わたしがずるいんじゃない。
時間がずるいのだ。
*
だから、その日わたしが土手に上がったのは、最後にするつもりだったからかもしれない。
明日から三年生。
いいかげん、前を向け。
そういう、よくある区切りみたいなものを、わたしはつけに来ていた。
*
そして。
*
桜の下に、人が立っていた。
*
黒だった。
長い、黒いコート。黒い服。黒い靴。
背が高くて、細い。
ぞっとするほど細いのに、折れそうな感じがまったくしない。
黒い髪が、白い喉のあたりで影を作っていた。
その人は、こちらを見ていた。
*
わたしは、知っていた。
その顔を、知っていた。
六月の、駅前で。
八月の、二百三十メートルの上で。
わたしは、この人を、二回見ている。
二回目は、ましろの目でも見ていた。
だから、間違えようがなかった。
*
なのに。
*
――知らない人が、そこに立っていた。
*
立ちかたが、違った。
あの人は、いつも、まっすぐに立っていた。
傘を差さずに、雨に濡れずに、誰にも寄りかからずに。
いま、その人は、片手を、桜の幹に添えていた。
寄りかかるでもなく、支えるでもなく、ただ、木に触れていた。
――触れていた。
*
そして、わたしに気づいたとき。
その人は。
*
困ったように、笑った。
*
口の端が、ほんの少しだけ上がって。
眉が、ちょっとだけ下がって。
どう言えばいいのか分からない、という顔で。
*
――わたしは、その笑いかたを、知っている。
*
五十回近づいて、四十九回半歩下がった子が。
卵焼きの感想を訊かれて、変じゃないかと三回訊いた子が。
その顔を、していた。
*
わたしの膝が、震えた。
持っていた鞄が、手から落ちた。
中身が半分こぼれた。
拾えなかった。
*
「……誰?」
*
声が出た。
自分の声とは思えない声だった。
*
その人は、答えなかった。
かわりに、桜の幹から手を離した。
そして、その手を、上へ持ち上げた。
細い指が、夕方の光のなかで、白く見えた。
*
――ぱちん。
*
指が、鳴った。
*
その瞬間。
*
落ちていた花びらが、止まった。
*
風に流されながら地面へ向かっていた、何百枚もの花びらが、宙で静止した。
そして、ゆっくりと、上がりはじめた。
*
一枚、二枚ではなかった。
桜並木ぜんぶだった。
散っていた花びらが、いっせいに向きを変えて、空へ昇っていった。
夕方の光を受けて、ピンクに光りながら。
うすい雲みたいに、川の上を漂いながら。
河川敷の子どもが、「うわあ」と叫んだ。
弁当を広げていた家族が、空を指さした。
誰かが、スマホを構えた。
風が変わっただけだと、みんな思っただろう。
――そういうことにしておけばいい。
*
わたしは、空を見ていなかった。
その人を、見ていた。
*
花びらが昇っていくあいだ。
その人の輪郭が、揺らいだ。
*
水のなかの景色みたいに。
黒いコートの線が、ぼやけて、細くなって。
背が、少し縮んで。
髪が、短くなって。
そして。
*
ほんの一秒だけ。
*
そこに、湊真白が立っていた。
*
着古したTシャツ。
うつむきがちの、猫背。
ちょっと遅れて笑う、あの顔。
三年間、廊下の端しか歩かなかった女の子が。
*
わたしは、声を出さなかった。
出したら、消えると思った。
*
一秒後。
輪郭が、また揺らいで。
黒衣の女に、戻った。
*
花びらが、まだ昇っていた。
その人は、空を見上げて、こう言った。
*
「――昔の彼女は、この力で誰かを持ち上げられるなんて、知らなかったから」
*
その声は、低かった。
あの人の声だった。
冷たくて、静かで、高圧的な。
――それなのに。
語尾が、ほんの少しだけ、柔らかかった。
*
わたしは、動けなかった。
口だけが、勝手に動いた。
「……あんた」
「ええ」
「どっちなの」
*
その人は、こちらを見た。
黒い目だった。
底のない、井戸みたいな目。
その底のほうに、なにか、あたたかいものが沈んでいた。
*
「どっち、というのは」
「ましろなの? それとも」
わたしの声が、震えた。
「それとも、あの、魔女の人なの?」
*
その人は、首を振った。
*
「どちらかに切り替わるんじゃないの」
*
彼女は言った。
*
「私たちは、もうひとりなんだよ」
*
――その言いかたに、わたしは、崩れた。
*
「だよ」なんて。
あの魔女は、絶対に言わない。
あの人は「なのよ」としか言わない。
「だよ」は、ましろの言いかただ。
二つの言葉が、一つの口から、当たり前みたいに出てきた。
*
わたしは、その場に座り込んだ。
桜の花びらが、まだ空を昇っていた。
わたしは、両手で顔を覆って、みっともない声で泣いた。




