7 三年生
暗くなってきたので、わたしたちは坂を下りた。
彼女は、黄色い傘を片手に持っていた。
晴れているのに。
差してもいないのに。
持ちかたが、下手だった。
*
「これから、どうするの」
「働いてるわ」
「え、働いてんの?」
「なぜ驚くの」
「いや、なんか、魔女って働かないイメージが」
「家賃は魔女にも発生するのよ」
わたしは、また笑った。
*
聞いたら、江東区の、小さな不動産管理の会社だった。
建物の点検と、修繕の手配をする仕事だという。
「向いてるでしょう」
「……ああ」
わたしは、納得した。
「建物の重さ、見えるもんね」
「壁のなかの鉄筋が何本足りないかも分かるわ」
「それ、めちゃくちゃ優秀じゃん」
「そうでもないわ。報告すると、上が困るのよ」
*
「あのさ」
「なに」
「公園のベンチに、毎週座ってた?」
彼女の足が、止まった。
「――誰から聞いたの」
「柏木さん」
「あの子」
彼女は、額を押さえた。
「……座ってたわ」
「なんで」
「会社の近くなの」
「それだけ?」
「それだけよ」
絶対に嘘だった。
わたしは、追及しなかった。
*
坂の下で、わたしたちは立ち止まった。
街灯がついた。
虫が、その周りを回りはじめていた。
「わたし、明日から三年生」
「そう」
「クラス発表、明日の朝」
「そう」
「……あの子、いないんだよね。名簿に」
*
彼女は、答えなかった。
しばらくして、こう言った。
「――私は、高校に通えないわ」
「知ってる」
「二十九だもの」
「うわ、聞いてない」
「聞かれてないもの」
*
わたしは、その場でしゃがみこんで、笑った。
笑いながら、こう言った。
「じゃあさ」
「なに」
「土手」
わたしは、坂の上を指した。
「ここ、毎日通るから」
*
彼女の肩が、動いた。
八月七日の夜、わたしが言ったことを、この人は覚えている。
――もし、なんかの間違いで、ましろがまだどっかに残ってたら、土手に来て。
*
「三年生も通るから」
わたしは言った。
「卒業しても、たぶん通るから」
「……ええ」
「だから」
わたしは、立ち上がった。
「また来て」
*
彼女は、うつむいた。
黄色い傘を、両手で持ち直した。
そして、ひどく下手な言いかたで、こう言った。
「――来てもいい?」
*
わたしは、泣かなかった。
その日、もう十分泣いたからだ。
かわりに、思いきり息を吸って、言った。
「当たり前でしょ」
*
彼女は、坂を下りていった。
黒いコートに、黄色い傘。
ものすごく、へんな組み合わせだった。
三十メートルくらい行ったところで、一度だけ、振り返った。
そして、手を上げた。
――ぎこちなく。
手の振りかたも、練習が要るのだと思った。
*
わたしは、坂の上に立って、それを見送った。
姿が見えなくなってから、もう一度、土手に上がった。
*
桜は、まだ散っていた。
花びらは、もう、ふつうに落ちていた。
風に流されて、川へ落ちて、水に浮かんで、流れていった。
当たり前のことだ。
落ちるものは、落ちる。
それが、この世界の決まりだから。
*
――でも。
*
わたしは、そこに立って、空を見上げた。
夕方に昇っていった花びらは、もう見えなかった。
どこかへ行ったのだろう。
風に乗って、街のほうへ。
ビルの屋上とか、誰かのベランダとか、知らない人の肩の上とか。
*
この街は、いま、二十四グラム重い。
千四百万人が、それを持っている。
誰も、気づいていない。
誰も、知らない。
明日も、みんな、ふつうに電車に乗って、ふつうに働いて、ふつうに帰る。
そのことについて、誰も、何も言わない。
*
わたしは、鞄から、ノートを出した。
四冊目だ。
三月に買った。
まだ、一行も書いていなかった。
書くことが、もう無いと思っていたからだ。
*
わたしは、坂の上に立ったまま、ペンを出した。
そして、最初の行に、こう書いた。
*
『四月六日 土手 帰ってきた』
*
書いてから、少し考えて、もう一行足した。
*
『灯里さん 二十九歳 不動産 傘の持ちかたが下手』
*
わたしは、ノートを閉じた。
鞄に入れた。
――覚えてる係は、まだ続く。
たぶん、一生続く。
この人のことを覚えている人間は、この世に、たぶんわたししかいない。
あの子のことも。
あの子が、三年間、廊下の端しか歩かなかったことも。
物に謝っていたことも。
東京中に、二十四グラムずつ配ったことも。
*
誰も知らない。
*
――でも、わたしは知ってる。
*
わたしは、坂を下りて、家に帰った。
夕飯は、唐揚げだった。
お母さんが、「あんた、なんかいいことあった?」と訊いた。
わたしは、「べつに」と答えた。
――明日から、三年生だ。




